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謎解き

ここからは少し謎解きになる。ネアンが自分の人生を通じてする謎解きになる。今までにもその片鱗は随所に伺えたが、このたびは総括的になる。
彼が長年携わったコンピューター関連の仕事は、彼に極度の精神疲労を与えた見返りに、宇宙の仕組みを解く鍵を彼に与えた。彼が生きてきた今までの人生の半分のところで、それをモデル概念化した。

単 なる仮説程度だったはずのものが、最近になって当たらずもがなの雲行きを見せるようになった。映画マトリックスはじめ、多次元宇宙論などは、彼のモデル概 念がとうに予見したことである。科学がさらに発達すれば、よりいっそう彼の概念の予言的とも言える先見性が際立ってくることだろう。むろん、彼のモデル概 念仮説など、ごく限られた者以外誰も知らないことではあるが。

しかし、彼は自分の見つけ出したことが間違いなかったかを確信していくこと により、彼の神話に及ぼす魔法の力をバックアップするパワーとなった。誰が評せずとも、彼が彼自身のしてきた経過のすべてを評価するからだ。信仰は自分に 対してであり、芥子粒ほどの信仰どころではない信念が彼の魔法を支えているのである。

彼は自らを世界の中心であると豪語しても矛盾のない 理論を手に入れ、まさに世界の中心として影響できるほどの信仰の力を持った。これに敵う者は神にさえいない。彼が世界に対して消滅を命じれば世界は消滅す ることになる。そのような魔法の力を自分信仰によって手に入れてしまったのだ。

しかし彼は筋道立たない消滅を嫌う。プログラマーだった頃 の性癖というより、自分の打ち立てた理論に矛盾するような強制終了にはしたくないのだ。創造の土台が矛盾のうちになくなってしまうから。世界が総力で手を 尽くしてだめなら、終了もよしというところまで持って行く必要がある。

彼は順序立てて思い返してみた。ジュセリーノの予知夢が彼の今いる 立場における未来の道標になっているはずだということ。予知夢のひとつが回避されたり時間がずれたりすれば、彼自身が前にチェックした時点(a)より、幾 分かずれた位置、つまりaの時点の測地線から外れて、パラレルワールドに至っているということである。それを第二チェックポイントbとすれば、またbにお ける予知夢をジュセリーノがしたとしても、aにおけるものとは異なっているはずだ。こうして彼の有意思的時空の方向換えの結果、ジュセリーノ予言が当初a のものからかけ離れてしまえば、彼は予言成就に至る列車から途中下車を果たしたことになる。少なからず、彼の魔法が利いたことになるわけだ。

後にカンナオビが異界交信巫女として導き出した異界のネアン評は「フーコーの振り子」というものだったが、ネアンの魔法によって、世界の慣性方向への推移が少しずつずれていることを物語っていた。
少 しずつでもずれる。そのゆえに、見届けの体制に入ったとはいうものの、ネアンの人生の終了まで書き綴られねばならない新神話とは、その修正課程に則りなが ら、少なからずは補い、行き過ぎは是正すべく働かせるものでなくてはならない。神話の大枠がしだいに微細構造へと移り行く中で、様々な変化も生じてくるた め、神話協力者をはらはらさせるようなこともあるだろう。

彼はその頃、ジョン・タイターという別の種類の予言者の存在を知った。
タ イターは未来人なのだが、タイムマシンを使って過去の時代に戻り、その時の人たちに未来に起きることを知らせて、歴史の成行に干渉しようとしたらしい。タ イターは、タイムマシンで過去に単に戻ったのではない。過去のある時点まで行って、そこから分岐したパラレルワールドのひとつを辿って未来に進み、そこの 時代の人類を啓蒙しようとしたというのだ。つまり、この時空の未来はタイターの至った未来とは異なるわけである。

これはネアンの超宇宙モデル概念か らすれば容易に説明がつく。同様に体外離脱でよその時空にいる者の救出に行く場合も、情報的に上位の分岐点(この場合は時間的過去だ)まで遡る。むろんす べてがプログラムゆえ、相手アドレスを与えて飛ぶこともできるには違いない。しかし、こうした報告は、彼のモデル概念の証明材料として加味されるばかりで ある。

この時空にある我々は、ジュセリーノの音信によって絶望的な列車内にいることを知り、そこから精神的な努力によって、あるいはネアンの魔法力によって、的確とされる予言予知夢の回避を図っているところだ。この先どうなるかは、未だ予断を許すものではない。
しかし、ネアンには時空が絶望から希望の方向に変化していることが、予言の回避の連続などによって分かり、新神話が、邪神の終局計画を封じているのを見て取ることができた。

彼はもしかすると自分がタイターと同様に、この時空とこの時空にある有情の魂を救うために来ているのかも知れないと思えた。
過 去のいろんな局面で分岐し去って行った多くのパラレルワールドのうちでも、この時空だけは滅亡への進路を辿っていたとしよう。ちょうどホピ族の神話に言 う、人類の選択肢となる二つの進路、存続の道と滅亡の道の二つしか選択肢がなかったとして、もう一方の良好な未来人が、あるいは見るに見かねた時空パト ローラーが、見込みのない時空の救済に駆けつけてきているという印象がなくもなかった。

ネアンの場合、特にその思いは痛烈だ。母ミソギが 本来男として生まれていれば、位人身を極めた暁として未来展望が開け、やがて理想世界を築いて、宇宙文明とも合流を果たし、地球を母星として宇宙に展開す るという輝かしい未来がありえたと考えられようところ、ミソギが女として生まれたことと、絶望の時空の側にいることがワンセットのようにネアンには思える のである。 ⇒ 「鵺は鳴くなる」
希望ある向こうの時空なら、男としてのミソギがいるはずだ。だが、こちらの絶望の時空には女としてのミソギと、絶望の未来から有情を救い出すための救世主が用意されたに違いないと思えた。

ワンダラーとかスターシードと言われる救世の魂がこの地球には多数降りてきているという。彼らももしかしたら、良好な未来人や時空パトローラーだったりするかも知れない。
ネ アンは女たるミソギとともに、タッグを組んでこの世界にやってきたらしい。ミソギが男として生まれてきていたなら、ネアンはこの世にはいない。ネアンの出 る幕はなかったはずなのだ。代わって男のミソギが世界を希望ある未来に牽引していたことだろう。しかし、この世は希望の潰えた未来を前途に置いていた。

