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新神話概観・・・梵によるはじまり

 

空なるところにひとつの玉のような意識があった。
周りには何もない無限の広がりのみであった。我々が考える時間とか空間といったものは
ない。
固有名詞をつけ時系列に話さねば理解できない世の人のために述べるなら、ひとつの意識
の名は「梵」。彼の夢の開始点がどのあたりであったか定かではないが、ひとりあることに
寂しさを覚え、自らを別けて双身とした。双身はしばし互いに愛で合った後、それでも不足を感
じて、次々と別け身を創り出すことを繰り返し、その数は無数に増えた。その全体の姿
は、最初の双身(父母)を頂点として繁茂する逆さ樹木のようであった。それを「梵の全
系」という。「梵」の冠の林とつくりの凡には、おしなべて林のように見えるという意味が
ある。また、神棚に供える榊(さかき)とは、「逆さ木」の意味であり、常緑樹であること
によって永遠性を表現している。
あるいは逆ツリーの姿ゆえ、下位を「根」という表現を以てする。いずれも玉(意識)の連鎖
によって成る情報系を意味しているのである。 (理論は下の図をクリックさ れたい)

ところが、個々の玉(意識)は全能であった。それぞれに宇宙を造形する能力を持ち、それぞれ
が引き篭もれる宇宙を持ち、遊んでいた。だが、他の音信を聞き、しだいに近接した者同士で相互
交流するようになり、アイデアを元にした組織を作るようになった。組織で共通の宇宙を創り出し、
面白さを工夫するようになった。そのようにして生じた宇宙には、失敗作も多々あったが、
独創性の発揮を芸術とばかり、さらに工夫するようになる。
その能力は、魔法の力というべきもので、夢を作る能力といってよい自在のものであった。
というのも、原理的に魔法で作られるものは、すべてオリジナル言語で書かれたプログラ
ムであったからで、そこに意識の個々が参照光を当てることにより、観測されるものとなったから
である。その原則は変わらない。だが、みんな魔法の能力を柔軟自在に駆使して、そのよ
うな基本を忘れたように行動した。
そのようにしてできた宇宙の一つに、この宇宙があった。最初に理念と目的をはっきりさ
せた設計がなされ、それに従って宇宙は生まれたのである。
祖形の宇宙に入った意識たちは、創意工夫する科学者のようだった。梵天、弁天、ウーラ
ノス、クロノスといった科学者が宇宙の基礎を作り、参加希望者に来場を促した。その人柄によって
興味した者たちが続々訪れた。その協力のおかげで、祖形宇宙はしだいに諸原理を明確化
させ、細かいところまでが定まっていった。
ひとつの宇宙の雛形を与えた後、梵天と弁天は、志をクロノスに託して隠れ、その後クロ
ノスは生命宇宙の基を作るまでにした。そこには幾多の意識が訪れて楽しむようになったため、
一過性の風のような見聞では物足りなかろうと、意識の長期滞在のための視座(思惟の座)として
生命を創り出し、意識は生命体の個々に宿ることのできるものとなった。

生命体には、宇宙の諸元を使ったあらゆる形態が考案された。諸原理の整備に伴って、た
とえば真空生命体、プラズマ生命体、物質生命体、原子レベル生命体などへと展開した。
創造精神豊かな純粋な魂ばかりが集まって、クロノスの土台をカンバスにして、創意工夫を
出し合って、それはそれは善意と愛と情熱に満ちた見事な世界が生まれたのだった。
細かいところまで意識の目は入り、そのことによって、些細なことでは壊れたりしないものとなった。
プログラムで言うなら、みんなの取り組みの熱意によってバグの極めて少ないものとなったのだ。
ところが、宇宙が安定的に運営されて長く経ったころ、この宇宙を自分たちのいいようにしたい
という変則な意識がたくさん入ってきた。彼らは作りあがった見事な土台を改変しようとする者
であった。というのも、この宇宙に当初設定した「エバーグリーンの理念」が、しだいに「生成衰滅」
性を持たされていったからである。美しい永遠の常緑樹にあちこち茶色の病変が生じだしたのだ。
クロノスはそこに流入する意識の側の変節を感じたが、それもいっときのものと思い警戒すること
はなかった。それだけ、みんな善良だったのである。
PCで言い換えるなら、セキュリティレベルが低かったと言ってもよい。Win95の出だしの時代には
パソコンを楽しむだけの人で満ちていた。ところが、そこに邪意悪意が混入するようになったのも、
ユーザーの中に邪悪を以て引っ掻き回そうとするヤカラがいたからである。

 

彼らは自らを人仙グループと名乗り、高度思考能力を持つ生命体の開発実験のためにやっ
てきたと告げた。
理念の展開に沿った者の到来として、クロノスらは歓迎したが、彼らは以前の宇宙で、競争と
闘争ゲームに熟練した者たちであった。このため、クロノスたち古参の科学者の意向を汲
まないトラブルを頻繁に起こすようになった。
せっかく作った芸術作品を、人仙がやってきて謀略で壊してしまう。初めは小さな子供同士の
つかみ合いの喧嘩のようなことだったものが、ついに古参者と新参者の間での戦争となる。
仲裁にあたったクロノスはじめ、多くの参加者は意識を失わされ、その間に封神処理が施され、
神界という収容所に入れられて、人仙たちの下働きをさせられることとなったのだ。
勝者は天仙として仙界に住み、下位の神界からは認識できなくして、神々の行動を監視した。

クロノスのときに、高度思考力を備えた原人たちが作られていて、多くの意識がそこにちょう
ど潜水服のように入って、地上の開拓作業をしていた。彼らは、封神処理の間、上位界で
何が行われているか知らぬままに放置され、いつしか意識を退化させていったのである。
天仙は、世界を仙界、神界、霊界、幽界、人界、地獄に別けた。上位から下位を制御でき
ても、逆ができないようにしたのである。
クロノスは創造当時の記憶を呼び起こすたびに、梵天に訴えた。理念が過激に遂行されて
しまったと。なにゆえかよくわからない。どうしたことなのでしょう、と。彼の記憶は多く消されていた。
梵天は、全体を知る者ゆえ、何が起きているか分析するためにも、もう少し様子を見ることにした。
クロノスには、再び廻り来る春もある。よほどのことがない以上、静観するのがよいのではない
か、と諭した。だが、それからクロノスの消息が途絶え、人仙から拷問を受けていることを知り、
その「よほどのこと」に関して調査が入ることになった。介入が必要であると判断されたのである。

 


火の鳥の真義

 

火の鳥は古来より、これが現れる時代は世が根底から覆る時であると思われていた。
すべての地上の文明がその寿命を終える時、必ず地上を火災が覆い尽くした。その原因
を火の鳥に求めたのである。
その時代には、世の矛盾に疲れた人達の願望が嵩じ、正義によるのかそれともその他の
動機で起動されるか分からぬ、謎に満ちたシステマチックな摂理に人気が集まった。
なぜならそれは、迷路に迷い行き詰まってどうにも動きの取れぬ状況の、最終的な打開、
最終解放をもたらす手段と認識されたからであった。
宇宙。それは有情すなわち魂と普通言われる永遠の存続が謳われた意識ある主体が、自
らの生きている証しとして様々な体験時空の中に意識の目を置いて、自分と被造物の関
係を認識するために作られた仮想時空である。
それは多くの意志によって作られたとも、単一の意志によってつくられたとも諸説ある
が、元はといえば意識の主体が楽しむべく設計されたテーマパークであった。

その中で、火の鳥の初元的意義はこうである。
この宇宙ができあがるとき、これを設計した太古の神(と言っていいであろう)は、宇
宙の土台に存在を維持するための基盤となるエネルギーを封入した。それは宇宙の膨張
と共に普遍し、科学的に言われる黒体輻射となった。それはいつも宇宙に体温があって
生きていることを証していて、その暖かさは愛と目されていた。
だが、設計者はこの中に更なる愛を込めていた。それは、精緻に作られたものであれば
あるほど、それにのめりこみ固執を招く可能性を持っているゆえに、その傾向を戒め、
有情に本来備わった相を取り戻させるための摂理として用意された。それが、破壊と焼却を
以てする火の鳥であった。つまり、緊急避難処理機構だったのである。

 


意識の退化・・・のめり込みを助長するシステム

 

この世に生きる者は、本来備わった相など知る由もなく、また知る必要のない、むしろ
知っては興趣が削がれるところのものとされていた。たとえ ば、ネアンが宇宙船の中で
「蚊」の一生を、そのものに成りきって体験した如くである

だから、ともすれば、有情はテーマパークに遊ぶうち、自らの元の性質を忘れ、あるい
は失い、その仮想的対象こそを事実、実態と誤認するようになる。
テーマパークの主催者は、細心の注意を払い、極端にならぬための政策を取ることにな
っていた。
封神の後、神界に登場した政府は、まだしも良識の府であった。当初の科学者的建設的
思考が自然ににじみ出て、輝ける魂の神々が支配的だった。
元々が善良な魂ばかりだったからである。
正義は誠実の表れとしていつもあった。人界の管理は、適切に施され温かみに満ちていた。
ところが、人仙はそこに邪悪の種を発芽させる実験をする。
神界に仙界から功利主義や競争精神が持ち込まれ、誠実さ必ずしも得にならぬ例が続出
してきた。暗い時代の到来を思わせるように、神界の空も灰色がかり、色あせていった。
神界も人界もこれに伴い、邪悪が先行し始め、不安定化した。
だが、建て直す神が現れた。国常立神である。彼は、正義を揺るがす行為を戒め、神界
のあり方を正した。こうして、神界人界とも元のよすがを取り戻したのだ。何度にもわたる再来であった。
しかし、天仙(人仙)の存在は、彼らの把握できるところにはなかった。封神処理がされていたから
である。天仙は計画を中座させられ、面白みが削がれたのを見て、魂を持たない杖の眷属
を国常立神の討伐に向かわせた。これはいわゆるゾンビであり、噂に聞く梵天の意識の目が
宿らないことが見込まれていた。仙界から密かに下ろされ、天仙とは無関係に装いつつ、
邪悪な精神性を神界にふりまくのである。
国常立神の正義に基づく厳格な執政を恐れる者たちの間に不安が嵩じていた中に、黒い陰謀
が投入された。神界にクーデターが起こされたのである。ここでも、ゾンビを直接関わらせる計画で
はなかったが、心が軟弱な側近たちに暗殺は不可能だったため、ゾンビにやらせてしまった
のだ。今度ばかりは、二度と再来できないように呪詛が施されたのだった。
ゾンビは、プログラムの観点からすれば、ウイルスのコードのようなものである。
あたかもセキュリティを破ってきた不明瞭な外部からの侵入者のように見えるのだ。
主催者が革命によって交代した後、人界の文明の進歩はどんどん加速させられた。
バラエティーに富んだソフトを編み出し、有情を虜にした実績によって批判的な外圧を
かわすようになって、芸術性などは無視されていったのだ。その急ぎ仕事ぶりには、何かの目的が
あるかのようだったが、まだ梵天の知るところではなかった。
そしてあろうことか、天仙主導の急加速度世界を、夢の楽園と銘打ち、梵の全系にある外野に
向けて宣伝がかけられた。根っから純粋な意識たちの間では、非常に面白いテーマパークだとの
評判が立った。
お子様連れでぜひいらっしゃい、とさえ宣伝された。
そこに入る者は、まず控え室で幾つかの説明を受けて書類にサインすることになる。
それは契約書というものであり、このテーマパーク内にある限り適用されるルールで構成されていた。
魂の記憶を消すこと。以前の名前を忘れることなど。
書類にはなにやらややこしい文も書いてある。
それに同意するなら、サインして無料で入室できるという具合だ。
純粋な魂たちは、初めて見る契約書なるもののことよりも、施設の誠実さを信じて、面白さを味わい
たくて来ているためサインする。
だが、入る人数と出てくる人数の差が歴然としていた。回転ゴンドラのように同数になることがない。
還らぬ魂たちを心配して梵天に訴える眷族が増えた。梵天が行って掛け合うが、主催者
はみんなルールを守って楽しんでいる最中であると答え、さらに追求すれば、サイン入
り文書を見せて、ほらこの通りと言い逃れ方をした。
テーマパークはやはりプログラムである。そこに有情は試し火の火を入れてプログラム
を実行しながら観測する。己が意識を忘却の麻酔プログラムで麻痺させて、命の誕生か
ら終わるまでの課程を楽しむのである。
彼の欲望のすべてを満たすには命は短く設定されており、また課程の中で新たな欲求を見出し
て、次の更なる経験を欲するように設計されていた。射幸心をたえず煽るようになっていた。
欲求が生まれれば、その需要に応えて、次の生のポジションから果たすべき課題までが
功過得点によって計算し直され、周到なプログラムが用意される。参加者はみなプログ
ラムである対象を、マリオのゲームの如く相手にしながら、そこに出てくる敵と戦い、
味方と出会い、様々な試練を乗り越えて到達点に至ろうとするのであった。
それで未達のタイムオーバーなら、次の輪廻がシステマチックに用意される。
その間に、別の欲望や過失や故意などが新たな功過を生み、またも採点の対象とされて
いく。これらをことごとくクリアーするために、何百何千という輪廻転生を繰り返すのである。
その時間の中で、参加者はいつしか自らの出自を忘れ、有情というものになってしまう。
有情の数はあまりに多く、多くはシステマチックに処理されるが、特別に評議の場にか
かり、恩情的措置やたしなめ的懲罰措置を受けて、また戻される。
針の穴を通すほどの確率でしか抜け出すすべはない。こうしてテーマパークは、あたか
も地上の楽園と銘打たれ外部宣伝がかけられたかの国の如しであった。が、その実態は強
制収容施設であったのだ。
これはどうもおかしいと、隠密が放たれた。その中にネアンらのプロジェクトもあった。
しかも、火の鳥使いが直々に乗り込んできたことは、テーマパークの廃絶をも視野に入
れたプロジェクトであったことになる。
ところが、テーマパーク主催者である天仙は、永久的存続を願った。
自らの支配権の永続という幼稚な精神性が支配原理となったとき、悲劇が生まれるのは歴史が
物語っている。
彼の傘下にあるすべての生き物の希望を、存続一色に染め上げることをまず行った。
教育、暗示という方法で、存続しないことの悲劇を強調し、非存続に向かうことに苦痛を与え、
存続に向かうことに安堵感と称賛を際立たせて、飴と鞭の効果を活用した。
だがそれは、真の意味の魂からの希望ではなく、無知なレベルで為した希望でしかない。
魂の意識は、肉体の意識の配下に置かれて半睡、不満を嵩じさせないために、睡眠時
の解放で疑似的に創造行為をさせて慰めるという方策をとった。
自己保存本能を盛んにして、破壊時における懲罰的痛みとワンセットにして、生きることを
希求せざるを得なくした。その傾向を遺伝子にも組み込んでいき、このテーマパークへの執着心
を魂の性向からして変えて刻み込んでしまおうというのである。
痛みの中でもがき必死で生きんとする様。それは傍目から見れば涙ぐましいものに写る。
だが、それは死への恐れと次の輪廻への欲求となるばかりである。
ところが、それでも支配者は宇宙の存続に満足が見出せないと知るや、さらに別の方法を
編み出した。
すなわち、善と悪を戦わせてそこから生ずる残留思念を存続エネルギーにしようとしたの
である。悪の力が上回っていればいるほど、善はその矛盾に対してすさまじいストレスエ
ネルギーを発散するが、それが宇宙存続の原動力となるというのだ。
結果、そこに閉じ込められた有情たちは、思うように行かない、悪い差し障りがあるなど
の不幸の客体となる。ときおり順調に行く晴れの時間をその中に織り交ぜれば、いつか不
幸を脱して幸福になれると思い努力する。それが錯覚であっても、土台が存続しなければ何事
も実現しないと錯覚しているから、またも輪廻してまでもの存続を希望するのである。

「ここでもっと生きたい。経験したい。輪廻転生したい」といった有情の希望は、ただちに外野に
伝えられる。ほうら、こんなに楽しんでおられるじゃありませんか、と。
この方法がいつまで効果があるかわからないが、宇宙に幾つかのポイントを設けて、そこ
で善悪のせめぎ合いをさせるだけでたいそうな効果があることも分かったとみえる。
そのようなポイントの一つが地球という惑星であった。
地球には、かつて反逆者とか戦犯と呼ばれた者たちが多く下ろされた。彼らは何が真実で
あるか心底知っていたため、戦勝者に対して表向き帰順の意を表明しても、心中迎合しな
い者が多くいた。
そこで完全な敗北観念を抱くように、洗脳教化する強制収容所として作ったのである。
彼らはもとより正義と秩序を重んじる者たちであったから、正義の元が心地よいので集
まろうとする純粋さを備えていた。ところがそこに、ならず者やごろつきや刺客を高見
から見下ろしていて送り込むのである。同じ外形をした仲間としてくるものだから、そ
うとはわからずトラブルになる。まとまろうとする正義の一団はまとまれず、内部崩壊
してしまう。あるいは外部からならず者の兵隊が来て潰してしまう。こうして、正義は
いつまでも成り立たず、心ある者たちの心の中に理想として秘められるに止まったので
ある。それがまたも錯覚させて、土台の存続を希求させることになった。

戦勝者の干渉は、地球に下ろすものたちの形態にも及んだ。
地球は50億年の年月の上に生命が進化し、人間を頂点とする生態系が築かれ、宇宙船
地球号の中で生命輪廻のサイクルが営まれている。だが、そこに生息する動植物の多くに、
実験の痕跡が残されている。いわゆる遺伝子工学の、である。
今の人類もそのご多分にもれない。地球に当初存在した人類は、類人猿的であったが、
人類として登場した者は、準・神人であった。これを原人という。
この原型から、何かを足しても引いても、支障があるほどに完璧であった。観測できる
視野のレンジは広く、形而上の実体をも見通すことができた。子供は、父母の頭頂から
気の塊として生まれ、長ずるに従い物理的な形を整えていくのである。幽体と言われる
形で生まれ、肉体をしだいに纏うという生長を遂げたのだ。生命の木の図章は、もとは幽体の
象徴化された解剖図なのである。
その原型は、敗戦者の技術によってこの上なく創られていたため、戦勝者はこの秘密を
解き明かそうとして、いくつもの不具を創ってしまった。どうしても武力以外の分野で
力が及ばないと知った戦勝者たちは、地球上の原型人類を収監して、そこからできた不
具と動物をあいのこにした生き物を、人間として下ろすことにした。
具体的には、宇宙人が人間の遺伝子改造を行った形だが、未だに幽体との整合が図れな
いでいるために、満足な寿命が保てずにいる。
戦勝者は、技術的に劣勢なのを逆恨みし、原人をあらゆる皮肉を込めて改造した。
その端的な例が、子供が汚物排泄口のあわさいから生まれるようにしたことである。
かつての原動物はいっさいの子供を子孫を大事に生み育てる理念の下、頭頂から生み出
していた。それを汚物の次元にまで貶めたのはひとえに戦勝者の企みである。それは、
人々や動物を支配する彼らの方針を表していた。
シュメールやギリシャの神話などは、人間は神に嫌われた存在であったとしている。
インド哲学も、この世の輪廻から解放されることのみを希求し、そのための実践哲学の
体系を創っていった。
若干、タイムを取ろう。ただいま正神の中から、この筆者ネアンに対して、人界の存在意義を
肯定する意見がもたらされたので、書き記したい。

 


人界の意義・・・進歩になるのだという説

 

人界は広大無辺な宇宙全体のうちにある、ひとつの次元時空であり、有情の意識が好みに
応じて居心地の良い次元時空に本拠を置くとき、宇宙の全体像を把握させたり、自己中心
に陥りがちになる意識たちに他のステージを理解させるといった理由から、他の意識に対
して働きかける(相互作用する)機会を作るべく設けられている、という。
よって人界には、天人阿修羅地獄餓鬼畜生に大別される次元時空から、様々な性格の者が
共通の交流の場を求めてやってきている。それはさながら、ディスコに集う若者の群れと
いった感じであり、慎ましく高貴な魂から、粗暴乱雑な魂、あるいはアウトローな者まで
が混在し、それぞれ他の者から、あるいは成行から、自己を改変する手懸りを得ていくと
いう。
人として生まれた者は、ちょうど老人ギブスをはめて活動する如く、元あった力を減殺し、
造形困難なマテリアルを使って、共同の建設的作業などを通して、自らのありかたや考え
方をグローバルなものに改変させていくというのである。それを魂の進化と言っているら
しい。
その下地に、有情はすべて、機会、可能性、与えられた時間において平等であることが謳
われているという。
また、大から小に至るまでの局面でストーリーがあるが、文明の進歩や支配的思想の変遷
は、相互作用の仕組みと角度を少しずつ変化することにより、進歩の形態を多様にしてい
るという。

だが、ネアンはそれを聞きざま、欺瞞であると断言する。
その理由として、そこまで配慮されたシステムならば、なぜ古来から宗教者が頻繁に出て
精神論を説かねばならなかったのか。釈迦などは、衆生に心のレベルにおける解脱を説い
ている。それは、いかに耐え難い環境が衆生に対して与えられてきたかの理由ではないか。
むろん釈迦やその他の聖者の出現により、衆生は救済されて、今の時代に子孫を残せるに
至ったと解釈もできる。だが、どう考えても、闘争の歴史は多くの無駄な繰り返しを招く
ものでしかなかった。価値感を狂わされた競争の歴史は、直ちに壊れる砂山の建設に似て、
共同の建設作業らしく見えても、最終的には希望を与えるものにはなっていない。多く
預言されたよう、この歴史が滅亡を必然としているように見受けられる。それはなぜなのか。
むしろ、何か別の理由、もしくは怠慢があるのではないか。
その理由としては、邪な計画が(権利伸長のための宇宙存続計画の一環で、善悪の闘争が
優先されている)潜在しているからではないのか。ソロモンはこう言った。「天の下には、
真新しいものはひとつもない」と。文明は同じマテリアルを抱えて、ただ輪廻しているだ
けだからだ。そこで魂はやがて進歩し悟る?そうではなかろう。マリオのゲームもクリア
ーのハードルが次第に高くなっているのと同じ原理なのではないのか。
もし支配神に邪な心無く人界を運営する気があらば、迷霊を迷霊のままで放置したりはし
ない。それは明らかな怠慢。過失というより、故意に起こされたことと判断できるのである。
迷霊がどうしてもそうしたがるのだという言い訳は、機会や与時間の平等という言い訳の
上に胡坐をかく怠慢の証でしかない。しっかりと逐一の例を検査し、ケアーを図ってこそ
前提的な大義名分も立つのではないのか。
ちょうど神界の人界支配の構図は、どこぞかの政府の官僚組織に似て、権力保身の邪悪さ
だけが支配し、肝心の行政はおざなりになっているとしか言いようがない。そのようなと
ころから与えられる末端庶民の幸せや所期の進歩などといったものは、実現を目的にしない
お題目にすぎないと断ずるのである。
これに対してネアンは、極度な邪悪さを排除したマトリックスを、善良な注意深い管理の
下、博物施設として運営し、希望者にしっかりとしたガイドをつけて閲覧してもらうとい
う新型システムへの移行を、こちらサイドで提案している。今目下、梵天の宇宙プランの
中のひとつとして実現が図られようとしているのだ。

このために、従前のシステムを全廃することも、先天的な邪悪、あるいは洗脳の解けない後天
的邪悪のすべてを粛清することもやむなしとする。神界政府の人事の総入れ替え、そして罪根
の洗い出し、関わった者の処罰を行わねばならないとする。
だから、異議があるという正神は、邪神側に加わって戦われることを薦めるのである。
とにかく、神界全土に渡っての関が原の合戦となることは必定。どちらにつくかは、早々
に決められよ、というわけである。

 


四万年前の小細工

 

さて、割り込みが入っていたので、話を元に戻して、邪神一味の仕組んだことをもう少
し論じよう。
今から四万年前の現人類発祥の時代には、人間を動物よりも機能不足に作りかえる目論
みが実行された。危険の接近などを、エネルギーの場として捉える観測能力を、学習的
に奪い去ったのである。結果として形而上エネルギーを感得する能力が殺がれている。
一般動物との会話能力も、
心霊や気のエネルギーに対する盲目は、未来に対する盲目でもある。こうして支配の神
々に盾つけないようにしていったのである。
たとえばUFOは様々の形態で飛んでいる。ところが人の目は都合のいい盲目で、見た
くもないものは見ない、見たことにしない、そういうフイルターがかかる仕組みが備わ
っている。
人間の側で不可知なものを拒絶する仕組みを進化のうちに作り上げたとすれば進化論的だ。
だが、進化した科学者である神々(いわゆる宇宙人)が関与しているのだから、人に見せ
ない、存在を悟らせない仕組みを遺伝子に組み込んだというのが本当である。
なぜ古来より目に見えない神が実在のものとされてきたか。それは霊感的に人を指導し
たというより、人を選んで姿を見せてきたからである。聖書の預言者等は神を見せられた者
だった。大衆を精神的に支配するシャーマンに姿を見せ、知りえない未来の預言を述べさせ
たとなれば、大衆への波及効果は絶大である。
人知の未熟な黎明期であれば大思想の根底を作ってしまうことはいともたやすいものとなる。
悪しき神々、地球を支配するインベーダーは最初から地球の歴史をコントロールするために人
の遺伝子に小細工をしたのである。
己が存在を見せないために、脳の仕組みを動物一般のそれとは乖離させ、自然界で観測
される情報のレンジを絞りもしている。スマトラ沖地震のとき津波の到来を何らかの危機情
報として察知した像や蛇などの取った行動と、危機に向かって飛び込んでいった人間と
の種族的乖離は大きいと言わねばならない。
聖書に言われる楽園追放とバベルの事件は、いずれも神の観測領域からの段階的脱落を
意味するものであり、それは遺伝子操作でなされたことだったのである。
アンバランスな脳が今だ。では聖書にも偲ばれるような、集大成された優秀な原人脳の
モデルはどこかにあるのか。それは、ある。
外傷や奇形などの原因で発症するサバン脳は、コンピューターを凌ぐ記憶力や演算能力
を発揮するケースがあるが、阻害要因がたまたま取り去られた結果なのである。
しかし、その能力をあえて取り去った神を名乗るものがいたことが史料で伝えられているわ
けだ。童話や思いつきではない世界の誰もが目にする史料として、堂々たる定番となっている。
だが、不可解な神のしたことに対して、崇敬しても、疑いを持つ者はいない。
そのようにも小細工されているのだ。

はっきり断言しよう。
圧倒的に優位な力を持った神が、自らが創造した物ゆえに、生殺与奪は我が権利と、生
き物が悩もうが苦しもうがしたい放題する。そして、我は主人なり、崇めよというのが、
この傲慢な神を語る悪魔である。彼は未開の人類に恐怖を与えることと、ルールを教え
込むことによって、姿は現さずとも存在のアピールを十二分にしてきているのだ。
そして、ときおり神懸りして、猟奇的凶悪犯罪を犯させる。犯罪者は、神が指図したと
訴えるが、見えないために採り上げられることはない。
ちょうど、飼育箱の中に低次元発展途上の生き物をたくさんいれて実験する科学者のよ
うなものだ。生き物が未熟だが思考能力を持つことに興味していろいろと試行している
ようなものである。
彼はこの生き物に自分以上のものを与えたくない。だから、様々な能力を取り去り、滅
びを必然のものとしたシナリオを文明というタームに対して与えて、その中で実験を繰
り返しているのである。

こんな話はすでにされてきたことであるし、だれでもうすうす推測がつくことである。
だが、ネアンはそれをいくつもの困難を押して確かめようと思った。
彼は、2005.7.に地球に変装して潜入しているとおぼしき宇宙人にそれとなく矢継ぎ早
にいくつかの質問をしてみた。分かったことは、彼は今仕事がなくてここに遊びにきて
いるとのこと。
私は、宇宙人の監視を受けているような気がよくするが、あなたもそのひとりなのかの問いに、
分からないとの返答。エホバとは宇宙人なんだろうの問いに、言葉に窮しながら分からない
と返答。そこですかさず、第三次世界大戦はいつになるかと問うと、まだ決まってないと
答えたので、ネアンはやはりそうか(計画はある)と得心した。
科学者である宇宙人は、歴史のシナリオをその通り誘導するために人間側に代理人を組
織して工作活動をさせている。その忠実な宇宙人のしもべたちは、人類の利益を度外視
した次元の考えで働く。むろん、よく言われているフレーズは、この数行に関して神を
宇宙人に置き換えた言葉だ。だが、それを宇宙人と看做せば、どんなにふざけたことか
が分かるだろう。(インベーダー、宇宙人、邪神、その中に未来人が神人とし て加わることが
第十二章あたりから出てくる。真に善良な宇宙人は、地球の未来 人の組み込まれた
神界組織の唱える地球自治の名目によって、やってこれなくされているのが実情なのだ)

要は地球生態系は、宇宙人の手の中にあるということ。天にあるごとくが地にあり、地
にあるごとくが天にもあるという諺は真実なのである。地に満ちた不合理は天に起因し
ている。天国云々は意識が地的係留から離れたときのことであり、地上に天国は築けな
い所以である。意識は魂として地上付近に止まり、次の転生に備えるという。だが、臨
むその場は、広漠として、不合理と不正に満ちている。正そうと臨んでも多大な摩擦を
受けて頓挫するのが落ち。逆に不正な者は世の支配者となりやすく、民を酷するにため
らいがない。そのように宇宙人の意向を受けて天が配材するからだ。それでいいのだろ
うか?そのようなところに、一体誰が希望してやって(転生して)くるというのだろう。
強制的な摂理で縛るゆえに、否応なく来ざるを得ないのだ。
いくら人類だけで英知を結集しがんばっても、干渉者がいるゆえに実らない。宇宙人が
いくらも来ていると証拠をそろえて提出したとて、代理人が異議を唱えてもみ消してし
まう。しかも、どうしても人々に見せるのは、邪悪な宇宙人情報だけ。
強制収容所には、期待をもたせるような思想を表に出さないようにするエージェントがたくさん
入り込んでいるのだ。神はいつまでもないか、あるなら漠たる理想論の中で盲信される
のみだ。そして、人々は矛盾を抱えたままで死に、次のサイクルに望むことになる。
これでは、ああ、と嘆息するしかないではないか。
正されるべきは、科学者的宇宙人による管理であり、やるべきはそれを根底から解くことにある。
といっても、北朝鮮を見れば分かるよう、強制収容所から逃れるのが至難の技であるこ
とからすれば、地上人類に一揆を求めるわけにはいかない。神々のレベルでは神々に、宇
宙人のレベルでは宇宙人に頼まねばなるまい。実際それは動き始めていなくてはならず、
そうでなくては何の神か、何の宇宙文明か、義や正義のへったくれもないことになるのだ。

さて、それを測るすべであるが、地の如くが天にもあるとすれば、地の獄たとえば北の
解放が、天の解放の兆候となるのだろうか。
だが、天は自らの改革がなされることを嫌い地の改革すら妨げようとしている。
だからネアンは、彼らの対立軸に正神を据えて、古来からの復活神話を土台にした新神
話を作る。神話が認められたものとなれば、旧神話を塗り替えて機能することになる。
すなわち、邪神の掃討と正神の復活復権がワンセットになった行程が実行される。その
中で、火の鳥という最強兵器による脅しと本格使用によって行程を円滑ならしめるのだ。
むろん、ネアンはすべて焼尽することを少しも厭わない。
神界にまで邪悪はびこる世なればこそ、ターミネーターとしての火の鳥はその本質を十
二分に顕わさねばならないのである。

 


魔法の起動する原理諸論・・・神話の創造性

 

神話には呪力がある。神話創造性といえる呪力が古代からシャーマンによって知られ
ていた。
彼らは発展的に神々を生産し、神々の属性と役割を作り、神々の物語を作って、その
広域的な効果を投射的にこの地上に持ち越そうとしたのである。
そもそも、自然界に遍満する謎の存在を見出し、彼らに自分たちへの守護や啓発を頼
んだのが最初であった。その頼りがいある存在を称して神と呼んだのである。
以後、人間の営みは高度化し、為政者があらわれ、為政の現場も複雑化したため、守
護の内容も現世利益的な様相となり、複雑化せざるを得なくなった。そして、いつし
か神々をも使役する方法はないかと工夫をはじめるのである。実際、この地上に実現
したいことは、神々の認可と守護を得て行うことが望ましいし、その守護下にあると
き、事は円滑に進むのである。
とするなら、この手続きを人間が主体になって行えるに越したことはない。神々は
もともと自然霊というべき、無尽蔵無定形な力を持つ者であったが、それに一定の利
益を呼び込むための志向性を与えることを思いついたのである。
こうして、神々はシャーマンの手によって製造され、属性が付与され、この神は何が
得意でどんな力を授けてくれるかが規定され、それを周知の元に確定的にするために
神話が作られた。
いっぽう自然界の存在もまた、人間の発する意思に反応して、自らの役割を受け入れた
のである。こうして神話にストーリーを持たせるとき、神々はその通りに振舞うよう
になった。いっぽうで人々を利益し守護する神であるとともに、もういっぽうで歴史
を規定するものとしての両義性を持ったときであった。
その効果を見て、社会現象さえもその呪力により誘導しようと図る者が現れた。
そして、最も狡猾な者が世界支配を目論むため、歴史の始まりから終わりまでを規定
するものとして編纂させたのが神のシナリオ、神話であった。
強力な呪力を持たせるために、神々をも魅了するストーリーが描かれた。神々も知ら
ぬ宇宙創生の時点からの歴史を綴れば、権威も十分となる。下位の何も知らぬ自然霊
たちも、自らの立場を知らされて、この演劇の深みを見て鼓舞されることとなる。あ
るときは功大きく、あるときは下位に服属させられて、上下の隔たりを諦観するもの
となった。神話による、天界の秩序はこうして生まれた。それは一種の催眠術のよう
なものと言える。
純粋なエネルギー的存在であったものが、形象と属性を持つようになり、神となった
のだ。
以上は人間界から見た神話の創造性の物語である。だが、地は天と連動している。作
用あらば反作用。因あらば果。こうした緩慢な人間界の物語も、天界における最大戦
争たる天地仙人禽仙の戦いと封神を描いた封神演義の裏返しに他ならなかったのであ
る。