黙示録が人類の未来を呪い、ノストラダムスが対処困難な未来像を詩に歌い、ジュセリーノが90%以上確定しているとして、人類の終局を予告していた。ホピも、世界モデルを示し、現時点がどこにいるか指し示す中で、すでに見込みのなくなったポイントを差し示していた。
先に分岐し去った、日独伊が戦勝し、彼らが救世に関わるという方向ではなく、最後は赤で象徴されるものの登場で絶滅するというシナリオが残されていた。
ネアン自身も学生時代にはすでに、この世はなにかおかしいから滅ぶだろうと確信していた。嫌なところに生まれたものだと、物心つくかつかぬかの幼少期には三白眼で過ごしていた。

ミ ソギが女ということは世界の存続が見放されたものだったからであり、ミソギを介して生まれたネアンは救世の役割を背負ってやってきたとするなら、見込みは 個人に帰属して存在もしよう。いや個人的になら、もっと想像を絶するようなことをするためなのかも知れない。なぜなら、少なくとも存続する時空のシナリオ は別に存在したのだから、実際にそちらで良好な世界を享受している有情がいるはず。だから、この時空は、また違った実験系としての無茶苦茶も認められる役 割があるのかも知れないわけだ。極端に言えば、どう料理することも可ということになる。
彼は自らの拠って来た役割が済むまで世を去ることはないはずである。要はその役割がどの程度のものであるかだけである。

し かし、これほどまでの連携で親子関係を呈した二人かもしれないが、実生活ではネアンは母ミソギのすることにほとんど無関心であった。ミソギが手伝ってほし いと思っていたとしても、要請がなければ分からないネアンであった。年取ったミソギは体力の衰えが否めなかったが、ネアンのために自己犠牲を貫いた。

ミ ソギはその名の通りの人生を歩んだ。自ら負った過去世のカルマを削ぎ落とすためにか、人のために自己犠牲を貫いた。その対象が息子ネアンであったことは、 もしかするとミソギにとっての易行道であったかもしれない。それに甘えて、ネアンは生まれてから、ミソギの最後の日まで、おおよその日々をミソギの世話に なったのだった。

2007年8月30日だった。ミソギが深夜に腹痛のために眠れなかったのは。しかし、その日食事を取らぬことによって、いったん回復した。ミソギは腹痛の折は、自己流の治療をしていたのだった。その日も功を奏した。
31 日には調子も戻り、とても軽快な感じがあった。大丈夫かと問うネアンに、テレビを見ていて振り返ったミソギは、まるで少女のような無邪気な笑顔を見せた。 ネアンにとって、それが母を天使のように美しいと思った最初で最後の瞬間であった。それが翌日心筋梗塞で倒れ、死地に赴く最後の母の素顔だったとは、ネア ンは知る由もなかった。


神話魔法使いへの道

またもうひとつ、ネアンの新神話魔法の基盤には、旧神話・古事記の理解があった。
彼の神話解釈法は、神名の意味の解読と、筋書きの両面から進めていく。
神名は日本人なら多少は心当たりのある言葉で成り立っている。
そ れを意訳していくのである。筋書きが意訳したものをリンクさせていくので、いっそう意訳が鮮明さを増す。古事記とされた理由が、暗号の封印を意図したもの であるとさえ思えるようになった。その他の日本書紀などの古典では神名が意図的に崩されているようで、意味を成さない場合が多かったからだ。

当初彼が、古事記の中に発見して興奮したことは、神話が預言になっているということだった。
たとえば、火の誤用により、黄泉の国に至るというのがある。
当然、世界が、あるいは人類が、というわけだ。
イザナギ景気という言葉は経済用語としてあるが、イザナミ文明というのは、古事記が暗示する人類の辿る滅びの道のことである。
ホノカグツチ、イハヅツノヲ、イハサク、ネサク、タケミカヅチノヲ、トリノイハクスブネなどは、イザナミが産んだ火の神の子孫だ。
炎の輝く土、石の筒のパワー、岩を裂く、根を裂く、猛々しい雷のようなパワー、石楠のように堅牢な鳥。

一見すれば、近現代的な戦争兵器と分からないはずがない。
それによって、イザナミは病態となり死んで黄泉にいたる。第二次大戦では致命的でなかったが、それ以降の戦争でや如何。
黄泉は死後の世界(常世の国)というより、死体の世界だ。
腐乱臭を発し、蛆が涌き、とろとろになっているものの、死体のあちこちで雷が鳴っているという、これまた普通の死体ではない。
あくまでも、戦火絶え間ない文明の末路のことである、とすぐに分かる。 ⇒ 黄泉の国

その頃は、古事記こそが日本民族に与えられた教訓であって、その知識を持ち越し、風化を極限までしのいだ古代大王家は偉大な賢者と心から称えたものだった。
だが、中東思想の預言とさほど変わるものでないことが分かり、しかもこの現代に対して何ら教訓として機能してこなかったことを考えると、確かにこれは預言ではあっても、教訓ではなかったことに思い至る。

聖書はその中の一言一句さえ変えてはならないという。
同様に古代大王も、知識(本辞)部分の存続と伝承のために、記憶の堪能なプロジェクトを擁し、一語一句違わない伝承を心がけていたらしい。
その結果成ったのが古事記である。
預言、神の計画は、洋の東西に普及されていたのである、と言える。
では、何のために。
教訓たりえないなら、人々を預言に対して無力であることを教え、預言を与えた神への屈従を誓わせることにあったとすべきだろう。

ひとりでに預言された事が成っていくというのが、預言の真価。
だが、預言されたとおりに事が成らなかったときのために、事を運ぶ共謀者への指令書であったとしたら、どうなるだろう。
ネアンの思いの第二期は、陰謀史観と共にあった。秘教組織がいつの時代にも、為政者の傍にいて、陰から操るというやつだ。

だが、2000年に入ってからは、神界にその成り行きの原因があるという情報を知ることとなる。
優位な鳥瞰的立場からアリのような人類の進むべき道が決められたのでは、人類の様々な努力が報われず可哀想であると思うのは、誰しもであろう。
実はその神界もスケジュール管理されていると判明するのも、ほどなくだった。
監督がいて、善良な神々は、神話のシナリオどおりに演劇しなくてはならない。演劇内容は、波動的に下界に理念として降り注ぐ。

戦争や力関係を誇示する内容で満ちた神話からは、そのような影響しかもたらすことができない。
しかもシナリオは、神々が書いたのではない。人間が書いたのだ。神話を書いたのは、あるいは書かせたのは神官層である。神から下されたことのように装って。
また、神々を作ったのも神官層である。この構図に思い当たるのは、至難の業だろうが、神々はみな人工なのだ。