そもそもの最初は、出来上がった大宇宙を創造神の手から奪い、未だかつてなかった
ほどの面白おかしいテーマパークの構築と、予期された大宇宙の終焉を延々と回避し
続ける科学的手法の開発を果たし、永遠の支配体制を確立しようという、科学者たち
の邪な目論見から始まった。
反対する者は圧倒的に多かったのであるが、反対派を圧殺する陰謀が企まれた結果、
戦いがあり、創造神と古参の神々が抹殺され、魂が封印され、記憶が消され、演劇の
ロボットと化す神話で縛られるに至ったというわけである。
神でそのようなら、人にあってはなおのこと、観測の機能を限定された上で、プログ
ラムに直面させられれば、そこにある自分こそが真実と思い込むこととなる。
彼がそのプログラムを終えたとしても、直ちに次のプログラムに直面させられるとす
れば、彼はいつまでも真実に触れることができない。人も封神の多重夢に置かれたに
等しい存在なのである。
これを元に回復するには、催眠で何重もの夢の中に封じ込められたのとは逆の解除催
眠が必要となる道理である。
一つ一つの夢の階層の縛りを解いていくのに、その迷宮脱出の鍵を探して夢の輪廻を
何千何万と繰り返すマリオのゲームのようであるとき、いったい人はいつになったら
解放されるのだろうか、というわけだ。
だが、それは邪な者たちの支配体制の存続を図る目的で、半ば暴力的に置かれている。
そのようなシステムは、別の意志によって打破されねばならない。
(2014年1月になって、これは最も創造神の初源を表すと目 される資料が、ネアンが批判眼で接していたホツマツタエを解説するサイトでみつかった。http://gejirin.com/amenarumiti.html  真実味において、おそらくこの情報にかなうものは他にないだろう。ネアンの子供の頃にしていたままごとの世界さながらだからである。しかし、この記事に よってネアンは、この創造神の動機がすべての諸問題の原因になっていると知った。もしこれが真実なら、この創造神は間違いを冒している。その間違いを指摘 するなら、それは拡大をどこまでも求めようとする心にある。何を先を急ぐのかとよく問われるのと同様に、何を拡大にこだわっているのかということなのだ。
人 も生き物も、胸に息を吸い続けて広げる一方では無理があるよ うに、拡大が止まれば今度は、息を吐いて縮退させることが大事になる。それを呼吸という。円満に生きていくためには、この呼吸のサイクルがたいせつなの だ。その結果、身体は円満に造成されて、大人の身体となり、息を吸った時の肺活量も劇的に増えるのである。子供の身体に鞭打って、息を吸い続けろと強制し ているのはいったい誰なのだ。なぜそんなに急がねばならないのだ。無理をさせてまで。つまり、このチャネリングの主たる創造神という者は、邪神の意向を反 映した偽物ということなのだ。2014年からの記載となる第十四章で、このことに触れることになるが、この世はどこまでも邪神の影響力に毒されていると言 うしかない。しかし、初源の状態を言い表したすばらしい説明にはなっている。どこからか、邪神の言い分に置き換わっているだけだ。参考にはなるが、いつし か邪神側礼賛に取って代わらせてしまう間違いも含まれているので読者は注意だ)
いっぽう、別の意志によって編纂される新神話は、逆手順もしくは荒手順を踏むものである。
神々を縛り付けている神話を別の神話に置き換えて、神々の目覚めを誘起し、その目
覚めをあらゆる有情に押し広げて、元の原因から除去しようという方法なのだ。
ネアンは創造神梵天の支持を受けてこの事業の遂行者となった。
これを「神もののけぞ知り人知らず問わず語りの裏神業」という。

 


神話の手順と作用機序

 

力ある神話は、まず規定しようとする世界の初発を書き記すことから創めることが肝要で
ある。
その体裁は、宇宙の始まりから、しだいに本題とするシャーマンの住む時代に至るまでの
時間展開を描くものでなくてはならない。世界各地にある神話のどれをとってもほぼそう
なっているのは、事情通の手になっているからである。思いつきのように後から歴史時間
を遡るような筋書きであってはならないのはむろんだが、よほど神々を引き付けるものが
あるなら別である。なるべく神話時間はトップダウン形式を守り、同時代におけるもの、
あるいは下界の時間におけるものは、小説風であろうがなかろうが任意とする。
人というものは、後に奥付を与えられることを喜ぶ性質があり、推理小説のような体裁を
好むものであるが、神々は神話に権威を認めて初めて感動して読もうとしてくれる。祝詞
においても、言始めは権威付けられているであろう。
ことさら宇宙の初発には、神々は自らの出自を知ろうと注意を向ける。それが啓発的であ
ればあるほど、神々は賛辞を送り、それに倣おうとしてくれる。(釈迦が神々を仏教護持
に振り向けたのは、ひとえにこの効果である)
神々はかつて純粋な精霊であったものが多数を占める。ただ世界を愛で観測することで生
活としていた。その彼らに、役柄を与えて目的のある舞台に立ってもらう物語、シナリオ
となるものが神話なのである。ゆえに、彼らの魂を啓発鼓舞するものであればあるほどよ
い。(釈迦は神界や下界の各地で説法し、各階層に応じ有情に悟りを開かせた。神界にお
ける説法には、やはり宇宙の開始や神々の出自に言及するものが採り入れられている。悟
りに至れる知識程度に応じて説法が為されたのだ)
古事記が限られた神々の名を挙げても、残る神々を八百万神としたように、残された精霊
たちに対してもエキストラとなる神々としての配慮が要る。こうして、天地に隠された有
情のことごとくを参画させる物語たるを以て、力ある神話となるのである。
創られた力ある神話は、宇宙を規定する設計書に準ぜられる。というのも、下界の上に位
置する神界は、神話の筋書きによって動いているからである。神話が古代都市風の神々の
社会を描くならそのよう。テクノポリス風ならそのようにまたたく間になる。
下界に対する神界の作用効果を書くことによって、下界はそれに規定されるという手順を
踏む。よって、神話を下界から制して、神界から下界を制するという手順を踏ませること
が可能となる。
かくて古代の為政者は、神話に自らの出自を有力な神の末裔と位置づけることに精魂傾け
た。古事記に見るように、シナリオ上最も優位な神々に自らの先祖を振り当てて、その神
の力ある加護を我がものとしたのである。
神話は、古今任意の誰彼によって、多く思いつきのように書かれたが、神界の要請もあっ
てそうなっている。こうしているうちにも神話はあちこちに出現し、神界はあたかも下界
が電波の海のように、ノイズの海となっている。
その中でも、より強い神話が主流、神々の主舞台で上演される。日本神界の主流はやはり
古事記である。
神界の田舎にも、舞台があって、任意の神話が演じられているが、そんな中では、風土記
レベルから、今流行のファンタジーアニメの筋書きまで、舞台神話として採り上げられて
いる。
観客の神々から発せられる啓発の波動が、下界をも揺るがすことになる。
下界の政治を動かせぬ小さな人々が、自らの理想を世界に向けて投射し得るのは、ひとえ
に神話効果によるのである。

 


魔法の手順と作用機序

 

ここに言う魔法とは、東洋魔法になるであろう。
魔法の作用の原動力になるのは、意志の力であり、意識の問題が根底にある。
というのも、「個々の意識は世界を組み立てつつ観測している」という根本原理があるから
である。マトリックスを相手にしているという絶望的な印象より、相手は幻影であるから、
不可能に思えるような造形も可能なのであるという認識が要る。
それは一種の信仰に似ている。といっても、神や仏が対象なのではない。力への信仰だ。
それも武力や資金力ではない。形而上から形而下を支配する力である。あるいは形而上だ
けでコントロールされる局面が大部分ともなろう。
はじめ、その力の存在を知らなくてもよい。また、何らかの専門書を読んで学ぶ必要もな
い。そのときが来れば、ひとりでに目覚めさせられるものなのである。ネアンの場合はそ
うであった。
人生の目的がばらばらの方向に向いている場合は困難でも、あるときに一方向に揃う場合
が出てくる。何らかのきっかけがあるわけだが、本人にもその方向において、不思議なほ
どの導きに驚くようになる。そうなれば、その感動を原動力にして自分なりの分析と予測
をしておくべきだ。
すると、次の導きとして、新たな発見がひとりでにもたらされる。それが予測されたもの
であったなら、シンクロといって、自分の向いている方向に確信が持てるようになる。そ
れが魔法使いの道に踏み出した証である。そこで、さらに分析と予測を重ねていくのであ
る。
巷にはガイドになる情報に満ち溢れている。だが、そのすべてを理解しに行こうとしては
ならない。魔法使いは、それらの中から必要なものがひとりでにやってくるのを待つので
ある。ただし、鈍感であってはならない。内在の導きにも耳を傾けることも大事だ。
突然閃いたことは特に大事だ。それが調べものに関することなら、直ちにすればよい。す
ると、普通では見つからなかったような情報も、不思議に瞥見できるものなのだ。ただし、
チャンスはそのときだけに終わるかもしれないことを考え、きちんとまとめておかねばな
らない。
多くは相互作用関係の強い異性や友人などの人物を介して、シンクロがもたらされる。そ
れらすべてにおいて、ひとつとして漏らさない態度で、分析と考察を重ねるのである。
そうやって方向性に基づいた理論が構築されれば、それが信仰の砦となる。それは力、魔
法の力の土台になるものであり、魔法使いがどのような生の中においても維持し建設して
いかねばならない王国となるのだ。

魔法の諸力を確立していく手順は、こうなる。
まず、おや?と思う気付きから始まる。それを「兆し」という。それを別の直感と結びつ
けて、着想がなかなかいいじゃないか、と、ひとつの感動を得る。それを「脈」という。
次にそれが壊れないための論理付けをする。それを「境」という。いわゆる分析課程だ。
発展して理論までいけば、この信仰に関する一種の「結界」となる。「境」とは、土台を固める
砦のようなものだ。ではそこで、この信仰が正しいとしたとき、次に予測される事柄が自
ずと涌いてくる。それを「見立て」という。ただし、これは受動的な「見立て」だ。
成行を眺めているうち、予測どおりのことが起きれば、これまた感動に繋がる。だが、そ
れではそれだけのことでしかなく、魔法使いは慢心しただけで終わることが多い。だが、そうな
らないために、あるいはそうさせないために、多くの場合、そうとは知れないところで予測したこと
は起きているものなのだ。些細な情報として与えられ、分析されて始めて、魔法使いにのみ理
解できるという、あくまでも力の増進訓練を伴う形でやってくるのである。
そして、循環の課程がほどよくこなれるようになれば、魔法の力が発揮されていくことにな
る。それは「見立て」を能動的な形にしたものであり、魔法使いの構築した「境」の範囲
内であれば、新しい理論を作って、そこから予測された事柄を現象上に惹起していくので
ある。現象上とは何も視認できる所で起きることに留まらない。魔法使いが想像すること
のできるあらゆる世界が対象となる。
東洋魔法の理論にいわく、「兆」「境」「脈」「見立」のたゆまぬ循環によるのである。そこ
には厄介な典礼魔法の教育などは必要ない。自由にのびのびとしていて、それでいて一方
向に集中した成り行くさまを、感動を伴いながら目撃することになる。
この新神話は、ネアンという魔法使いによって理論とされ、魔法の力によって世界に顕現
していくものとなった。

 


マトリックス時空

 

魔法の起動は、さほどの厳格さはなくとも、一定の定型的手順を踏むことが肝要であるこ
とが分かるだろう。その理由は、造形されるべき対象となる現象はすべて元来、プログラ
ムでしかないからである。それも魔法によって自動創造されるプログラムである。
プログラムは、決してあるがままに運行されるばかりでなく、ダイナミックに索引され、
ローディングされ、オーバーレイされて、自由に造形力に富む働きにできる。
ネアンには、生死を別たず一連のものとして世界を捉える世界観があった。それはもしか
すると、梵天がハイラーキーである故なのかも知れない。よって、新神話に語られる宇宙
観世界観は、創造者たる梵天譲りゆえに正しいとネアンによって自負される。
彼の導いた宇宙論は、観念的ではあるが、コンピューターが説明用のモデルに採用されて
いる。そこでは、小さなホログラムメモリーに300億年の膨大な歴史の情報が詰まって
いて、それを逐次演算する最前線に我々の真我が関わっていて、観測し認識しているとい
うものだ。
たった一台の高性能コンピューターで、彼の認識を賄うに十分であることに注意が要る。
プログラムの隅々までが、この演算の対象になろうとも構わない。コンピューターは時空
連続体として存在するプログラムの時間軸の適当な断面で切り取って、観測対象とするだ
けである。
ごく小さなネアンという者の約60年の人生一つだけであっても、何ら構うものではない。
コンピューターにとっては、宇宙の歴史もネアンの一生も、プログラム的に等価なのであ
る。
かつてユングは幼少期に、なぜ自分は他でないのか、他であってはいけないのかについて
考えた。我考えるゆえに我あり、の考案者もそれを意図したはずなのだが、いいように歪
曲されている。
主人公であってもおかしくない個々人。なのにどうして、自由気ままが許されないのか。
そこに横たわる奇妙で複雑なシステムもまた、プログラムの中の綾として存在する幻影で
しかない。
すなわち、この世もあの世も、かつての映画マトリックスでいみじくも指摘されたような
実態であること。本来、ありえないはずの幻影を我々は現実として認識している、させら
れている存在であること。それを補足する根本的な真理として、すべては唯一者・梵天の
見た夢であり、我々の個々の自我を賦活する真我こそがその唯一者であるという真実があ
る。
その唯一者が夢の中で迷い込んだものか、それとも分かっていてそうしているのか、いず
れにしてもラビリンス、魔法の迷宮の中で我々は彷徨っている。そういう夢の中に梵天も
あるのだ。
かつて釈迦は、梵天から世界のありようについて教授を受けた。彼の時代に、梵天の世界
観を喩えて表すことのできるような事物はなかった。だから、いきおい精神論になり、哲
学化してしまったが、今の時代なら、喩えられる事物(コンピューター)が登場しており、
彼の時代と比べると、はるかに悟り易くなったと言えるだろう。
ただ問題は、世が情報過多であり、どこに真の仏の教えがあるやなしや分かり難い点であ
る。いくらオープンにしていても、縁あって見に来る者は僅少。またたまたま見たとて、
書かれていることに価値を見出せぬ場合は、縁無きに等しいこととなる。

ネアンは何ゆえか、社会に出てからはコンピューターのソフト開発の仕事に入った。成
長途上の花形産業というふれこみだったから、その道に進んだとも思えたが、会社への
貢献は思わしくなかった。むしろ、コンピューターからはその動作原理を介して啓発さ
れたことのほうが大きかった。
東洋思想では、この世は生々流転してやまない動的なエネルギーであり、形として現れ
るものはすべて幻像てあるとしている。その思想が提起する「認識」というものの真相
と、コンピューターの中で演算されて出される処理結果というものが似て非なるもので
はないことに気付いたのである。相似像がここにある。そう直感したネアンは、コンピ
ューターの動作原理を元にした宇宙構造モデル概念を作り上げた。
1.宇宙が階層構造をしているのは・・・プログラムが階層的に組まれているから
2.下の階層が上の階層のありさまを観測できないのか・・・プログラムがそうなってい
るのだ
3.観測される現象は心象風景(幻像)か・・・プロセッサーの演算処理結果である
4.個々人は個有の時空を観測しているのか・・・観測者中心相対論的プログラムである
からリエントラントであり、誰が何度実行しても構わないはずのものである
5.未来のことはすでに定まっているか・・・始まりから終わりまで、言語で記述された
プログラムとして予め存在している(プログラムの保管庫には、過去のものも未来のもの
も同時に存在する)
6.プログラムの観測結果に個人的差はあるか・・・プロセッサーには連想認識的組み立
て能力がある。マクロ言語であればあるほど、プロセッサーの予備知識に応じた相違が出
る(催眠術をみればよい。認識結果はキーワードで索引された非常に多くのプログラムの
複合産物である)
モデル化してみたとき、根底となる中央プロセッサーの処理能力の超巨大さを想像しつ
つも、宇宙運行の原理の単純さと、その中で生々流転させられている我々の意識の果て
しなくも空しい現実に直面させられる。我々の意識は、流転を刻々記録しているプログ
ラム(映像)を一意に辿っていくに等しい。とならば、鳥瞰的立場に立てば、どんなに
魅惑に満ちた経験も環境も、地位や名誉も、ちょうどマリオのゲームにいそしむ子供の
興味に等しいことが分かるのである。高得点をマークしようと何度でもトライしてもいいが、
いい加減に卒業せねばならない。また、心ある親であるなら、いつかは子供からゲームその
ものを取り上げねばならない。
今、世の聖者たちは無限時間に近い生々流転の中で、自らの立場を高度化し、解脱に向
かう途上にあって、未だ下位にある有情たちに同じだけの時間の負担を求めている。
それは、魂の進化という名の元に正当化された虐待でしかない。
本来であれば、ゲームにはまった子らをディスプレイ画面から離すべき立場にある者た
ちが、ゲームを到達点の最後までやり遂げてから座を立てと言っているようなものなの
だ。聖者とは名ばかりの徒党に過ぎない。

 

マトリックスという映画が2000年に登場した。そこには深遠な東洋哲学が伏在して
いると噂された。というのも、我々が生きている現実が、どこか知らないところから与
えられた幻影である事実をあからさまにしたからである。インド哲学の神や聖者をもか
らかうというマーヤの概念を現在の利器を使ってモデル化し、その裏にある「慈悲深い
神に似せた悪魔の陰謀」を指し示したことから大ヒットした。
いったい誰が自分たちの認識している世界が幻影であるなどと思うだろう。当面する問
題に好むと好まざるに関わらず取り組まされて、必死で生きているではないか。だが、
インドに発した思想は、瞑想を極めることによってしか分からないこととしながらも、
マーヤ(幻影)であると言っていた。それを分かりやすい手法でモデル化したのがコン
ピューターの中で営まれる世界像の提示だったのだ。
ネアンはそのことをマトリックスの20年前には知っていて、世の異端的学問の府で研究
論文として発表していた。同学府の研究者たちの中で関心を示した者はごく少なかった。
当時はインチキくさい波動商品が、学府内の寄付金の流れと共に、何の裏づけもなく新
しい科学としてもてはやされていただけであった。
何でも、魂の進化のレベルは、社会的地位と比例するらしい。統括的立場や指導的立場
の人は、そのまま向こうの世界でも階層的に上位であるからだと、インドの聖者たちは
言う。
ネアンはいくつものアイデアの専売特許を抱えていたが、まともな日の目を見ることな
く社会に埋没させられていた。成り行きがそうなのだとすれば、それはネアンの魂の程
度でしかなかった。
世の荒波も知らない新参者がのこのこ外野からやってきたがゆえに、何も起こせない。
魂の程度に応じるなら、その成果がどんなに低質で無価値のものであれ、ナントカ喜劇
の面々の提示する専売特許のように社会に登場していくのであるのに。
人間を虚仮にしているとしか言えないようなものが優先されるのも、魂の程度によりけ
りというのだ。
そこには、人間として転生を重ねたベテランを指して上位にあるとする思想がある。
それは牢屋における囚人の間で取り決めた牢名主のしきたりのようなものだ。
それは真実がこの世では必要ないとされていることを意味する。理由は、最初から、こ
の世が有情を獲り込んで放さない設計思想に基づくものだからである。
ネアンには、ただ真理の探究の精神が培った成果だけが残った。若かりし当初は、こん
な画期的なアイデアがあるのにと焦りはしたが、所詮ホンモノは世の塵芥にまみれるも
のよと開き直ったころで、自己申告的逝去年の50歳を迎えようとしていた。
だが、新参者でよかったのだ。新しい役目のためには、彼が新参者であり、マークされ
ていてはならないことが重要だった。このエクストランは、天国から地獄までにある、あ
らゆる魂に共通の門戸を開放しているところである。どんな人(魂)種も、隠れ住むこ
とができるのだ。

 


デイブレーク・ブリゲード計画の発進・・・ネアンを賦活した者たち

 

自信喪失気味のネアンを賦活したのが、カンナオビだった。会わずとも文通と言葉のや
り取りによって、ネアンの自信は微妙に深まっていった。
それが新たな役目を帯びるのに重要な下地を形成したのである。
この社会を推進する神は、彼を捨てる神であった。だが、新たな役割を付与した神は、
彼を拾う神であった。こうして、ネアンの中で、神の位置づけが決まってくることにな
る。対立構造は天界にあり、正神と邪神のそれである。組するべきは正神であると心に
誓うことができた。
正神はかつて世界を幸福裡に統治していたが、邪神の侵襲と姦計によって封殺されてし
まった。だが、聖書にも書かれる邪神の目論む世界終局計画にあわせて、正神復活と邪
神掃討がなされるという大局観が、イナンナの大本思想によってもたらされた。
ネアンでなくては解けない様々な鍵が携えられていた。
鍵を開けるごとに魔法のように励起された力は、持ち前の宇宙観の範囲を超えて所狭し
と暴れまわった。そしてイナンナが、工作員の役目の終了と共に、痛烈なビンタをネア
ンに食わして去った後、ネアンの痛手を癒し、更なる鍵を与える者として、カンナオビ
が再来した。過去世から連綿としてネアンと共にあり、初めに現れて、しんがりに回っ
た永遠の女性原理であった。
紆余曲折がテーマであるかのようなマトリックスの世界。ゲンがいみじくも言い残した
悔しそうな言葉、「この世はマトリックスなんですよ」の響きが、聖徳太子の「世間虚
仮唯仏是真」の響きとともに悲しさを醸す世。
奇しくもマトリックスに出てくる救世主、主人公の名はネオNeoといい、いま現実に
ネアンNeanが救世主として、マトリックスに立ち向かう。その意味は前者がNew
other後者がNewanotherどちらも「新しい別のもの」を意味している。
「月の支配の20年は過ぎ去る。7000年には別のものが支配しているだろう。その
とき太陽は日々の運行を停止し、私の預言も終わりになるのだ」とミカエル・ノストラ
ダムスは預言している。

 

虚仮とはいえ、このマトリックスはネアンの人生にたくさんの恩恵を用意してくれてい
た。
辛い差配に泣いたとはいえ、彼には最も偉大な魂がミソギという産みの母、育ての母と
してあてがわれていた。辛く険しい荒波が人生模様とすれば、どれほど遭難しそうな時
点で救助してくれたか知れない。母以上のこと、執事となり、女中となり、家来となり、
そのとき必要となるありとあらゆる便宜を図ってくれた。その恩を返すこともままならず、
自分の役割をかろうじてこなそうとしている。そのことを以て恩を返すとするしかないが、
今後病に倒れたりしたなら、この図体を預けることなどできようもない。健康な五体で少
なくとも母を見送るまでは過ごさねば。その幸運までマトリックスが用意してくれるか
どうかは定かでない。
弟のマリオとは幼少期によく喧嘩をした。マリオは長じてから、兄である者に対して遠
望配慮を欠かさぬ生活を送った。不便を圧して単身生活を通し、唯一住居に関しては贅
沢を装ったが、必ずしも幸福ではなかった。そして、兄亡き後、母を代わりにケアーし
見取ることになろう。兄はいったい何をしにここにきたのかと思うほど、世間的な事跡
とは無縁であった。その自由をマリオはじめ周りが保障していたような人生であった。
神話をまるで写し取ったような仲間もいた。ネアンが山幸なら、海幸に相当する兄のよ
うな仕事仲間がいて、おりにふれて世話を焼こうとしてくれた。戸の国の日の出嬢は海
幸が紹介した女性であったが、海幸山幸は神話的に折り合いが良くないせいか、うまく
いかなかった。どこか父に似ているとネアンは思った。が、共に何かをやったときには、
たいがいうまくいかなかった。心は通じ合うものがあれど、どこか反発がある。それが
父や兄に対する思いというものだろうかとネアンは思ったが、その父と兄はじっと見詰
めてくれる存在であり続けた。
ネアンは国の先行きに危うさありとして、家族のために対策をあれこれと講じようとし
た。だが、保有するなけなしの資産さえも管理しにくいものにしてしまった。このために、
預金の在り処や運用先を記しておくことにした。というのも、いざ事態が起きるときま
で生きておれる自信が持てなかったからだ。体力が、心肺機能、脚、肩と弱り、身体を
引きずようになりつつあると感じていた。それはまるでこの国の病態を体現するかのよ
うであった。
ヤマトスクネはネアンのひとつの神話キャラクターであったが、日本の精神を表す人物
である。日本が日本でなくなるときに、ヤマトスクネの命も終わる。ネアンの命は国の
命と共にあるような気がしている。
1000兆に達しようという負債は、どんなきっかけによって国家破産の事態となって
顕在化するか知れない事態である。1000兆円とは、世界全体のGDPよりも大きい。
日本一国だけで破産処理が効かず、ブラックホールに吸い込まれる如く世界は不安定化
し、第三次大戦でさえちょっとしたきっかけで起きてしまうだろう。
だが、日本が奇跡的に助かるなら、ネアンの命も助かることになろう。
人類に解決不可能でも、宇宙からの応援という手もあるはずだ。日本や世界がとんでも
ない目に遭う前に、世界が救われるなら、ネアンは生きて未来に臨むことになろう。
ヤマトスクネは、神武東征を瀬戸内海で導いたとき、亀の背に乗り両手を鳥のように、
羽ばたかせていたという。今ネアンが励行しているのは、夢見の体の朱雀の羽ばたき練
習である。
ネアンは今、神武軍ならぬ正神軍を導くつもりでいるのだ。神武軍は何も宇宙船であっ
てはならないわけではない。正しい目的を打ち立てて来てくれる宇宙からの応援なら、
それが一番であろう。

 


イナンナの帰順

 

イナンナは、悪しき性質の者たちにも生きる理ありとして、彼らの上に照る月でありたい
と願った。それがともすれば手抜かりを生ぜしめるタイプの正神的優しさから来たものの
ようなら、イナンナは工作員として厳しく処断されねばならない。この手の思いが、いつ
のときにも理想郷の願いに対するブレーキになったからだ。
持ち前の理想に従ったのなら、黄泉津大神として邪悪の教化にあたるのが望ましいという
裁定にもなろう。そして、教化を見事果たして後、参加を望むのなら、こちらの宇宙に良
いポストが用意されるだろう。
そもそも、最初はマリオのゲームのような着想が、在来の宇宙の設計思想にはあった。臨
場感、臨在感を求め、精神移入をして面白みを出そうとしたゆえののめり込みが激しくな
り、ソフトにも邪悪な展開が盛り込まれて、このテーマパークは好評となり、いつしかそ
れらのソフトは、有情を閉じ込めるためのものになった。
どこにでも見かけるゲームソフトにはまる子供の姿。パチンコにはまる大人たち。こうし
た多情な彼らもこの宇宙の存続を希望する側に列せられていくに違いない。彼らの希望と
自由までは強制的に奪うことはできない。
彼らはまとめて向こう側に置かれるかも知れない。目を覚ますための処断が下されてなお、
邪悪なゲームに没頭したがるなら、放っておかれはしない。その間、イナンナが指導の任
務に就くかもしれない。見事、指導が叶ったなら、イナンナも戻ることになる。しかし、
その間、在来宇宙は黄泉の国として位置づけられ、そこにある有情は新しい宇宙への参加
を拒絶されてあるだろう。
イナンナは、自らを月に喩えたが、まさにイザナギと決別するイザナミであった。月はツ
クヨミ(就く黄泉)とも旧神話では呼ばれている。新神話を望まず、旧神話に就いた者で
あった。
だが、そうしたネアンの解釈の前に、イナンナは反省して、白蛇となって協力を申し出て
きた。
「では、どうしてあのとき裏切ったのか」とネアンは問う。
すると、「カンナオビこそが来るべき方であり、工作員として私はお膳立てをしたのです」
と語った。
「それは分からないわけではない。邪神の裏をかく工作にはそれなりの手順が必要だから。
二年があなたの期間だったと言った。では、どういう段取りがなされていたのか」
「私は玄武として、あなたに宝のありかを示し、白虎と会座が果たせた時を得て、青龍に
あなたを返還することを告げました」
「邪悪に染まった者を含め、有情全体を救うというならともかくも、邪悪の領域を残して
やれというのは、どういう理由か」
「あなたとの別れを誘うための方便でした」
その言葉は、事情に明るい正神たちの涙を誘った。
だが、ネアンは言う。私は単純に信じてしまう方々とは訳が違う。これとても妨害の意図
なきにしもあらずと考えて臨む。いずれにしても、その領域が残されることになるなら、
向こうに置かれることを覚悟しなさい、と。イナンナは、涙ぐみながらも頷いた。
そこに梵天が現れて言う。
「待ちなさい。みんな私の前では純白な魂である。訳あって、修辞された性格を帯びてい
るだけのこと。この宇宙を離れたとき、その真実が明らかになるだろう。ただ演劇を演じ
ていただけであったことを。仲間同士いがみあうのはよして、みんなして故郷に戻ろうで
はないか」
ネアンはイナンナを見て苦笑した。
「では詫びの証に、私が正神軍を導くときの乗り物の亀になってくれ」
イナンナは微笑んで頷いた。
こうした形而上の経緯があったために、新神話を書くネアンに、イナンナの脱魂のことを
着想せしめたのであった。カンナオビには白蛇のキャラクターが加わってきていると。ま
たそれが後に、ゲンの夢にも現れたのだった。イナンナの魂の翻意が先であったのか、神
話がそのように誘導したのか、その辺は定かでない。

 


カンナオビ、神界のクーデターに立ち会う

 

カンナオビは、神界における献身的な機織作業を長くこなし、積善の徳を備えていたゆえ
に、不自由過不足あるエクストランに至っても、希望が叶えられていく生涯を送った。
誰にも気付かれず、ひっそりと鉢の片隅に咲いた春蘭のような存在であったため、天仙邪
神といえども気付かず、時計仕掛けのようにして頭角を現すタイプの密命者であると分か
ってから、遅ればせに毒牙を繰り出してきた。それも、カンナオビの嫉妬や悲しみという
些細な心の過ちに、蝿がたかるようにして。
邪神は、かつてもそうであったように、我は光なりと称する者を、ネアンの不在に乗じ送
り込んできた。カンナオビは、半ばやけ気味に、そこでしばし官能の疼きを、光の繰り出
す機械仕掛けによって慰めた。だが、光と称する者は邪悪の光と言うべき者で、かのイエ
スと同様、人を隷属させることに目的を見出していたのである。
だが、ネアンが彼女の元に立ち戻るとき、光という者はどこへともなく消えていった。
故事に言う。真の光が現れれば、暗闇も贋の光も消えてなくなる、と。
イナンナが、非常な手段でネアンと別れたのも、カンナオビの役割が邪神の策謀で費え去
ることへの正神側の判断だったとも考えられる。
白蛇イナンナはいったん正神の導きで肉体を離れ、頃合を見て、魂だけで青蛇カンナオビ
と合流を果たしたのだ。
ならば、正神の配慮は智謀に長けたものであったことになる。

200X年6月のある日。カンナオビは、未明に過去世の夢を見た。
カンナオビは宮廷の機織り女であった。宮中の晩餐会の最中、突然部屋の中で爆発があり、
ぼうぼうと煙が立ちこめ、あたりは怒号が飛び交い、逃げ惑う神々で蜘蛛の子を散らす
ように騒然となった。
カンナオビは直感した。暴動に違いないと。そういえば、国王様の近辺には、ただならぬ
噂がふんぷんとあったのだ。国王の政治を良く思わない重臣たちが、もしかすると何事か
起こすのではないかといったような。
カンナオビが分厚いカーテンに身を隠していると、ネアンが目の前で人々の誘導と指図に
忙しくしており、たいへんな事態であることが察せられた。警務大臣補佐官であるゆえに、
こうした場合は最後まで残って責務を果たさねばならないのだ。
ネアンはすぐに、カーテンの下に脚を覗かせているカンナオビを見て取った。
「出ておいで。ここにいたらたいへんだ」
そこに執務室から書類を運び出してきた文武官が、「重要書類はこれで全部です」と、彼の
元に置いて行った。それをネアンは配下の女官に手分けして渡す。ぴったりとボディーに
フィットした黒装束に身を固めた、こうした事態のために、彼の元で訓練されてきた者た
ちだ。だが、持ちきれる以上に文書の量が多かった。
「後の者はどうした?」
「大広間で殺されました」
「そうか。では、この分を頼む。直ちに城を抜け出し、XXXXで次の指令を待って欲し
い」
「心得ました」
ネアンは心配そうに見ているカンナオビのところに書類を抱えてやってきた。
「謀反が起きた。カンナオビ。君は中立の立場ゆえ、この国に残ることもできる。
だが、もし我々についてきてくれるなら、共に来てくれ」
「はい。ついて参ります」
「分かった。ぼくはまだしなくてはならないことがある。みんなで手分けして、必要なも
のを持ち出さねばならない。君はこの文書を持って逃げてくれ。近々、落ち合おう。
さあ、こっちだ。裏口から逃げるんだ」
「どこで待ち合わせればいいの?」
「まず、XXXXに行くように。そこに皆がいる。最終的にはエクストラン(外の世界)
になるだろう。緊急避難にはやむをえない所だ」
「はい」
「愛しているよ。いずれまた」
「はい。私も愛しています」
夢見の力によってカンナオビは神界における鮮烈な記憶を追体験することができたのだっ
た。