創造力に富むのは見えざる異界の純真な精霊たちだったのだが、彼らに神の名前と役割を与え、演劇をさせるように仕向けたのは神官層だった。
彼らはいわば魔法使いである。精霊をコントロールし、人類全体をコントロールするための複雑な仕組みの魔法を仕掛けたのである。

世界的な魔法がどうしてこんな地球に??
は るかに高度な神、あるいはインベーダーと言ってもよい。神々さえも凌ぐ神によって、古代の地球にエージェントたる人々が下ろされ、神官となった。神以下の 次元を完全支配するために。むろんそのときには、神界もすでに彼らの手中にあって、彼らのかけた魔法によって、上下関係と力関係が設けられ、その呪縛に よって、神々は支配されたのだ。

魔法を解くには、魔法しかない。催眠術を解くには、催眠術しかない。世界の救済には、旧神話を凌ぐ魔法的神話と魔法使いが要る。
だが、対抗勢力には監視の目が光る。卓抜した能があってはならない。賢くてはいけない。世に頭角を現してはいけない。その道の権威にでもなれば、あっという間に多忙にされたり骨抜きにされる。
あくまでも水面下、水準以下で、塵に埋もれていなくてはならない。
それでは啓蒙にならないという向きもあろうか。啓蒙家は人々に下地的準備をしてもらう意味で、とてもいい存在だ。
しかし、魔法使いがすることではない。魔法使いは一人でやり切れるならそれに越したことはない。一人では難しいから、複数でこなさざるをえない。すると目立ってしまい、すぐに邪神が察知して妨害してくる。
ゆえに、邪神の目をくらますためにも、時計仕掛けで起動する仕組みが要る。

それが、楽なこともある。基礎教養を培う以外、自分から動く必要はない。時が来れば、協力者がキーを携えてやってくる。それに感応し触発されて、潜在的察知力が起動する。つまり、外部が魔法の下地を育成し整えてくれるのだ。
魔法使いが卵から孵り、ひよこから成鳥になるまでに、次々と飼育員が専門知識を携えて入れ替わり立ち代りやってくる。そのような緩慢な過程を踏むというのも、邪神に気づかれないためだ。

ネアンはシンボルが「鳥」であり、鶴、山鳥、朱雀、鳳、火の鳥と進化させていく。
その過程の中で、対応する協力者が、亀、乙姫、青龍、白龍、また玄武、白虎、龍族として立ち現れてくる。彼らは、新神話に取り込まれることで、神の雛形として確立する。
中でも四神の青龍、玄武、白虎は、これに該当する者を予感できるという特質があった。

ま ず青龍がネアンの五十に限った寿命を延ばし、玄武が突如、時限装置のキーを挿し、魔法の回転起動の火がつけられた。がそれも二年で去り、次に白虎が現れた が、いくつかのキーをもたらしたのみで、その飼い猫こそが白虎と分かったものの、人(シノ)のほうは一年ほどで去っていった。
その後、青龍カンナオビが、イナンナの玄武を霊的に併合したことを示す顕著な兆候を示しながらキーをもたらすようになり、曲折を孕みつつも旧神話を解除するための新神話は成った。
青龍のカンナオビは七年以上の長さとなり、未だ貢献し続けている。

 

(2009年11月にネアンは三匹の子猫を友人からもらい受けるが、その中に白虎がいて、やってきた10日ほど後の未明の夢に、三匹の由来を示す光景が出現した。フーと名付けた子猫が白虎であったのだ。その後、カンナオビと10年目の2010年5月15日に、彼女は海難事故で逝去した。それから五か月後の2010年10月にフーが事故に遭った夢をネアンに届けて逝去した)

 


それからの経緯

2007年初頭にカンナオビの本体の白龍(雲龍)が胸に飛び込む夢をネアンは見て、その何日かの後の夢に、カンナオビが天使スタイルで現れ、彼を天井の割れ目から外界に出すや、二人でランデブー飛行。このとき「鳥には空がほしいでしょ」の言葉に、空翔ける朱雀であったことをネアンは思い出した。これは第十一章でも書いた。
そ のいくばくかの後の日の未明に幻視して、暗い通路にいた瀕死の修道服姿の地球の女神を救済する。そんなとき効果のあった、ネアン独特の生命賦活法をたびた びしたため、ある日、足が滑って風呂の中に落ち、寸でのところで命拾いしたものの、肋骨を折る怪我を負う。弁天様との契りをないがしろにしたからと解釈 し、以後青龍のご機嫌伺いをしつつも、地球の保全のため、地球の女神をしばらく愛することもした。

その頃、ネアンが何よりも感動的に思っ たのは、サン・テグジュベリの「星の王子様」だった。好適なタイミングでもたらされたNHK教育TV情報であり、これも啓発を加速するシンクロとなった。 この星に生まれた限りは、この星に対して責任を持たねばならない。小さすぎて何もできないのではない。小さくても大きな愛で地球を包む。これで地球は甦 る。
そのころ、ジュセリーノもまだ高確率の予言者として名を馳せており、彼が薦める「地球への感謝」を、日本のいろんな人が行うようになり、やがてたくさんの応援を得た女神は元気になって、仕事場に復帰していったのだ。

新 神話の効果も現れ、大地の土台の根底から破壊する、邪神の仕掛けたクラッキングツールが神界レベルで封じられたため、下界でもこの影響が出始め、ジュセ リーノの確定的な大地震予言は、特に日本において顕著に回避されるようになる。こうして度重なる予言の回避が、彼の失敗と捉えられたため、ついにインチキ 呼ばわりされるまでとなった。

しかし彼は、その時々の時空が慣性的に動いていった先の予定された出来事を指し示す道標であっただけで、そ のルートがしだいにフーコーの振り子のルートのごとく差異が生じていたことに、人々は気づかなかったのである。彼のかけた迷惑への誹謗中傷の波は高まった が、彼はそれを人々の功績にする度量で応えた。

ネアンは、この頃、新神話第十一章を書き終え、然るべき巫女たちに閲覧させる処置を取った。これにより、新神話は神界の神々によって舞われることになる。そう考えたネアンは、ここでまたも見届けの体制入りを思った。

 


ネアンの母ミソギの死

ネアンは、もうやるべきことはやった。おそらく人生で最後になるであろうライフワークのアウトプットを出し終えたと考え、あとは新神話のシナリオが自動的に世界を動かすだろう、それを残る余生で傍観していくことになるのだろうと考えた。