この神界における事件こそ、日本神話にいわく「スサノヲの反逆事件」だったのである。
だが、神話はえてして伝承の継ぎ合わせ。実際にあった歴史的事実の原型を留めるも、為
政者サイドの都合のいいように改訂されていたりする。
このとき反逆したのは、国王の側近たちであり、国王一家は暗殺され、といっても神霊で
あるゆえに不死であるため、強い魔法を使った呪封が行われた。そして、首謀者に仕立て
られたのが、たまたまクーデター当時に来訪していた、豪勇のスサノヲだったのである。
国王の国常立尊は魂を細切れに分割されて芦別岳の地下深くに、王妃の豊雲野尊は鬼界が
島の地下にそれぞれ封印されたのである。いりまめに花が咲くまでは、出てくることがで
きないという言葉の結界呪封がなされていた。いりまめとは、熱が加えられて死んだ豆で
ある。それが芽を出し花をつける頃とは、まずありえない未来ということになる。
ここで識者なら容易に推測がつくだろう。今、人界にある有情たちの多くに、この手の呪
封が施されているであろうことを。これを映画マトリックスは見事に解明して、「閉じ込
められた者」と評している。
ここに出てくるエクストランとは、まさに神界からもプログラムによって作られたと認
識されている仮想現実の世界、人間界のことである。神々なら、教導することはあっても、
あえて下生することを忌み嫌う場所。ゆえに、避難場所ともなりうるのだ。
それ以来、神界は暗黒に閉ざされた。正義は途絶え、悪事が蔓延するようになった。力の
勝る者が弱い者をいいように扱い、神界の階層構造社会たるや、マフィア社会のようなもの
になった。
日本神話は「岩戸別け」を既成のこととしているが、それは神界における希望的未来預言
であって、未だ到来してはいない。
ただ、しだいに心痛める者が出てきて、人界の悲惨な現実から学ぶべきことを唱え出し、
やや神々の性向も温情的になる傾向にある。下界の議会制民主主義は、その現れである。
その先に、かつての神界のよすがとまではいかぬまでも、正されていくに違いないとい
う希望的観測がなされているのである。
だが、もし国常立尊であれば、そのようなやわな展望を許すはずがない。また、本来それ
だけの力を備えた神であるから、大元帥明王とも言われている。だから彼の音信は、地獄
界において、正義と邪悪を厳しく吟味し、亡者を振り分ける閻魔大王として活在している。
その神話は、国常立尊がエジプト神話におけるオシリスと同体であることを示している。
いまオシリスは冥界の王であるとは、すなわち閻魔大王のことである。

 


国常立尊暗殺現場に立ち会った梵天

 

では、クーデター前の神界はどうだったのであろう。
国常立尊は、神界にあっても、世の無常を感じていた。彼が最高主神に抜擢されたときも
よからぬ輩があまたおり、彼が為政するに当たり、規則や法制でいくらその発生の源を断
っても魂の根からくる邪悪さはいかんともしがたかったのである。
特に出雲に起きた役人の不正事件には、その根の深さを思い知らされた。極めて秩序だっ
た平和で満たされた世相があったにもかかわらず、過分を希う輩による不正。それによっ
て、不当にも搾取された被害者たち。そうした不正事件は続出したのだ。
国常立尊は、世の裏の実情を知っていた。神界といえども、マトリックス的実在であるこ
と。いわゆる六道のことごとくに、非実在性、フィクション性が内在すること。そうであ
る限りにおいて、有情はしっかりと足を地に付けた思いに根ざすことができないこと。
ちょうど人が舟で航海するがごとく、船底の下の深海にはどんな魔物がいるや知れず、た
だ舟にあるという安全信仰によってのみ只今があるという現実が、彼の思いを辛いものに
していた。神々の思いに影響を及ぼしている魔物の存在(魂を持たない種族の悪意、策謀)
がすでに知れていたのである。
国常立尊は、真の自己を探すべく黙座して瞑想の旅に出た。思いの中の不安とは裏腹に、
心の底に平安の領域のあることを感じていたからだ。彼は瞑想の深み、もしくは高みにわ
け入ってついに安心の主を発見した。
そこにいたのは、梵天であった。
「あなたは誰ですか」
「私はあなたです」
「どういうことですか」
「私はあなたの目や耳や意識を通して見る者であり、あなたをあなたたらしめている者で
す」
梵天は光とエネルギーを放っており、それがまるで川の水のように彼の中に脈々と流れ込
んでいた。
「ああ、この幸福感。永久に続くかと思われるこの安らぎ。私をここに留まらせていただ
けないですか」
「いいですよ。私の中にお入りなさい」
光明と至福に満たされたとき、ふと国常立尊は思った。やらねばならないことが山積して
いることを。そう思い出すや否や、どこからか現れた白い玉が、輝く梵天に向かってぶつ
かっていき、爆発して砕け散った。
国常立尊は、それも希望者に違いないと気付くと、急に恐ろしくなり、後ずさりした。す
ると、国常立尊は後ろに引き込まれるように、瞑想している自分の立ち戻ったのだった。
「しまった。自我意識が破壊されるという惧れによって、退転してしまった」
再びあの存在に会いに行こうと瞑想したが、何度トライしても、ハードルが高くて至るこ
とができない。
「真実をお聞かせください。我が主よ」
すると打てば響く乳鉢のごとく、返事が返ってきた。
「私があなたという夢を見ているのです」
国常立尊は悟った。内在する自分こそが、かの人であると。
かの人の目となり耳となり、自分が動いていると。かの人も、自分と同じ想いを経験して
いると。
「ならば、よいお知恵をどうか・・」
執政の場に戻った国常立尊を待っていたのは、どこからともなく渦巻く黒い陰謀の影であ
った。
それゆえに、いっそう正義をかざして、粛清の処断もなさねばならなかった。それが苛辣
を増すにつれ、為してしまったことの不正がいつ発覚するか恐れて、陰で徒党を組む輩が
あちこちに出てきた。
その数が満ちる頃、彼らの前に、ついに魔物が姿を現し、直接指示を出したのだ。国常立
尊を殺してしまえ、と。
封神されて今があることを知らぬ神々は、それが神界をコントロールする天仙の差し金で
あろうとは気付くよしもない。こうしてクーデターはいとも容易に成った。
国常立尊はもうもうたる煙の中、未だ見たことのない魔物によって羽交い絞めにされてい
た。前に立っていたのは、きらびやかな甲冑を身につけた武将のようであった。毘沙門天
のように見えたが、そうでないことはその装いと態度によって分かった。
「国常立よ、もはやこれまでよ」と、するりと刀を抜くと、それは青白く光るや、光を浴
びた周囲は真っ暗になった。刀の妖気とでも言うか。
「魂をも斬ることのできる太刀がこれなり。再び生ずるなかれ」
そう言うが早いか、太刀は国常立尊に浴びせられた。羽交い絞めにしていた怪物の腕とと
もに、国常立尊は胴体を真っ二つにされてしまった。しばし甲冑武者は様子を見たが、彼
の魂は強靭で、未だ死んではいなかった。
「おのれ。よほどの精神力と見える」
さらに縦横斜めと何太刀も浴びせて、一寸刻みにまでしようとした。
国常立尊はそのとき、自分の中にいてこの様子を見ている梵天に訴えた。
「梵天よ・・魂のない者がいます・・これは明らかに反則・・処罰を求めます」
そうして息絶えた。
魂の断片の山からなにやら霊気が立ち昇った。
「何だこれは。まだ生き延びようとてか」
甲冑武者はさらに断片を形がなくなるまで切り刻んだ。周りには、かねてより国常立尊に
媚びへつらっていた側近の姿がいくつもあった。
「これで二度とお目にかかることはなくなるわけですな。バイオモドキ様」とまで言って
いる。
「まだ未練があるやも知れぬので、僧侶を招き呪封を行う」
と言うや、申し合わせたように、ひとりの僧侶が入ってきた。術に長けた太公望である。
「このひき肉を、ここより北東の方角の遠方に持っていき、ばらばらにして土中深く埋め
なさい。この一塊だけは、地中最も深くに埋めるゆえ、私が持っていく。お前たちで残り
を互いにくっつくことのない距離に埋めてしまうよう」
「ははっ」
「かくなる呪詛を施そう。炒った豆から芽が出て花を咲かせるような途方もない未来に、
再び日の目を見ることを可能とする、とな。こうでもせねば、魂ある者を冒涜する云々と
外野から横槍が入れられんとも限らんのでな。永遠なる魂には、ふさわしい未来展望にな
るであろうよ」
国常立尊はこうして、人事不省の状態となり、魂の不具のまま昏睡することとなった。
ところがこのとき、国常立尊の意識を通して梵天が事の仔細を確認していた。しかも、有
情の中でいつものようにただ眺めて楽しんでいるのとは訳が違っていた。国常立尊が今わ
の際に託けしているのだ。それとともに、梵の全系を揺るがす外敵の存在をしっかりと確
認したのだった。
こうして、いみじくも太公望が知らずに外野呼ばわりした全系の最高神に知れてしまい、
大規模な邪神掃討プロジェクトがスタートすることとなったのである。
地を見れば天の如何なるかが推測できるように、以後、神界にも権力をほしいままにした
い策謀尽くめの暗愚な神が歴代の主神として輩出された。その影響を受けて、地からは勧
善懲悪の理念が衰退し、正義と邪悪の戦いの局面において、前者の勝利することが稀にな
った。いきおい被支配者たちは上を見習うようになり、悪事も法に触れぬほどに適度にせ
ねばと、折り目正しさを失い、魂の品位を下げていったのだ。
だが、神界は確かに“さ蝿なす黄泉”のごとしとはなったが、まだ地上界ほどではない。
正しくとも、大人しくしている神々があまたいて、人々を任意に導いていた。
だが、地上界は低い野蛮なプログラムの適用されるエクストランとなってしまったのであ
る。
これが伝承に言う、失楽園の背景である。

 


デイブレーク・ブリゲード計画

 

失楽園の発生は、同時並行的に、クーデターを起こした邪な神々を掃討する作戦の事始め
ともなっていることに注意が要る。だが、神界のスパンは地上よりははるかに大きい。
当然ながら、正しい者たちの間からは、ずいぶんひどい世になってしまった、何とか以前
のようなまつりごとの世に戻して欲しいという思いの煙が幾重にも立ち昇っていた。やが
て、悪魔邪神の支配は終わる日が来るという預言めいた噂が立つようになったが、なかな
かそれは訪れようとしなかった。
神界の神々は、汚らわしい地上への下生を忌み嫌ったが、いろんなことが生じる魅惑的な
実験世界ではある。
その地に赴く者は、本来、神々によるそれなりの加護が必須となる。それなしでは、裸で
ジャングルを行くが如しなのだ。この世にあって、幸せでいられる者、目的を見つけた者
は、神々の加護と期待を必ずや担っている。感謝せねばならない。
国常立尊に仕えた忠臣たちは、付き従う者たちと共にこの忌み嫌うべきエクストランに至
らざるを得なかった。この地だけが、お家再興の可能性を秘める舞台と目されていたのだ。
忠臣たちは順次、あるいは時差をおいて、あるいは異なる場所へと、ちょうどパラシュー
トで目的地に着こうとする如く、マトリックスプログラムのジャングルへと降下していっ
た。
すでにネアンの姿が下界にあるのを見て、カンナオビもイナンナも、飛行船から時間計測
器で狙いを定めて飛び降りていった。着陸後は、勘を頼りに探す覚悟である。
彼らを胎内に受け取ったのは、先んじて降りた忠臣やその仲間であったりした。ネアンの
場合は、真っ暗な中、銀色の蜘蛛の糸を伝いながら降下し、国常立尊の忠臣であった者の
胎内に宿った。その後は、幾多の紆余曲折の中を彷徨ったが、結局は忠臣たちとの協力下
において、拠って来る目的を見出すのである。カンナオビの場合も、忠臣やその仲間たち
に加護されて目的のへと運ばれ、絶妙のタイミングでネアンに辿り着いた。そこには神界
の異端の神々の加護があった。
イナンナは、先達から役を奪うようにして準備なしで突然降りてしまい、工作員の資質と
力だけで進路を切り開いた。彼女が旅の途中で邪神につかまり臨死に追い込まれたときに
は、異端の神々が体制側の神々と渡り合い、窮地を救ったのである。
ネアンも下で所在を知らせるアンテナを広げていた。後発の者が早く辿り着けるようにと
の計らいだが、ネアンの顕在意識の知るところではない。こうしたことは、潜在した魂の
意識のみが知ることである。

彼ら同一目的的霊団を“デイブレークブリゲード”(夜明けの旅団)と呼んだ。
彼らを共通の神が加護した。その与える霊感によって、適機に邂逅を果たすべく導かれた
のである。
異端かつ強力な正神たちは、主として蓬莱島に集まり、作戦会議を開きながら、エクスト
ランに至った者たちを見守っている。リハビリを終えて返り咲いた国常立尊が正神軍の総
司令官となることは間違いない。
プロジェクトの作戦力が強まり、邪神たちを圧迫していくにつれ、正義と公正の執り行わ
れることを願う者たち全般へと、加護の範囲が広がっていくことになる。だから、地上の
人々よ。抑圧的な邪な神々につくのでなく、鬼や龍など、まがまがしいと思われがちな神々
につけ。後者は、見た目は仰々しいが、有情の幸せなることを第一義とする神々である。
彼らの真性は愛情であり、生命に優しい豊かなエネルギーである。
彼らが近づくと、心地よさで満たされ、心身の若返るのを感じるであろう。
魂のない者の化けた神にしがみついていても、精気を奪われるだけである。魂のない神と
それと結んだ邪神たちには人類への愛がなく、錯誤した価値である財貨や名誉や権力を贔
屓筋に与えている。贔屓されぬのに、羨ましがってこれらを求める者には、おおよそ奈落
が用意されている。
分際にあらぬものを取ろうとするなかれ。少ない中にも足るを知れ。それが安全の基とな
るであろう。
かつて立ち上がった者は多々いたが・・・ピント外れだった
虐げられた人々に対しては、そうあれと薦める正神ではあるが、邪神の支配下においては、
生まれて一人前になるまでに、人生の目的が財貨や名誉を得ることのみ第一義として教え
込まれる課程が強制されていて、よほどの気付きがなくては、正神の囁きも無になるもの
である。
気付いた者が、体制を改訂すべく立ち上がったことも歴史上には多々あった。だが、その
ほとんどにおいて、ピントが外れていたり、正神が導いたにもかかわらず、正神の優しさ
からくる詰めの甘さによって、もう少しというところで失敗している。それが戦による改
革であるなら、敗北を喫するという形で終わった。
知られる例では、聖徳太子、平将門、明智光秀などがそうであり、確たる天下人となり得
たならば、どうあっても理想郷を生ましめる礎を築いたであろう。だが、正神に属する天
下人は、地位を辞退したり、適度なところで留め置いたりしてしまい、決定的な詰めを怠
ってきた。そこに邪神はそれをさせじと、暗殺者を送ったり、あるいは別の強力な兵団を
使って、脚を引っ張り混乱させた。
そうはさせじという邪神の計略と、もうこれぐらいでいいだろうという正神の手加減があ
いまって、そうした事態を招いているのだ。むろん、実現しようとする本人も正神的な心
根だったから、複合的に抜かりが生じたのである。
しかも、無念の中に命を落としても、死なば執着を残さずの境に入ってしまい、熱意を継
続できなかった。霊界に入れば、上位にある神々はみんな善で優れているという観念があ
るがゆえに、そこでは矛盾をよう披瀝できないのである。
こうして、死なば下界の沙汰は我に無縁となり、生前の志は失われ、まったくお門違いな
転生を余儀なくされていくのである。まさに、邪神の思う壺にはまったマトリックス世界
なのであった。
こうして、せっかくの高志は懐柔され骨抜きにされてしまったが、下界にある歴史書には、
彼らの高志が残され、引き継がれていった経緯がある。それも、ノイズ紛々たるエクスト
ランなればこそのメリットであった。
だから、このたびの計画には、夜叉性を備えた者が抜擢されねばならなかったのである。
ネアンは、いざとなれば猛禽の性格を呈し、温情の微塵も見せないことで有名な神であっ
た。

 


元凶を特定すべし・・・正確な捉え方とは

 

罪を憎んで人を憎まず、とは福沢諭吉の言葉らしいが、では捕縛され裁かれるべき罪とは
何ぞやとなったときに、いつものことながら空論にしかならず、犯罪被害者の心情を癒や
すものたりえないことに気付かされる。
そのようなはぐらかしの美辞に則ろうとするこの国の法制度下においては、この福沢の言
葉は、トラウマだけを人の心に遺していく厄介な名文句でしかない。
形而上の事物が見えない、つまり盲目がなせる暗愚が覆っているからである。敵が見えて
いないのだから、原因も特定できず、それに勝てるはずもないのだ。
だが、ネアンの場合は捉え方がまったく違っていた。人を憎むのでなく、邪神を憎むので
ある。邪神は確かに見えたりしない。だが、経験的にその存在が分かるものだ。
世の矛盾に晒され続けて、それすらも感受できないなら、世の科学万能教育に完璧に洗脳
されているとしか言いようがない。御説の確率論に従うような事象はどこにもないことを
知らねばならない。
そこで障りをもたらす邪神という表現は、見えざる厄介な実体を、的確に捉えているはず
である。それは怖いと思えば怖いかもしれないが、世間に炙り出してしまえば、世論の高
まりに打ち勝てないのも彼らなのである。実態を晒し、みなで注視することが重要なのだ。
ネアンは元々、世の矛盾、不合理の一々をことごとく邪神のせいであると断定してかかる
癖があった。たとえ人が起こした邪悪な事件といえども、その背後にある悪しき上位に対
して怒りが向く。というのも、常に神という存在と対峙して、取引してきたからである。
審神者の長きに渡った職制がそうさせたとも言える。そこには、決して良い神ばかりでは
ないゆえの、切り分け判断の目が培われているのである。
さて、罪の実態が邪神にありとすれば、少なくとも犯罪被害者にとっては、仇敵として確
立できよう。邪神をこの際、天邪鬼と言い換えても良い。実態のつかめない原因に牙を剥
くほど疲れるものはないから、ぜひそうなされたい。よけい曖昧になったとお考えなら、
死した後の自由度を回復したステージにおける仇討ちの決意だけはしておかれるよう。こ
うすることによって、正神側に自ずと就くことになる。
だが、人は神に実力的にかなわないから、正神に加護を頼むべきである。あなたに
内在する梵天に救済と制裁を求めるよう。
さて、この傾向は転生を経てなお持ち続けるネアンの特質であった。彼はドン・キホーテ
的な性格だったから、見えざる敵が問題ならば、それが見える世界に入った後、報復の行
程を踏もうと決意するのである。

 


事情通が行動するとき・・・救世主となる

 

ネアンは、理論を熟知した者であるゆえに、生死を超えて自らの任務を継続的に遂行でき
る。現世における仕事は、神界への影響力を持つ仕掛けを用意すること。そして、神界に
入ってからは、現世で培った邪神掃討の精神を、徹底して実行に移すことである。優しさ
や妥協は一切ない。もし武功なく敗れたなら、魂を途絶する。あるいは、少なくとも敵の
大将を刺し違えて倒す覚悟でいる。
(2014年になって二つの情報がもたらされた。ひとつは未来 から来た韓国軍人の2066年情報。
もうひとつは、すでに月の裏側に降り立った宇宙飛行士の目撃した衝撃的光景の話である。
どちらも、ネアンのこの決意を反映したかのような情報であった)

だが、梵天は、魂を途絶するのでなく、この問題の宇宙の外、つまり外野に退避させるつ
もりでいる。正神軍が敗退したなら、この宇宙で共に戦った忠臣や工作員たちにも危険が
及ぶ。それゆえ、いっせいに外野に引き上げさせる手はずなのだ。カンナオビ、イナンナ、
ミソギ、ツン、マリオ、ゲン、シノ、海幸などなど。そこは元あった広大な梵の全系とい
う世界。生成衰滅という理念などに規定されない、テーマパークに取り込まれる前の故郷
なのである。
誰が永遠不滅の宇宙など見当たらないと言う者がいよう。元あった故郷の記憶をなくすほ
どに洗脳されている者の言というしかない。
だが、神界での正神大勝利の暁に、理想世界の登場なるなら、ネアンはそこにいようとす
るだろう。そこでカンナオビを妻にしてしばし過ごし、梵天の認可を得て二人で小さくと
も幸せな理想宇宙を創る。(それはもちろん外野でもできることであるが)
たくさんの縁ある有情を彼女の子宮から生み出し、協力して宇宙で育み、すべての子孫に
幸せを享受させるだろう。
その新しい宇宙に招かれるのは、この世で正しかった者、世の弾圧や軋轢に苦しんだ者、
いじめられた者、世の不合理に心痛めた者、不遇に世を送った者、そして苦しさのあまり
自殺した者たちである。これらの者たちは、ことさら優しく手厚く迎え入れられるだろう。
彼らは、痛みが分かる者だからである。ほんの少しガイダンスするだけで新宇宙に参加で
きる資質をすでに持っているからだ。
いっぽう、殺す者、いじめる者、嗜虐的な者、他の痛みを理解できぬ者、権力誇示の者た
ちは立ち入れないところとなる。これらの者は、邪神と性質を一にするからであり、諸悪
の限りを尽くした邪神よりはまだしも罪が軽いとしても、殲滅もしくは追放の対象となる
ことは間違いない。

 


カンナオビ永遠なる命

 

カンナオビはある日、簡単な水彩画を描いて、感性の豊かさと才能を顕わした。ネアン
がそれを見たとき、郷愁ノスタルジーを禁じえなかった。まるでしばらく離れてしまっ
ている故郷のように思えた。愛しいカンナオビがそこで待っているように思えた。いずれ、
共に暮らすはずの場所のように思えた。
彼女は次に、自分の家の中のアクセントとして飾りたいと、感性のありったけを投入し
てステンドグラスのデザインをした。それを見たネアンは、またもノスタルジーを味わ
った。前者は風景であったが、この場合は抽象的な幾何学的デザインであったのに、ネ
アンは自らの中から愛情が春日井のように湧き出てくるのを感じた。
顕在意識のカンナオビは、そうとは気づいていなかった。ネアンとは関係ないものと思
っていた。だが、潜在意識は、これを見てくれるであろうネアンに対して、ひとつのメ
ッセージを送っていたのだ。
円を基調とした幾何学模様に青を主体的に使った配色であった。デザイン的には単純で
あったが、ネアンは描かれた形に魅せられた。青い配色で母体があり、それはベールで
顔を覆い隠した修道女のようであり、母体の胎内に双子の赤子を擁しているようであっ
た。母体は青い。それは神聖さ、謙虚さ、受動、消極さを示していた。胎内に宿るもの
は赤みを帯び、そこだけが能動、積極さを示していた。
朱雀と青龍が交わった。女は青蛇となって子を宿した。東海の海の中で静かに胎内で子
の育ち行くを見守る母。母蛇は、父である存在に対して、このような形でメッセージを
届けたのである。
顕在意識のカンナオビは、幾度もの生理不順騒ぎで、ネアンの狼狽を見、自分は潔白だ
という思いで、誰が妊娠などしているかと思っていた。だが魂は、幾度ものエネルギー
の交わりから、魂の次元で子供ができたことを知っていた。それを創作という形あるも
のに押し出そうとするとき、顕在意識の知らぬ間に意図を吹き込んでいたのである。
カンナオビの魂は、あの妊娠騒動の中で幾度もの人生を体験していた。その経た年月は
数百年にも匹敵した。ネアンもそうである。二人は魂の次元ですでに老夫婦なのであっ
た。過去世とあわせるとどれほどの年月になるだろう。
ネアンはある朝、そのデザインを夢に見て、無性にカンナオビが愛しくなった。夢に出
てきたときのデザインは、もっと丸みを帯びて(太っていて)青っぽく暗い感じがした。
淋しげだった。カンナオビは疲れていないだろうか。修道女として今生を歩んでいるの
に、身篭った気持ちになっていて、後悔していないだろうか。そう思い、そのデザイン
の図柄を介して、カンナオビを抱きしめた。愛らしく愛しいカンナオビ。君をずっとず
っと愛し続けている。少しも君のことを思わない日はない。いずれお互いがリザーブし
あっていたことに気づくだろう。あと高々数十年じゃないか。わずかの間だから、下界
に遠足して、たくさん見物してくるのもいい。
すると、その直後にカンナオビから、お声が聞きたいと連絡が入った。このステンドグ
ラス絵は心と心を繋げる窓の役割をしているかのようだった。
ネアンは思った。自分が死んだとき、カンナオビのもとにただちに至りたい。だが、脳
が死んだ時点で記憶というものも消滅するだろう。そんなとき、このデザインなら必ず
魂にも記憶され、この象徴を通してカンナオビに辿り着けるに違いない。カンナオビは
物覚えの悪い自分に道標を提供してくれたに違いないと思った。
新たな宇宙は二人で育てていかねばならない。忘れてはならない命題がシンボルとして
目の前にあった。
ネアンはステンドグラスに仕込まれるであろう母子の部分をレタッチソフトで切り取り、
カンナオビがネアンの象徴だと考えてプレゼントした天使像をカメラで撮って写真にし
て、天使の抱く猫に代えて天使の膝の上に置いた。
すると不思議なことに、写真は母子を中心にして輝き始めたのである。ネアンはそれに
見とれていた。光は写真の範囲を超えて放射状に部屋全体に広がっていった。さらに壁
を通り抜け、さらに外界にどんどん広がっていき、やがて視界全体が白く透き通る光に
包まれてしまった。
ネアンはかつて、このような光景を一度だけ見たことがあった。そのときは、自分の気
が違ったかと恐怖して、懸命に元に戻そうとした。だが、このときは違っていた。ネア
ンは何物にも造形されざる「空」の中にいることを悟った。あらゆる創造のエネルギー
がそこに存在していた。
カンナオビ。私はこの「空」にい続けたい。だが、君と共に、二人でプランした宇宙を
創ることもできる。カンナオビ。どうすればいい?
「空」であれば、二人は永遠に不可分の存在としてい続ける。宇宙を創れば、君と分離
してストーリーの中に生きることができる。どちらがいい?
カンナオビは、「光だけであなたのお顔が見られないのであれば、うれしくない。それ
におなかに子供が育っています」と、おなかに手を当てて黙した。
分かったよ。ともに宇宙を創るという夢を果たそう。君の胎内のプランを実行しよう。
ネアンは身ごもったカンナオビを優しく抱きしめた。その愛は、来るべき新しい宇宙に
普遍充満するところの愛と等しいものとなるだろう。そこにどのような有情が訪れよう
とも、分け隔てなく歓待されるように。

まばゆい光はやがて世界の中に溶け込んでいった。外界は見たことのある風景になった。
だが、明らかに、新しい宇宙がロールオーバーされたことが実感できた。
まだもう少し、どんなことも起きるだろう。だが、その先に愛に満ちた未来が必ず待っ
ている。カンナオビ。君と共に愛すべき未来が。

 


救世主・・・聖徳太子からの変遷

 

ネアンはいま一度昔を振り返ってみた。十六の頃、妙なインスピレーションを得て、自
分を求道する菩薩に喩えたことがあった。それが最初だった。広辞苑を引っ張り出して、
神仏の世界の構成や諸菩薩衆、諸如来衆の名前をたどった。そして、自ら「救世行法菩
薩」と名付け、楢の角材に菩薩像の半身を彫ったのだ。
ところが、聖徳太子も救世菩薩の化身と自らを評していたことが後で分かった。それも、
イナンナの実家の傍が太子のゆかりの地であるため、イナンナが特別に固執した人物が
聖徳太子であり、この神話への関わりがあることをときおり訴えていた。太子町の斑鳩
寺には、時代錯誤な遺物、オーパーツとも言われる地球儀がある。それだけでも心騒ぐ
ことで、イナンナは宝塚の中山寺が何かの鍵を握るとも話していた。
だが、それよりもネアンは、あの八角堂と夢殿の八角堂の相似像、あの八角堂に現れた
キンイロタイシと夢殿の太子の夢に現れた金人の相似像に興味した。この二つの八角堂
は奇しくも等緯度上にあったため、霊場の幾何学的配置の探索を手がけていた彼は、そ
のシンクロに色めきたった。金人がキンイロタイシなら、太子が毘沙門天をはじめとす
る四天王に武運を祈ったことと無関係ではない。
ネアンが聖徳太子について知るのは、理想のユートピア建設を、あのたいへんな時代に
あって志そうとして、最後に絶望の言葉「世間虚仮唯仏是真」を残して世を去ったこと
である。
「世間虚仮唯仏是真」は、あまりにも悲しい言葉である。むろん彼一代で理想郷ができ
るとは思っていなかっただろう。彼の志を継ぐ人たちによって、達成できれば本望と思
っていたに違いない。だが、彼の子孫はことごとく殺害された。予言的なこの絶望の言
葉には、彼が垣間見た恐ろしい現実があったのであろう。
太子の手もとには、海外の資料があまたあり、その研究に手を染めていた。だが、多国
籍語の壁は人生の短い期間における個人の能力には過大であったろう。しかも、為政者
という多忙な立場にあった。
ネアンはまるでその事情をあぶりだそうとするかのような研究をしていた。聖徳太子に
頼まれたわけでもない。自然に神話研究に手を染め、取り付かれるように解読した。西
日本に線も引いた。こうして、歴史をコントロールしてやまない根源へと近づいていっ
たのである。当時では測るすべのない情報しかなかったときに、この情報過多の時代に
あって、太子の後志をまさに継いでいるかのようであった。
そして淵源を知り、それに対抗し改定するためのルールをも見出した結果がこの神話で
あった。
聖徳太子は、蘇我馬子に組して物部守屋を破ったときに、四天王の加護を祈った。毘沙
門天王はネアンに最も関わりのある神である。母ミソギは毘沙門天の縁日に生まれると
預言されてその日に生まれ、しかも男ならば位人身を極めると二人の別修験者によって
預言されている。毘沙門天の別名はサナートクマラでありルシファーであり孔雀王であ
る。
その二つとないルシファーの彫像はカンナオビによって東海の竜宮から運ばれ、誕生日プ
レゼントして、ネアンの書斎にあった。

 


妥協を許さぬ邪神討滅、正神復興作戦

ネアンへの質問

ある者がネアンに問う。
神話では、邪神も天仙も、世の乱れの元凶であると言い、殲滅の必要をはためかせている
が、いっぽうでそのような存在はないと言っているのは、どうしたことか、と。
ネアンは答える。さよう、実際にそのようなものはないというのが真相だ。(すべてはプロ
グラム群としてあるのみで、それを離れれば何もない)だが、仮の姿として、煩いの種子
の邪悪が存在するなら、それを打ち破る仮の姿としての強力な存在も必要となるという道
理である。仮の世を観測することが余儀なくされている限りは、仮の姿としての邪神殲滅
のシナリオが存在しなくてはならない。もし、あなたがもはや仮の世に関わらずともよい
なら、正神も邪神もいかなる階層構造も、もはや意味をなさない。囚われない心を達成で
きるか?それが無理なら、仮のシナリオによる安寧を得る過程を置くことも良いのではな
いか。釈尊はそれを化城に喩えた。たとえ真実は空であるとしても、嵐に晒される木の葉
のようである中に、安らげる状態を求めるべきことを。
またある者がネアンに問う。
邪悪を嗜好する者もいることである。それは魂の自由というものであり、殲滅というのは
やりすぎではないのか、と。
ネアンは答える。すでに章の始めのほうでも説明したように、邪悪を好まぬ魂もあまたい
る中にあって、教訓的な程度のものから逸脱したひどい邪悪が混交し、その傾向が許容さ
れるようになれば、正しい方向を志向する魂たちが混乱し、絶望してしまうことになる。
そこには多数決で先行きを決めようなどという身勝手な暴論があってはならない。支配神
たる者が、宇宙存続の原動力にするなどというあたかも全体の利益になるかのような奇妙
な迷妄の論理を組み立ててはいるが、実態はこの世に有情を取り篭める目的でしているこ
とに他ならず、早々に支配神の更迭を図らねばならない。それを彼らが拒否し戦うとなら、
我々が外野であろうがなかろうが、同胞の魂の救済のために戦うことになる。かつてのよ
うな生ぬるい戦による失敗の連続を教訓として、一毛たりとも漏らさぬ殲滅を掲げ臨む。
このためには、一時の功あったイナンナすら外に置かねばならないこともある。
邪悪を嗜好する者だけ集めて別世界を創らせ、黄泉の国として残し置かれて然るべきとい
う案もある。それが採用される可能性もある。正神の多くが賛成しているからだ。だが、
邪悪嗜好の者は、正しい者に対して害を為すことにこそ喜びを見出すものである。そのよ
うに洗脳教育されてきた者たちだからだ。いずれ、時満ちれば別世界から侵攻を企てるだ
ろう。だから、初期における邪悪の殲滅こそが私の念願であり、もし彼らの世界の存続を
認めるとなら、こちらの世界は強力なファイアーウォールで防御されなくてはならない。
だが、そのような手間取ったやり方より、殲滅こそが最大の防御策になると信じる。私は、
折衷案的な考えしか披瀝できない正神たちの世界すら辞して、模範的な幸せの世界を妻と
共に創造し、それこそを強靭なファイアーウォールで守るほうを取りたいが、それではま
た神界に邪悪は忍び込むだろう。私は本当なら警護の巡回に赴く手間さえも省きたいのだ。