魔 法使いたる彼をこの世に生み出し、以後長きに渡ってサポートし続けた母ミソギも、もう齢80を過ぎ、老人ならではの痩せて背の丸い姿を呈していたが、むし ろ彼よりも健康そうで、病気にかかったことのなさを誇らしくしていた。じっとしていることを嫌ったミソギは、その年で長歩きでの買い物や菜園での野菜作り などの激務をこなしていた。そうしているから、いつまでも健康なんだと自分とネアンに言い聞かせていた。口臭がしてはなるまいと、毎食後の歯磨きも念入り にして、逆に歯医者から磨きすぎも良くないと指摘を受けるほどだった。

しかし、毎日が同じことの単調な繰り返し。ネアンは、心の中で、もう十分してくれたから、いいよ、と思うこともしばしばであった。
ネアンは、そんなある日、母ミソギがすでになき祖母ハツについていくビジョンを見た。祖母ならば、母をしっかりと導いてくれるだろう、それでいいと思って見送っていた。
その翌日のこと、母の潔癖にまだどこかに抜かりがあると言わんばかりに、突然の不調に見舞われたのは。それが致命的な病だった。

水分不足が慢性化していたのだ。健康そのものの身体に、血栓を作ってしまっていたのだ。それは最初腹痛として現れたため、ときおりある食中毒と勘違いして、今まで直してきたように、一日断食とその翌日からの、かゆ膳で対処しようとした。

そのとき確かに、痛みがとれたのはとれた。その日は、まだ病み上がりという感じで、家の中でテレビを見たりしてくつろいでいた。そのときにネアンに見せた天使の笑顔が、ネアンへの最後の餞となった。その微笑みは、人生を全うした者の魂の輝きのようであった。

翌 日夕刻、菜園で作業中に突然激しい痛みが生じたミソギは、ふつうの食中毒性ではないと気づいて、ネアンに病院に連れて行くことをせがむ。おりしも土曜日。 大病院なら救急体制があるとして、向かった先がまだ食中毒系を疑うゆえに、中規模総合病院のほうで、しかも、自家用車によってであった。
ネアンは後になって、救急車を呼ぶべきだった。あるいは、途中に消防署もあったので、そこで渡す方法もあった、あるいは、予約を入れた中病院に断りを入れてでも大病院に送るべきだったなど、いろいろ自分の不明を恥じてなじり続けた。

中 病院ではすぐに、これは心筋梗塞だと判断。そこから大病院のほうに連絡をとれば、当直医は専門外、しかし、専門医を呼び出し可能ならということで、約一時 のロスの後、専門医がOKとのことで、受け入れがかない、ただちにカテーテル手術とはなるものの、深夜に開始となった。

こうして、心臓の 広範囲が壊死していたとみられるが、手術は成功し、当初チューブや電気コードをつけられて不自由だった身体も、ようようそれらが随時外され、他の部所への 血栓後遺症もさほどなく、食事もとれるようになっていた。が、入院六日目の夕食後に、それまでがんばっていた心臓の弁が機能しなくなり、心停止に陥ったの だった。心臓マッサージや電気ショックも、役に立たなかった。
それはあまりにも、あっけないことであり、病院で付き添う間にも、自分の情動の刻々たる変化が、ミソギの行き先を決めてしまったように思えるネアン。風前の灯をかき消すようなことをしてしまった思いに、長く苦しむことになった。

葬 儀も、ほんらいこの人が受けるべき規模からは大きく隔たりのある質素な家族葬となる。このとき来てくれたのは、親戚の主だった面々と、弟マリオの会社の仲 間で、後者の人数のほうが多かった。30人ほどの前で喪主としてネアンは、それでも、故人の威徳を讃えて、もはや伝説とはなったミソギの、もし男としての 生ならば位人身を極めるべき魂が、女としての献身的で質素な、まさに禊の一生を送りましたと、かなり奇妙なスピーチをした。

僧を含め、会 場のどれほどが理解したかは知れない。むろんそれは、傍にミソギが来ているという前提で、本人への死を悟らせる意味があった。なぜなら、本人は眠るように 息絶えたのだ。死を悟れなくて不思議ではないからだ。(この箇所を二年後のお彼岸に書くことの意義は大きいものと思う)

僧侶にはお通夜と 本葬のときに会場にきてもらった。そのお通夜のときの僧の話は、すでにミソギが生前戒名として「智円妙定大姉」としていたその意味について、お通夜から集 まった親戚たちにしてくれた。この僧は、事前に分かったことをもとに、それにまつわる話をみごとにしてくれる名僧であった。

その席で、よくぞここまで理解して臨んでくれましたと涙ぐむネアンに、名刺を渡された。そこに書かれた名前こそが、蓬莱道龍、やや後の琵琶湖・蓬莱レイラインの盛大なお見送りの夢とシンクロすることになるお方であった。その時点では、蓬莱の二文字に、新神話とのシンクロ感を催しただけであったが。

また、「智円妙定大姉」の意味について、蓬莱和尚の優れた一般向けの話とはまた違って、若い頃に見た名古屋における未明の夢、いないはずの神戸の自宅の前のレンガ小路で少し浮き上がり、そこに満月を右肩に掲げたミソギ顔の羽根天使が、ぴかぴかと自分を照らしたこと、それ以来、とても利発になったことなどが、一連のシンクロとして、目の前に提示されているようであった。
すなわち、智円とは知恵のまるい光、妙定は霊妙な形で定着させるという、守護天使の役割をも意味していた。彼に対して果たした役割は、地上的なものだけにとどまらなかったのだ。
それだけ期待を担って登場しているのが自分であるとは。位人身極めることと引き換えにできるものがネアンのどこにあるのかと思った。

 


ミソギにまつわる伝説

ここで少し、ミソギ伝説を話しておこう.。
その謎はほとんどが彼女の幼少期にある。
ネアンはそれを見てきたわけではない。祖母および祖母の話を伝え聞いた母から、あるいは母本人の体験談として聞いたわけだから、伝説ということになろうか。よもや話を膨らますような性格をした人たちではないから、いっそうインパクトがあるわけである。

ひとつは、”毘沙門さんの二十日に子が生まれる”という祖母への夢のお告げと、もし男として生まれていたなら、位人身を極めるはずだったと、それぞれ別の時に現れた修験者二人から告げられたという伝説である。これはネアンの祖母と母の両方が語った。