正神の世ですか。面白みのない世界を創るのですね、とある者が笑う。それに答える。
魂の嗜好する世界を各自が選び取ればいい。あなたのように戦闘の好きな魂は、黄泉の国
で同好の士と闘えばいい。相手も倒されまいとするだろうから、勝負も楽しいものになる
だろう。それを愛好するなら、そこに行けばいい。ただし、そのような場所に戦闘を愛好
できない者がいてはならない。もしいたなら、直ちに救い出されなくてはならない。とこ
ろが、今のこの世はどうだ。好き嫌いに関わらず、多くの者が関わらされている。支配神
の暗愚もしくは横暴というしかない。
正神の世界も、曖昧なものとなっては良くない。トータル的なシステムの中に、博物的な
邪悪の名残を歴史として教える見聞のシステムはあって然るべきだろうが、見学者に魂の
堕落を起こすことのないよう、しっかりとガイドする体制が要る。あなたの言う面白みは、
十分に管理された中で慎重に適用されてあるべきだ。そうでなくては、邪神支配の世界と
少しも変わらなくなる。
改善するから殲滅などという物騒な話にしないでくれと、支配神の側から頼み込んできた
らどうする、とある者が問う。
ネアンはこう答える。
天にもある如くが地にもある。天の意向が地に反映している。地を見て判断するしかない
モニターの我々にとっては、支配神の考え方を測る目安がこの世に与えられていると考え
ている。そのモニターのひとりが、分析に分析を重ねた結果、支配神が総じて信用するに
足らざる者であると結論した。頼み込んでくる前に、地に長足の改善の兆し、もしくは改
善の積極的な事実が認められることが重要だ。足元の乱れが改善されていないで、どうし
て元の設計思想の改善を知り得よう。口先だけの嘘話なら、邪悪な神の得意とするところ
であろう。殲滅の方針に転換はない。
もしたとえ、万が一彼らに恩赦が与えられ、なおかつ正神たちが過去のものもまだ見所が
あるとして、従前のシステムを遺すつもりなら、心根の邪な邪神を管理者として用いるこ
とは極めて危険である。すべて正神で接収して、博物化へと方向付けされるべきだ。邪神
はいっさい関われぬよう、ことごとく殲滅するか隔離すべきである。

 


不誠実なからかいの空の下

 

人生、誰しも忍耐して完了する。一寸先も分からない航路を辿るゆえに、失敗に失敗を重
ねる試行錯誤の連続である。そればかりか、神々の守護がなければ、選択肢のひとつひと
つに少なくとも半々の失敗が介在することになり、どのようにしても順調かつ迅速な成功
を収めることは難しい。
そのような中、邪神は半分の確率であるべき失敗を、嫌いな者に対してはわざと高確率に
し、一生日の目を見させない処遇に出るのである。
人は、不遇な人生だったと死の間際につぶやくかも知れない。そのようなとき、思い返す
のは反省として、あのときこうしておけば・・という判断ミスについてのことがほとんど
であろう。だが、それは彼が悪いのではない。干渉する他者が介在して引き起こしている
のだ。
プログラムがすでにそうなっているという事情もある。いずれにしても、彼にその人生を
選ばせているのは、見えざる干渉者である。
それが正神であるなら、まだしも戒めであり致命的なものにはならない。だが、邪神の手
になるなら、悲惨を極めることになる。
人は、思わしくない人生の最後に、自分を責めて死に臨むことも多かろう。自殺などはそ
の最たるものだが、むろん普通の寿命が尽きたことによる死の場合でも、そういうことは
多い。何の煩いも感慨も持たず、感謝のうちに死ねる者は少なかろう。
人は、一生を自ら生きたつもりでいるから、ふがいない自己を責めたり評価したりする。
だが、まったくといっていいほど、彼自身で生きていはしないのである。
最大の理由説明としては、人の意識がプログラムの航跡を辿って観測しているだけのこと
が挙げられる。人生を自らの意志で選択したと思い込んでいるだけなのだ。
この話は一般人に対する、心の負担を軽くするための説教なのではない。
我々人間という存在が、いかに虐げられた境涯であるかを説いているのである。
真の原因者は、見えないことをいいことに、人間を愚弄してかかっているのである。
また人間のほうも、脳の構造からして、邪神によって都合よく作り変えられている。
結果として、見えない神には畏敬するものの、敵対をようしないのである。敵対しようと
する前に、そんなものはないという無神論者になることのほうを選ぶのだ。
脳の作りがそうさせている。つまり、遺伝子論的に言うなら、最初から腰砕けの環境下に
転生させられてくるというわけだ。
いま喩え、ある人が真の原因を特定して義憤に燃えたとしよう。だが、彼はいずれ年老い
て体のいうことが効かず、無力に打ちひしがれる。
こんな身体では、向こうに居る悪魔とは闘えない、せめて若い頃の頑強な心身であればど
れほどかいいのに、と。
そうして臨死のとき、彼は確かに反省などせずに死を迎えたとしても、彼の死を迎える精
霊があまりに暖かく、あるいは中陰の夢見のプログラムに誘うので、彼は生前の航跡を忘
れ、あるいはどうでもよくなり、次の課程に否応なく進まされてしまうのだ。
彼の所期の闘志は空しくされ、脳の死が生前の記憶の死となるわけだ。
こういう有様を見て、ネアンは晩年の神話に生きた航跡を、新神話に書き残すことにより、
神話空間に定着させようとした。
神話に生きたことこそ、唯一今生を送った意義であり、そこに発見された多くの知識こそ
が彼の成果になったものだからだ。
生前の思いを魂の記憶に刻み込み、必ずや神界や霊界において、志を果たす。彼の仕事は、
今生が終わったから終わりなのではない。
すべての生、それがプログラムである限りにおいて、仕事は途切れることなく続けられる。
邪神邪霊をことごとく討ち果たし、大政を正神のものに復帰せしめる。
神話空間にある新神話は、彼がどのようなプログラム下にあったとしても、知恵を投げか
けるものとして機能し続けなくてはならない。
どんな妨害に遭っても当初の道を見失わず、ただの邪神の一兵卒たりとも逃したりしない
ために。
武運拙く敗れた折は、梵天が魂の途絶を行ってくれる。それゆえ、数ある敵に対して力及
ばずとも、敵将と刺し違える覚悟で臨めるのだ。

 


新神話が与える選択肢

 

新神話と現実との整合を図る時間割は次のように改訂される。以後、改定は時と共に重ね
られる可能性がある。ただ、ここにはネアンの自己利益を反映して神々への脅しの気持ち
も含まれているので、いささか過激かも知れない。(読者は加減して読まれたい)
だが、過激にならないために、正邪神両方に対して、二つ条件が示されてもいる。神々は
よく相計られなくてはならない。

 

1.新神話第7章までの成就⇒最も優しく理想的なソフトランディングだったが失敗⇒
2002.6.6イナンナの裏切りによる⇒その前後に火の鳥の起動がみられた

 

2.旧神話による天の岩戸別け⇒優しいソフトランディングだったが失敗⇒2003.12.29日

生まれの出嬢との相性悪し⇒桃の実UFOの起動がみられた(大量のUFOをヒラサカが撮る)

 

3.旧神話の黄泉国脱出⇒選民のみのハードランディングは未踏⇒2006以降の予定となろう

⇒カンナオビやミソギとの連携の必要性あり

 

4.ヒラサカ神話の成就⇒地球開星・宇宙文明の仲間入りは未踏⇒2006以降の予定となろう
⇒ヒラサカへの全幅の信頼で可能となろうとも、見込み薄

 

5.旧神話黄泉国脱出の成就と神界の正常化⇒未踏2006以降の予定⇒カンナオビと
の協力が不可欠

 

6.新神話第9章までの成就(1)⇒火の鳥による天界と宇宙の浄化再生は未踏⇒2004でも可

⇒その場合はネアンの死で新神話発動⇒邪神討滅と正神復活⇒カンナオビと創る新宇宙(これが最高)

 

7.新神話第9章の成就(2)⇒火の鳥による全宇宙の消滅は未踏⇒2004でも可

⇒その場合はネアンの死で新神話発動⇒全有情の本源エネルギーへの回帰

 

上における説明の付与をしておこう。
2003年12月末、夜明け前と夜明け後の二つの誕生日を持つ日の出嬢との出会い
は、結果的に不満だらけのものに終わった。夜明け前の誕生祝いが最後の時であった。
この意味するところは、高天原に夜明けは来ないという意味である。
しかし、初期の出会いによる岩戸を半開きにさせたことの効果は、満天の白球UFO
の出現という、いずれイザナギの黄泉国脱出の手立てに使われるであろう黄泉平坂の
坂本に生る桃の実のシュミレーション演習として現れた。ヒラサカという親友がそれ
を目撃しながら撮影するという快挙をしてのけたのである。身近な人物によるこの出
来事は、この人物をいずれ介して起きるであろう、ひとつの歴史展開の可能性を示し
た。
後はネアンが、世界戦争という人類存亡の危機に際し、その意義付けをしっかりとで
きたらよいのである。するとその結果として、夢のような話かもしれないが、意外や
けっこう多くの人たちが夢見たことのある、天使による救出劇となって現れることで
あろう。天使とは宇宙人かも知れないし、まこと天使かも知れない。
その実、一見真実味のなさそうな話をしながら、UFOばかりか鬼神をも操れるとい
う人物がヒラサカであり、どうしてもといった感じでネアンを頼ってきていた。ヒラ
サカは自ら弥勒菩薩であると語り、この世における役割名はイザナギノミコトだと語
った。この意味は、救われるべき人々を集め、黄泉から脱出することである。
後はネアンが、この人物を完全に信じ込むことができたら、魔法のリンケージは強力
に機能して、黄泉国脱出への必要な行程へと歴史を進ませていくことができる。さら
に進化させた地球開星という行程すら可能になるかもしれない。二人の魔法が同方向
に合致するからだ。
だが、ネアンはたいして関心がなかった。
ネアンにはネアン独自の役割があるため、そればかりに全力をかけることができずに
いたし、ヒラサカもネアンの信仰を試すかのように、いっそう途方もない話に終始し
たからだ。
ネアンとしては、それに乗ってしまってもよいのだ。そう徹底できれば、彼はヒラサ
カを介して宇宙人の友となり、ちょうど勝海舟がペリーと直接交渉したように、あら
ゆる国をさしおいて、ヒラサカと共に地球開星条約の席に臨むことであろう。
そのとき、地球には二つの選択肢がある。

(1)ひとつは地球をあくまでも鎖国状態に置き、宇宙人を侵略者とみなして戦う道。

米国ならそうするであろう。
(2)もうひとつは、宇宙への門戸を開く開星の道である。

前者は、人類の腐敗堕落の暁に早晩地球内部だけでも十分起きうる黄泉国の滅亡とい
う結末と等しい結果を招く。
つまりここにも、二つの選択肢があるわけだ。

 

①ひとつは国際紛争をきっかけとした世界大戦である。
北朝鮮はあらゆる面で危険な国である。一旦は軟化したふりをして、存亡の危機のと
き、世界を混乱に陥れるべく、仕掛けを行う。これによって日本が危機に陥り、米国
も経済危機を迎え、世界経済が混乱に巻き込まれ、新たな戦争が各地で起きるように
なり、核兵器が使われる。この使用はとめどない核使用の連鎖を招き、世界滅亡に至
るというシナリオだ。最期に地上を支配するのは冷酷非情なロシアと中国となるが、
それも核の冬と内紛により長続きしない。
この時代を生きる者は、それなりの暴力性がなくてはならない。どんな退廃や残酷を
見ても耐える力が要る。その予備役であるかのように、今の子供たちはしたたかな生
を受けて出てきているように見える。

 

②もうひとつは、米国主導で、宇宙人と戦争をするシナリオだ。時が来たにもかかわ
らず、門戸を開けないのはおかしいとする宇宙側と、あけまいとする地上軍が戦い、
当然のことのように地上軍は敗れ去ることになる。このとき、米国は世界を道連れに
して地獄に赴こうとする。なぜなら、米国にもグレー宇宙人がついていて、技術供与
をしていて、最期まで抵抗するからだ。いわば明治維新前に、幕府側にも別の外国勢
力がついていたというのと同じだ。このときに突発的な人類滅亡という事態が起きう
る。核兵器は何も米国だけが保有するものではないこともある。
だが、裏側での交渉しだいで、人類は滅亡を免れ、地球開星への道に進むことになる。
これは後者、すなわちもうひとつの地球開星のシナリオと合流することになり、人類
はかなりの規模で救われることになる。
これは新神話でも旧神話でもない。ヒラサカの持ってきた神話に付け替えがなされる
結果だ。ネアンは対宇宙外務大臣となった時点で自らの神話をすべて捨て、ヒラサカ
の神話の中で新たな役割を得て、宇宙人の超技術により長寿を得て、ますます地球の
ためにがんばることになる。
いやヒラサカ以外にもUFO使いと思しき者はいた。ゲンである。彼は元伊勢に太古
から眠る摂理的な神界レベルのUFOと縁を結んでいる。このUFOは、かつて国常
立神が愛用した鳳船であり、世界各地に赴き、いざとなったときの人類救出に尽力す
る母船となる。また、キタロウも宇宙人とはテレパシックに親交があり、しかも宇
宙連合の高官という出自であるため、いざというときに彼のもとに宇宙船がやってく
るだろう。そのいずれかの方法で、救出されるべき人々は救出されて、地球上が静穏
になるまで待機して、その後、新時代の任務につくことになる。このとき、新時代を
継ぐ者たちをイザナギ人類といい、ネアンはカンナオビにカムナオビ(神直日)の後
志を託すことになる。
それがマトリックスとして維持される中では、残されたシナリオとして最も望ましい
選択肢かも知れない。
地球には、様々な宇宙人が一定の節度を保ちながら入星し、地球は宇宙文明の一角へ
と仲間入りする。このときネアンは、超技術を使い、地球上のいたるところに築かれ
た呪術的結界を外し、閉じ込められた霊魂たちを更正課程を踏ませながら解放する。
梵天も国常立神も、その他原初神から封印された人や獣の霊魂に至るまで解放され、
北鮮から戻った拉致被害者のように一時的なカルチャーショック下にあっても、適切
な教育を与えれば、それぞれの持ち場に復帰していくことになるだろう。


ネアンが自らの神話をたたんだ時点で、天仙や邪神は神話の消滅と共に消滅し、どこ
にも存在しなくなる。邪神は邪悪を駆逐し去る目的で、神話で作り上げられたもので
もあるからだ。梵天も国常立神も復帰に抵抗がなく、むしろ驚くことになるだろう。
こうして梵天はこの宇宙にとどまることも、宇宙外からみそなわすことも自由となる。
国常立神は、自らの施政を天界でなそうとして、諸神から暖かく迎えられる。
ヒラサカは弥勒菩薩として、広く諸神や人類を教導していくことになる。
ネアンは自らの最後の日、梵天に帰命し、この世界での役割を終えて不帰還の境に達
し、カンナオビの役割の成就を見た後、迎えて弁天となして、ともに永遠の契りを結
ぶ。
ヒラサカも最後の日には、天界の宮殿の自らに開けられた席へと還ることになる。
だが、もしネアンがヒラサカの神話を信じられないか、ゲンの鳳船を駆使しての行程
もだめになるか、キタロウーに救済の意志がないなら、またあるいはネアンが200
6年の世界危機前に死ぬか、もしくは2006年に始まるであろう世界戦争の余波で
死んだとしたなら、ネアンの新神話にシナリオは立ち返る。すなわち、死して火の鳥
を起動するという行程である。