もうひとつ、幼少期に弟と共に”ぬえ”と長時間対峙していたという伝説がある。この"ぬえ"はきれいな丸顔の人のようであり、エジプトのスフィンクス似であるという。これは母からの言い伝えであるが、後に彼の叔父も、「あのときには変な生き物がおったなあ」と、異様な体験は無視してかかりがちな性格を圧して、語っていた。


古代の霊獣がここに出てきているのだ。エジプトの王が好んで自分を象らせたものだ。古代日本でも、鵺にまつわる話は、天皇の御座所である紫 宸殿におけるものが伝えられており、気味悪がった天皇の命で、源の頼政が退治している。つまり、王家に懸想して現れる神獣とでもいうべき存在なのである。 このときの天皇は、大事な話を聞き損じたに違いない。

ミソギは誰教えることもなく、路傍の地蔵さんや道祖神を見つけると、行って手を合わせていたというから、前世は仏教の篤信家であったことは確かだろう。まるで聖徳太子や上杉謙信の再来かとさえネアンは思った。
祖母も篤信家だから、場所を選んでやってきたとも言えるだろう。毘沙門天の加護を受けての誕生だったに違いない。ところが、赤子として生まれた当初、後頭部に大きなできものがあって、当時の医療技術で手術したそうである。
ミソギは、自分が利発でないのは、このできもののせいかも知れんとこぼしていた。

し かし、霊的な聡明さは驚くほどだった。彼女の目指していた嗜好性に間違いはなかった。利他的な目的でたえず選択がなされていた。ミソギが残していった無駄 と思える品々が、後々精彩を放つように役に立った。その他、ネアンが不自由をしないように、いろんなところに工夫が施されているのを見た。
そこでネアンが思うのは、もし母が男であったなら、亡き後も、国民(いや世界市民だろう)に国家百年の大計と末永い恩恵を与えていただろうと想像するのである。その恩恵をいま、自分一人が独り占めしているようで心もとない。

そこで、彼はこんなことを考える。
歴史にはいくつものケースがありえているのであり、しかもそれは後の祭りなどではなく、今もなおパラレルワールドとして実在している。
ジョ ン・タイターが未来世界からこの世界にやってきた経緯として、時間を遡り世界線を遡り、ある地点からこちらの世界線に入って、未来へと辿って目的のアイテ ムを見つけに現れたという話があった。彼は、それを元来た道を辿り、自分の世界に持ち帰って、世界の助けにすると言っていた。

ちょうど彼も、真理探究の過程で、プログラム時空のモデル概念を考えていた。それは、母が男として生まれていれば、というケースも網羅できる理論でなくてはならなかった。つまり、多世界解釈のできる理論なのである。

タイターの話は、ネアンがほんの最近に知ったことだった。(マトリックスのほうがまだ早いくらい)
彼の話には、ネアンの仮説を支持する話がいっぱい盛られていたために、ネアンは自説に間違いはないと確信できた。

タ イムマシンはUFOが時空連続体(プログラムの塊)上の空間軸を移動するのに用いる原理を時間軸側に適用しただけのものである。とうぜん、UFOには両軸 に移動するものがあっても不思議ではなく、要は現象の元にあるのがプログラムであるという性質を見れば、その性質を逸脱しない限りどんなマシンでも可能に なる道理だ。

またこのマシンは、なにも物理次元の金属物体で構成される必要はない。異次元の物質(霊質)で構成されるものであっても良い。まさしく霊魂、霊体とは、このマシンさながらである。霊体や幽体さえも科学の高度発達が生み出したものかも知れないのだ。
ではその科学者たちはいま・・・この何百億年経ったという宇宙創造の外にいて、このテーマパークを眺めているのかもしれない。新神話は、その次元の話にも大きく関わっているから、あらゆる神話を凌駕することは無論なのである。古事記の旧神話ごときではない。

話を元に戻して考えてみよう。
ミソギも同様に、ほんらい向こうの世界に生きるはずだったのだが、こちらの世界にどうしてもあちらの世界にとって必要なアイテムがあって、それを手に入れに来たのではあるまいか。
そ のアイテムも、なにも金属物体である必要はない。彼女はよくニュースを見ながら怒り、そして黙するのが常だった。為政の失敗例など、テレビで把握できるも のだけでも、露骨にたくさんある。彼女は向うで生かすことのできるたくさんのアイテムを手に入れて戻ったのかもしれない。

世界をあらゆる 局面で救おうという試みが、どんなパラレルワールドにおいても行われているとするなら、こんな心強いことはない。その救われた者たちが、今度は別の絶望的 な世界を救おうとやってくることもあるだろう。彼らはタイムマシンとUFOを合体させたようなマシンに乗ってやってくることもあろう。それが真の博愛とい うものである。
歴史の進化した段階でしか現れないタイムマシンやUFOは、それぞれの世界における未来への希望を繋ぐための有用なマシンとして、 フル活用されて然るべきものとなる。そしていちばんすごいのは、霊としてやってくることだ。これだと、転生という最も静かな、その場を乱さない効果があ る。

ハラー・ブルザティー。盂蘭盆会。今でもそうであるが、古代人が山のかなたからときおりやってくる祖霊たちの祭りを欠かさなかったのも、自分たちが一種の漂流状態にあることを思ってのことであり、安全無事な本国からの救助を請う祭りであったのかも知れない。

 


ミソギにまつわる新たな伝説 (序)

ミソギが倒れて入院することになったのは、その日の夕刻。その日の朝には、ネアンは新神話の天地のはじめから今までのあらましを書いて公開していたのであった。
それは新神話の最も重要な根幹思想になるものであった。
ミ ソギが倒れるすぐ前のネット公開の場での新神話にまつわる話は、それを見る読者参加者をして興奮せしめていた。時近しの感が、ネアンをして、すでに自分は 人間として生きていないとすら言わしめていた。それが影響したものかは知れない。思えば、あまりにも不孝なことではなかったか。

やがてお 彼岸がやってきて、ネアンの心はいっそう申し訳なさでいっぱいになり、夕方のお祈りの中で、守護神の梵天、弁天、毘沙門天、吉祥天、そして龍神に懇願し た。あなたがたしか、叶えてくれるお方はいない。どうか母に、ほんらいあるべき盛大なお見送りで、本人の自覚を以ての浄土、それも願わくば、新神話で最安 全地と設定する蓬莱の地に導きたまえ。そしてそこから更なる梵の故郷に至らしめたまえ、と。

 

(せめて恩義多大な母だけは、これから天と地で行われる建て替えの闘争から安全でい てほしいの願いのゆえであった。そうなのだ。その当時、ネアンは人間を辞する宣言までして、新神話の総仕上げ段階の邪神討伐に赴く気概でいたゆえに、母を 安全圏に出しておきたい心が、母の死を願ってしまう下地を作っていたのかも知れない。
新 神話では、唯一、蓬莱島竜宮がこの宇宙の外に通じる外交官ルートであるとしている。それはちょうど、東西冷戦下の東ドイツ領内の西ベルリン、あるいは敵対 的な国における大使館のようなものである。その規定は、新神話発足当初からの独創的オリジナルである。そのルートは、何の危険もなく解脱に至る無二の門な のである)

すると、果たせるかな。そのときの感動を公開しているので引用しよう。
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昨二十二日の未明には、不可思議な夢を見た。
前日の夕刻に諸天善神の助力を請うたためか、諸天と龍神眷属あまたでひとつのホテルを貸切ったかのよう。
ご 来光にあわせてみなして屋上に上がれば、なぜか山頂で雲海の上、母はその中にいて導師四名に付き添われ、ご来光に向けて伸びたなだらかなムービングロード を進み、ご来光のふもとに至って振り返り、あまた参列する礼服姿の我々に手を振って返礼してくれたというしだいであった。
見送りが終わって、見知らぬみなさんが公共交通機関を使って帰るのにつきあうというくだりまで備わった奇妙な夢。

質素な現界での葬儀。
せめてお見送りは、諸天善神総出の盛大さで行うことができたかと思えたことか。
梵天様弁天様、毘沙門天様吉祥天様、國常立神様豊雲野神様、そして諸天善神の皆様、龍神様たちおよびあまたの眷属の皆様のおはからいに深く感謝申し上げます。
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そこに集まってくれたのは、主として龍族と天狗族、鬼族のみなさんだった。彼らはみなネアンの支持者であり、あるいは封印を彼によって解かれて、自由になった者たちやその縁者たちだった。
感謝を捧げた神々の眷族の方々もおられた。下界の誰にも負けぬ盛大なお見送りだった。あのホテルには地下街のごとく人が、それもダークスーツの人たちが行き来していた。それがすべてホテルの屋上に上がって見送りに参加してくれたのだ。
ムービングロードの途中でわずかに横顔を向けた左端の導師は、メガネをかけていて、どうやらこのたびの蓬莱和尚のようだった。
ちょうどお彼岸の法要にこられた和尚に、お茶を飲みながら、導師のうちの一人は確かにあなただったですよと告げれば、ことのほか和尚は喜ばれたのだった。
和尚の名は蓬莱道龍とおっしゃる。これ覚えておいてもらいたい。

また、それより一ヶ月後の記事でも、
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私は、母の葬儀を質素に済ませてしまったことを、長い間悔いた。母は、思いのほか賑やかいこと好きだったのだ。
母の私に抗議する声が就寝中に聞こえてくるようだった。私は、仏前で平謝りに謝った。
そして、これはもはや神に頼むしかないと、九月二十一日夕刻に、わが信奉する梵天様、毘沙門天様などの神々に真剣に祈った。なんとか、盛大なお見送りをしていただけないかと。
すると、その晩のこと。すでに記事にしたように、
二十二日未明の夢に、神々が大きなホテルを貸し切り、ご来光に合わせて屋上に出れば雲海の上。移動する道に母は四人の導師とともに乗り、ご来光へと運ばれて、その麓で母が手を振れば、我々も歓声を上げて手を振って、お見送りができたというわけである。
私は、神々のお計らいに感謝を捧げた。母を少なくとも賑やかに送り出すことができたのではないかという思いが、私の気を軽くしてくれた。あれだけの人数なら、位人身を極めた者の葬儀のレベルではなかったか。
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母は去り、後は自分の身はいつ死んでもいい状態になった。しかも、母は浄土入りしたことが夢見からも明らかである。身軽になった。魂の限り、獅子奮迅の働きもできよう。白龍はいつでも迎えてくれる。朱雀火の鳥を起動し飛ばして、白龍についていくだけだ。

そのような心の気構えとは裏腹に、現実問題が彼を悩ませた。そしてそれがまた不思議現象を惹起する。これも引用しよう。
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しかし、そうは問屋が卸さなかった。
二 十四日未明の夢。母が再び現れたのは、すでに大震災で全壊し存在していない神戸の自宅でだった。夜、母にとっての懐かしい人が誰だか人物は特定できないが 訪問してきた。母は、「まあ、よく来てくれたなあ」とまるで抱きつかんばかりにその人物めがけて走っていって、つつーっとすり抜けていってしまったのであ る。幽霊だから仕方ないよなという思いと共に目が覚めた。
ああ、これはいかに盛大さを演出しても、下界にどうしても会っておきたい人がいて、まだ下界をうろついているのだろうかと思ったようなことだった。

三七日明けがちょうどお彼岸明けでもある二十七日の午前二時に、不思議は現実世界に起きた。携帯にリンが二回鳴ったのである。新着メールかと思ったがさにあらず。非通知でのコールだった。こんなに知られていない携帯番号にかけてくる者もなかろうに。
昔、亡くなった間もなしに電話を”夢の中で”かけてきたのは父だった。母はもしかすると、パワーがもっとあって、現実の側にかけてきたのではなかろうか。時刻は2:19。「・・・に、行く」というメッセージを込めたのではないかと思った。

不思議なことに、二十三日彼岸の中日の朝、普段洗車しないマイカーが、昨夜のうちに雨が降ったか、洗車機を通したかと思えるほどにきれいになってい たが、二十九日の朝にもそうだった。黒塗りだからよごれは目立つのに、まるで夜中のうちに洗車しワックスまでかけてくれたかのように、きれいに仕上がって いた。(さすがに車内まではとはいかなかったが)
もしかすると、龍神さんの眷属が雨にまぎれてやってきて、母の思いを伝えてくれたのかも知れない。

三十日、日曜ということで、広島から遠い親戚が線香を上げに来てくれた。遠いといっても、母にとってみれば、抱きついて喜ぶほどの人たちが二組である。私は、訪問者を歓待することで、母の思いに応えることが出来たかと思えて、ようやく気を楽にした。