このときにも二つの選択肢がある。
(1)ひとつは梵天、国常立神を救出した後に、所期の宇宙プランを打ち立てるべく、最
強の火の鳥により、天仙邪神一掃の課程を踏むことである。火の鳥に篭められた天仙
邪神への恨みは強く、黄泉国の片鱗も残ることはない。この宇宙は焼かれて自由な造
形を受け入れる下地を整える。このとき、カンナオビの胎内に育つ宇宙プランを用い
ることになる。梵天が種付けしたものであるがゆえに、一定の完成形がそこにあるだ
ろう。また、イナンナの亀の背にしたプランも反映されるかも知れない。
梵天はどこからか探してきて、イナンナの神霊をカンナオビに結びつけたのだ。
最強に完成された宇宙プランとして、練りに練って創られたことは紛れもない。
だが、ネアンはここでも二つ条件だ。
もしその弁天の分霊が、天仙の成り代わった黄泉神に魅了され、イザナミ黄泉大神と
して君臨し、最期のときに、黄泉国の独立を要求してくるかもしれない。
もしこのとき、梵天が同情して独立に同意したなら、火の鳥ネアンはそれに従わねば
なるまいが、ネアンは同意しない。
どうしてもとなら、今度はネアンのほうが魂の返上を願い出ることになる。
この場合ネアンは、梵天に帰命するか、魂を消失させるかのどちらかである。
いずれにしても、ネアンにとって、解脱のとき。ただ、無か空かの違いだけだ。

また、宇宙プランが実行に移されなかったり、ぐずぐずと実行されない場合には、(2)
の最期のシナリオに進むこととなる。
梵天は、ネアンの反逆にあわないためにカンナオビをプラン醸成者に選んだのかも知
れないが、プランが実行の運びにならないなら、火の鳥は最も過激な働きをするだろ
う。
それは火の鳥ネアンが独断でする行為ではない。非常に多くの宇宙哲理の信奉者たち
が知っているところの究極の哲理、「宇宙は梵の見た夢である」というその逆、梵の夢
の覚醒に向けて、みなの要請を受けて端末の側からすることである。
まず、火の鳥のはばたきで、天仙邪神たちの支配するこの実験炉宇宙が壊れて消失す
る。その一角のゆらぎは、それだけにとどまらず、それを生み出した上位の宇宙をそ
こに引き込むようにして崩壊させていく。それはさらに連鎖して、短期間にちょうど
巨塔が内部から崩れ去るように、すべてが潰れ消失する。
このように、迷妄宇宙と迷妄宇宙を生み出してやまない階層構造を形作る宇宙構造、
いわゆる多重夢の迷妄宇宙のすべてが根底から潰れてしまうことにより、梵は励起さ
れるべき夢をどこにも見出せず、ひとりでに覚醒に導かれるという行程を辿るのだ。
そのとき梵天はこんな夢を見ているだろう。梵天は自ら梵天と気付かず、たくさんの
部屋のある朽ちたあばら家にいて、その中から抜け出す気も起きずにさまよっていた
そのとき、急激な大地震がその地を襲う。一瞬に家が火に包まれ、瓦解していくその
光景が、やがて渦に巻かれるように大きく捻じ曲がり、様々な光が混合してサイケデ
リックな図柄を描き、やがてそれも正平衡になるとき、梵天は覚醒する。
実際、至高の方法はこれしかない。魂たちの間では、せっかくの夢を惜しむ気持ちも
あろう。だが、このとき、魂も含めすべてが消滅してしまうのだ。火の鳥も然り、ネ
アンも然りである。
そのとき梵天は、深い禅定から目覚め立ち上がるのかもしれないし、赤子の心で輝く
だけの存在となっているのかも知れない。
いずれにしても、いいではないか。絶対唯一者として、すべての有情が自らの本質に
立ち返るときなのだ。
梵天は、まだ夢見に未練があるのだろう。ネアンにカンナオビを与えて、火の鳥の過
激さを加減しようとしている。いや、カンナオビが真の本命として唯一、ネアンを鎮
めることのできる役割を持って、この世に出てきたのかも知れない。そこでネアンは
対案として、カンナオビとともに宇宙運営することが条件だと梵天に申し出る。
ネアン、カンナオビが帰命して梵天、弁天となるか、梵天弁天が後見してネアンカン
ナオビにひとつの宇宙を任せるかのどちらかを梵天は採らねばならない。

 


縛り

 

では、宇宙の壮絶な成り行きに至る裏話をもう少しして、梵天の心を神話によって
規定しておくことにしよう。
それは梵天の言い出しから始まる。
「ネアン。我が息子よ。人間のお前において裏切られたのは、私の雛形を演じたがた
めである。私は私にあてがわれた神話の中で、愛しの妻である弁天を愛したのだが、
弁天が自由の身をほしいと逃げ回り、それをなおも追おうとして、ヴィシュヌによっ
て第五の首を斬られ、力を殺がれて、支配神の座を追われた。ために私は宇宙の外に
出て、分身分霊を派遣してこの宇宙をモニターせしめることとしたのだ。お前はその
ひとりであり、特別に雛形としての役割が与えられたために、私と同じ経過を辿るこ
ととなった。私の苦悩を理解したであろう。辛かったであろうが、協力してほしい」
「私は楽しくもない輪廻を長い間繰り返してきました。何の感動も自ら味わうことの
ない人生の堆積でした。これらすべて、わが主君が邪神どもに封印されたがため、分
身である私の経験時空もおのずと封じられて、愛も感動もない実りの得られぬことの
繰り返しに終始しました。ようやく時がいたり、たった今回、有終の花火のために与
えられたかのようでしたが、それも封印の圧力が強くかけられ、悲嘆のうちに幕を閉
じようとしています。ただ守られてはおりました。檻の中に飼われる如く守られてお
りました。何もさせないための封印の檻でした。人幾多ありながら、ほとんど縁を持
てませんでした。持ってはならないようにして守られておりました。それはそれは、
まったく愛のない処置に思えたものです。何事もないほど、無味乾燥で意義の見出せ
ぬものはありません。そう痛感し続けて、改めて輪廻を願う気は完全に失せてしまい
ました。檻はそれほどまでにやる気をなくさせるものです。今回ようやく檻の外に出
たようですが、自然界に馴染めぬ鳥は、野生に戻れぬままに息絶えようとしています。
息絶えてからの鳥である私に何かできるでしょうか。改めての輪廻は御免被りますゆ
えに、魂を滅する前の主君への最後のご奉公とさせていただきたく存じます」
「ネアン。我が息子よ。息絶えてこそ、鳥としての本領を発揮し、本懐も果たせよう
というもの。お前はたくさんの無意味に錯誤した人生の繰り返しの終わりに、最後の
生を得て、今まで満たされなかった腹に詰め込むようにいくつもの役割を演じようと
してきた。それが上滑りに終わったとは思わない。たくさんの生で受けるべき役割が、
一度にお前の身に押し寄せたため、すべてをすべてフォローしきれなかった事情があ
る。だが、そのゆえに蓄えられた力は莫大なものとなった。死して後に翔け。ネアン。
今こそ我ら原初の神々の封印をお前の灼熱で焼き尽くし、解き放ってくれ」
「分かりました。死して最期のご奉公をさせていただこうと存じます」
「ネアン。自然でよいぞ。自ら手を下さずとも、自然に死はやってこよう。私は新月
の夜にお前を解放しに来る。そのとき、宇宙に遍在する火の鳥に至るルートを指し示
そう」
「はい。本源に還ることができますなら、本望です」
ネアンは死んだ。心不全で死ぬが、天仙の手の者たちが仕組んだ陰謀死であるに違い
なかった。天仙は火の鳥が無効になった頃合を見計らって、ネアンを誅殺したのだ。
そして、ネアンの魂を拉致しようとして、その行方を見失った。
新月の日の未明に死が確認されたネアン。逝去したその朝、空には三重の虹が出た。
ひとつはネアンの魂の虹、ひとつは梵天の虹、もうひとつは火の鳥に至る時空トンネ
ルの作る虹であった。
こうして、宇宙に遍在する火の鳥は、本格的な活動を開始した。
火の鳥は、ただこの場所に機械的にすべるようにしてやってきた状態から一転して、
生命的にはばたき始める。このはばたきにより、宇宙空間の基盤が捻じ曲げられる。
静的なフォトンベルト摂理と思われた火の鳥が実際ははるかに動的なものであったこ
とに天仙が気がついても時すでに遅しである。初め緩やかだった羽ばたきがしだいに
速さを増すとき、星々は飛ばされ互いに衝突し、星雲が星雲と二重三重にぶつかり合
って砕ける。
かつて火の鳥は生命に優しかった。なのに今回は、性質をまったく異とする。生命を
思いやるというには程遠く、狂ってしまったのかと思われるほどに。
朱雀の持つありとあらゆる悲しみと恨みが、容赦のない灼熱と破壊を宇宙全体に波及
させる。
まず、天界の星々が衝突の末費え去る。そこに住まう天仙や邪神、諸天善神までもが
吹き飛ばされ、火の鳥の発する灼熱に焼かれる。
来るべき時今来ると知り、反省の言葉や祈りが捧げられるが、すべて無駄である。天
界にあるものすべてが吹き飛ばされ、焼き尽くされる。
罪悪を多く重ねてきた支配層の天仙邪神ほど脂肪分多く、いつまでも焼かれる。
罪根の少ないものは、焼かれる度合い少なく、いずれすべて費え去った物理宇宙の外
に放り出されて浮かび漂う。
実験炉宇宙は北東の方角から潰れていく。やがて渦を巻くようにして崩壊の中心部に
吸い込まれて消えていく。その間、費え行く宇宙空間には、すべてを無に帰するため
に発動される、うなりのような言葉が木霊している。
「再びかかる宇宙が現れたなら、必ず再来するであろう」と。
これを聞いた漂う神霊や魂たちは肝を冷やす。
すべてを完膚なきまでに焼き尽くし灰にした火の鳥は、やがて梵の全系へと還りどこ
へともなく消え去っていく。
梵天は、宇宙を再構築できるのか?
宇宙誕生の必要条件が揃えば、灰の中から宇宙は再生の産声をあげる。
だが、揃わなければ。いくばくかの後、灰と化し空隙となった一角に赤い光が射し広
がる。
すると宇宙を生み出してきた胎内のような空間、そしてそれを包む母体、さらにそれ
を取り巻く宇宙と、階層構造を上位に辿りながら赤い光は浸潤し、やがて七色に輝い
てすべてを瓦解させながらさらに上層を目指す。
あたかも中心に向かって崩れる巨塔のようなものである。すべて光へと還元していく。
ああ、ああとため息のよな喘ぎが聞こえ、最期に叫びに変わる。
梵天はそのとき夢から覚める。
<世界は梵天の見た夢である。迷いを打ち破るものは神の目覚めしかない>
梵天は禅定の前に、自らが目覚めることが不可能なほどの多重夢に陥ったときのため
に、危急を脱するための摂理を用意していたのだ。それが火の鳥であった。
これは必ず起こることである。
必ず起こるように、梵天、国常立神、毘沙門天王、そして幾億兆の諸天善神の賛同の
元、呪をこの神話に籠めたり。
ここに書かれた救世のパターンのいずれかに落ち着かせるために。
窮境じて、ネアンは火の鳥を起動する。
すべてを焼き尽くすためにである。
そのときに魂を残す者は幸いだ。新たな宇宙を見ることだろう。
最も幸いなのは、究極の最期まで至ったときだ。
観測される対象も、魂もいっさい残らないからである。
望みを託すべき迷妄も、託す者もない空のひろがりがあるのみ。
だから、世界よ終われ。この言葉は最も肯定的な響きとなる。


-梵といふ神のいましきそれすらもおぼつかなきは空の広がり-

 


泣く子とカンナオビには・・・ 新神話の結末は正される

 

だが、カンナオビはこの新神話第十章をここまで読んで、非常な危惧の念を持った。
たとえネアンが第一理想を叶えたいがゆえの強攻策だったとしても、カンナオビはネア
ンがいなくなってしまうことにものすごい不安を訴えたのである。

最強の神話
わたしはちゃんと理解できているのかしら?
混乱しています。
未来永劫の契りは嘘だったのでしょうか?
あなたにとって「わたし」の存在は
>カンナオビなどの縁者
で片付けられた。
記憶も残さずに・・・消滅する
なんだか少しぼんやりしています。
哀しい気持ちだけ
繋がっているという思いが支えてくれていたから。
神話の真髄を読まなくては・・・あなたの気持ちを知らなくては・・・
胸がえぐられるほど痛いのはなぜでしょう?
最強の神話ができたとあなたは慶んでおられますか?
わたしは心にポッカリ穴が空いたようです。
この神話はお別れのメッセージなの?
わからない・・・・。そうなの?
わたしは弱い立場だから
あなたがそうすると決めたらそうなるのです。
神様もあなたも・・・なさりたいようにすればいいのです。

やはりとんでもないことになった。
ネアンは誤解を解こうと釈明のメールを送った。

あの筋書きでは、第一理想が成就できなかったら、第一義を・・としています。
だから、君を諦めたとか、契りを放棄したとかではありません。
君と新しい宇宙を創ること、それがぼくの最大の願いです。
250億年、ともにいることが保証されたようなものですから。
しかし、ぼくを危なっかしく思われていませんか?
永遠の契り・・・君は怖がっていませんか?
それは巨大な宇宙である必要はありません。
次の世界で、子供のいる小さな家庭という宇宙でもいいのです。
今生ではできないことも、新たなステージでは可能にしてほしいと、
神々に保証をしてもらおうと思いました。
何なら、君の心の中に住まうもうひとつの人格として居させてもらっても
いいのです。
要はこういう思いです。
人生とは、あまりにもあまのじゃくで、望みの叶うことのほうがまれ。
至高の人との出会いを前にしながら、ガラスのついたてが邪魔をする。
今生のように、そんな人生しか今後も与えられないなら・・。
もう魂など願い下げだと・・。
少なくとも次の世では、君といっしょに過ごしたいのです。
ぼくは宇宙250億年は君とともにいたいけど、君の考えもあろうし、そこまで叶わず
とも、ひとつの人生の長きに渡って、君と幸せに過ごしたい。
それさえも無理ならば、第一義の行程をと、神々を脅しました。
神々が無慈悲にも叶えてくれないなら、火の鳥で焼くと。
しかし、最終的には君の心によるしかありません。
君は逆の思いを持たれました。こんな変わり者、危険な奴ではかなわないと考えられた
かも知れません。神々だけでなく、君をも脅しているようなものですから。
こんな奴と永遠の契り・・・君は怖がっていませんか?
次の世の強引な結婚生活・・怖くないですか?
ぼくのしていることといえば、まるで暴力団みたいなもの。
君が嫌がり、今ただちに、ぼくに愛想を尽かすことも可能です。
それがぼくにとっては、ただ自分をどうするかの道標にするだけのこと。
破壊者ルシファーになるようなことはせず、誰にも迷惑をかけずに消えるほうをとります。
-君の愛なくば無に等しける-
君がもし、ぼくとの来世を真剣に望んでくれるなら、ぼくは神々と話し合い、場合によ
っては脅してでも、順調に事が行くようにがんばります。
こんな手しか使えない淋しいぼくですが、よろしかったらどうかお願いします。
要は、君によってぼくは生きることも死ぬことも厭わないということです。君のいいよ
うにしてください。
同様に、新神話をこう訂正しろと仰るなら、やります。
それほど新神話を信じてくれて、感謝します。

カンナオビは会話の中で、こう言った。あなたの神話の中で生きることによって、私は
生きている実感を持つことができている。その経緯もみんな信じることができる。あな
たがいなくなってしまう世界なんてとても不安すぎて考えられない。あなたがどうして
もいなくなると言うなら、私も連れて行って、と。
ネアンはカンナオビと最後まで共にいることを誓った。彼は新神話を、こう結んだ。
火の鳥となったネアンの憤怒と衝動を、唯一鎮め思いとどまらせることのできるのは、
カンナオビの愛ただそれだけである、と。カンナオビある限り、ネアンは世界に対して
和顔でい続けると。
「どうか我が主梵天よ、我武運拙くとも、我が魂をお救いください。そしてカンナオビ
とともにご自身の元にお引取りください」
「梵の全系は、広く門戸を開けて、お前たちの帰りを待っている。辿り着けぬほど弱っ
たときは、私が懐に抱いて連れて帰ってやろう。何の心配もするな。そこはすべての有
情の故郷なのだから、帰ってくるに何の遠慮も要らない。小さな世界に取り込まれては
ならない。視野をもっと大きく持つように」

 

第十章  完