申 し訳ないという思いが薄れると、今度は慢心が頭をもたげてくるのが彼の短所だ。母のささやかな遺産のうち、神戸の震災後の更地の件を明確にしなければなら なかったのだが、問題の権利証から何から何まで、家中探したものの見当たらない。代わりに、どうでもいい(と彼には思える)はぎれやタオル、風呂敷、買い 物したビニール袋の類がわんさか出てくるばかりだった。彼は、捜索の後半戦で、ついにキレて、母の節約精神のピントの外れ具合をなじりながら、捜索作業を する始末だった。
たまたま町内の回覧できていた、「もったいない」をテーマにした標語の募集がテーブルにのっかっていた。そこにはサンプルとし て、「もういちど すてる前に考えよう 再利用」などとあったが、すかさず「もったいないは 小さな家中 ごみ山にする」と書いて応募してやろうかとまで 思った。

こうしてドタバタ騒ぎしたのが十月一日のこと。果たせるかな、二日の未明の夢に、母は出てきた。といっても、彼のほうを一瞥もせ ず、例の書類を捜しているのだ。それもどこか旧家の中のようで、こげ茶色主体の大きな家具の立ち並ぶ暗い中を、あっちでもないこっちでもないと、探しま くっているのだ。そして、どうあっても見つからず、とうとう床にへたり込んで動かなくなってしまった。その間、彼は「もうそんなことせんでいいんだ、いい んだ」と叫んでいたのだが、聞こえないのか、責任を重く受け止めてのゆえか、こちらを見ることもなく床にへたりこんでいるのだった。

彼は目が覚めて、仏前に飛んで行って、平謝りを繰り返した。
こんなに私の心が揺れ動いたのでは、母が成仏できないではないかと、自らの馬鹿さ加減を猛反省した。そして謝罪の気持ちばかりで時を過ごした。
三 日の夜九時頃に一階を消灯し、二階で自分のことをしていて、半時間後にふと思いついて一階に下りたのだが、とたんにゴソゴソッと音がした。電灯をつける と、ゴキブリが一匹、彼に驚いて逃げようとして、壁にぶつかり裏返しになって、しばらく立て直そうともがいて、ようやく表返って、その場に静止した。
とてもベテランのゴキブリとは思えない狼狽ぶり。
彼 はゴキブリのもがく様がすでに哀れになっていて、もしかするとこれは母の視座を持つゴキブリ(つまり母の意識の宿る化身)かと思った。つまり、ゴキブリに なってまで、家捜ししているのではないかと直感したのである。この小さな視点からでは、書類の山を見分けることはできまい。

「母ちゃんなのか? もう探さなくていいんだよ。こちらのことは、もうこちらでやれるから、母ちゃんはゆっくり向こうの世界で幸せに暮らしておくれ。せっかくご来光まで行ったのに。そこが母ちゃんの居るべき所だよ」
するとゴキブリは、触覚さえ微動だにせず、じっと彼の話を聞き、思いを読み取っているかのようだった。こうして十分間ほども語りかけていただろうか。まだ動こうとしないので、「向こうに戻って、楽しく幸せに暮らすんだよ」と、そのまま消灯して二階に上がったのだった。

四日の朝、当然のことながら、ゴキブリはその場にいなかった。
その日は、不明の資料に代わるものすべてを入手せねば、母にも影響しようからと、役所回りしていけば、とんとん拍子に入手できた。
それは、母の積善の徳によるものであり、母が応援していてくれたからだろうと思う。ふつうはこんなにうまくいくことのほうが珍しい。
仏前に報告した。解決したから、母ちゃんがこちらのことには関わる必要はない。それより、一生お世話になったのはぼくのほう。ほんとうにありがとう、と。

朝 になって、祭壇のお供えにゴキブリの糞が落ちていた。おお、ようよう毎朝晩出す食事を食べていることを示してくれたかと思えた。ここで食べずに、昇華され た供養の品をあちらで食べてほしかったが、彼の周りにいる時間が長いようだった。母がいなくなったという実感がまったくなかった。
祭壇に向かうときには一匹の小蠅が飛び回った。あるときは母のビジョンが傍からセコンド役のようにアドバイスしたりした。

十月十二日に彼は仏壇の母に向かって、いまどんなところに居るの、よかったら夢に見せてほしいとねだった。
翌十三日の朝、祭壇の黄色の大輪の菊の花の真ん中が妙に崩れているのに気づいた。見れば、体長5cmほどの青虫が横たわっているではないか。うわーっと、取り出して潰そうかと思ったが、またも思い止まった。
これはいま、母があちらの世界で、菊の花の台の上に転生したことを示しているに違いない。
そう思うと、もったいなくてもったいなくて。
青虫に母ちゃんなのか、母ちゃんのよすがなのかと問うてみれば、青虫はこのとき頭をもたげて、彼と顔合わせして、小さな口の歯をパクパクさせて、あたかも話をするかのように見えた。それは潰すのは容赦してくれと言っているようでもあり、母の語りかける姿のようにも見えた。
後にも先にもこのとき以外に青虫との顔合わせはない。

十 四日だった。母が最も会いたがっていた神戸の旧友がお参りに来てくださった。祭壇の花のうち、大輪の菊はすでに青虫の食事で崩壊寸前だった。よもや旧友を この格好で驚かすわけにはいかない。そこで、菊一輪を一輪挿しにして、下駄箱の上に置き、来客を玄関で迎えてもらうことにした。
祭壇には、昨日あたりからいた蝿が朝から活発に飛び回り、旧友が祭壇に手を合わせるときには、遺骨の上に止まって、同じように彼に向かって手を合わせていた。
こうして、母の希望はたぶん叶えられたことであろう。晩になってみれば、なぜか冷え冷えした。母の気配がたぶん遠のいたのであろう。天気予報では、晩から寒くなるとは言っていたが。
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容 易に冷淡になりえた自分がいたことは確かなのだ。いろんな現実を天秤にかけることもやっていた。最も恩義ある人に対してさえそれだ。いろいろなことを知る ゆえにできる不誠実なのか。それなら、無知に暮らし、目の前のことに翻弄されて生きる人々のほうがよほど立派だ。愛すべき人への不誠実な思いの生じること が、今後再び起きないように心がけようと心に決めた。しかし、容易なことではない。身についた垢というか。

さらにいくつもの不思議が、主 に生き物を介してあった。ネアンに関わる異界の縁者は、どうも人気のない生き物や昆虫になって、逢いにやってくるようだ。この時期は、ゴキブリ、蝿、青虫 といった具合だった。母らしい振る舞いをするから、母の化身と思ってしまう。それらは逆に母にとっての最も嫌がる相手でもあり、目の敵にしていたことも あった。そう考えると、今度は自分が討たれることで、罪を償おうとしているのかと思えて、切なかった。
また、それからも母の出てくる夢が目白押しとなった。
その年の文化の日の未明の夢。これも引用。
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朝になってガラス窓から日差しが入っており、カーテンも何もない部屋に寝ていて、布団の中から出たところだった。
ふと見れば、ベランダを隣家の男が歩いているではないか。プライバシーを除き見された気がして、怒鳴ってやらねばならないと見れば、ベランダはそうとう広くて、四軒ほどの家の共有のようになっているではないか。(私の家は一戸建てだ)
左のほうを見れば、住民が花や木の鉢植えを、屋内からベランダに運び出しているところだった。
私も何事かと見に行き、屋内に入ってみれば、なんと私の祖母がいた(平成六年に死去している)。
どこかの店の中で、店員から品物の説明を受けているようだった。
懐かしさに近づくと、目と鼻の先で祖母は私に何か話しかけてくれたのだが、それよりも祖母の顔が皺ひとつない透き通る肌色をしていて、つんつるてんの坊主頭だったもので、じっと観察してしまい、話のほうを聞き漏らしてしまった。黒い和服姿というより、僧侶服のようだった。
その直後、母が普段着姿で、人に話しかけるときによくするしぐさをしながら店員のところにやってきたシーンで目が覚めた。(色彩豊かな明るい夢だったが、目が覚めてみれば外は真っ暗だった)


母の夢は母の死後もう何度も見ているが、祖母を夢で見たのはまったくはじめてである。目と鼻の先で顔を見合わせながら話をしたというのも鮮烈な印象だった。
あれは死後の世界なのか? だとしたら、現実とさほど変わらない。ただ、祖母の八十歳当時の貫禄ある風貌そのままに、肌年齢を30歳ほどに保っておれる世界みたいに思えた。それはそうか。魂は永遠。好きな年恰好をしてすごせるというが、祖母なら気に入りそうな姿だ。
しかも祖母は尼さんになっているようだ。信心深い人だったから。
童話「たつえおばあさん」は、祖母をモデルにしている。それがまるで祖母の神話になったかのようだ。
物語の中で、祖母にはお寺で説法して、死者の煩悩の衣服を説法によって剥ぎ取る奪衣婆さんの役柄を設定したが、まさにそのとおりのことをしているのかも知れない。

⇒ 祖母の伝記「はつの祖母の思い出」

母の四十九日は終わったが、なぜかいっそう近くにいるような気がして・・・というのも、眠りに就けば何パーセントかの確率で、母に会うことができるわけであり、この世とあの世の区別はあったにせよ、隔絶された印象がまったくないからである。
かくして、私は今なお朝晩欠かさず、お供えの食膳作りをしている。見えないが、すぐ傍で生きているように思うからである。
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翌年初頭の宵戎の日の未明の夢。これも引用。
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本日は宵戎でございました。
実は、そうとも分からずにいた今朝のこと。
またまた未明の夢に故き母が出てまいりまして、
買い物に出かけて、何か担いで帰ってくるなり、
キッチンで流し台いっぱいの大きさの鯛を、
調理し始めたのであります。
そこで目が覚めて、いったい今日は何かお祝いでも
あったのかいなとカレンダーを見ても、先勝しか書いてません。
やがて、ああそうや、えべっさんやないかいなと思い出し、
母の演出に驚いたようなことでした。
そこで仏壇に向かってお話しするわけですが、
「あのお、母さんは毘沙門さんとは縁がありましたが、
今回はえべっさんのつもりでございますか?」と。
すると、こんなお答えが返ってきたような。
「宝船の中は戎祭りでなあ。お前にもおすそ分けや」
ふと、そんふうに聞こえた気がしたわけでありました。
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2月24日の未明に、もう何度目かになる母の夢を見た。これも引用。
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けっこう長い前置きのある夢で、憶えているのは、母と旅行に行こうと二段にフェリーを乗り継ぐ予定で、どこか分からない目的地に向かおうとしているところだったこと。遠距離なのでたぶん二段構えなのだ。
場面は、一段目の近距離フェリー乗り場だった。通勤時らしく、サラリーマンやOL風の客がたくさん階段を駆け下りてきており、母と私は座席を確保すべく、一番後尾にあったえんじ色の革張りの二人用の椅子を倒して、母にまず座らせ、私がその隣に座ったのだった。
と、 その途端だ。母のスカートが前開き(今の流行にそんなものはないが)だったせいで、ぱらっと開いてしまい、そこから見えた素足が二十歳そこそこのまぶしい ものだったため、「うわー、冗談よしてくれよ」と顔をそむけたすぐあとで目が覚めてしまったのだった。(たわけた夢ではある)
中略
私がむしろ持ったのは、死後の世界とはこのように、みんな若返ってそれぞれの思い通りに活在しているものなんだという思いであった。
し かも、我々の認識している世界とは、ほんの薄い壁ひとつ隔てただけの(意識を浅い睡眠に落とした「浅き夢・酒に酔ったような」)ところにあると思ったよう なことで、これもまたhana(当時NHKのみんなの歌として流れていた)のイメージにあって、私の心象風景とは絶妙のシンクロ映像となっていたわけであ る。
こんなことを思うようになれば、あるいは生者よりも死者の夢ばかり見るようになれば、もう先が近いというのも道理かもしれないほどに、最近は眠りが摂りにくく心臓が弱っている感もある。
しかし、死は私にとってなんら怖いものではない。生前の記憶をなくして、すっとフェリーに乗っていたりして、続きのビジョンである旅を夢見ているのではあるまいかと思う。
(このフェリーはおそらく琵琶湖に就航しているものではないか。というのも、次の超不思議なシンクロ話と整合がとれてくるからである。では二段目は・・・おそらくご来光行きのフェリーなのだろう)
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ミソギにまつわる新たな伝説・・・夢に見たとおりのご来光写真が寄せられる

そしてついにあらゆる不思議が総合されたようなシンクロが、P氏という精神修養を重ねる人物によってもたらされることになった。
そ れは、P氏がスキーを愛好し、修養の一環としてそれを用いており、毎年行く琵琶湖バレーの山小屋で逗留された3月9日の朝のご来光写真として、いいものが 撮れたからと、それまでたびたびネアンのサイトで掲載依頼してこられていた一環で、そのときも送ってこられたものであった。

写真額から撮影したため画像に汚れがあります


それは、ネアンの見た母の盛大なお見送りの光景と、寸分違わない写真であった。こちら側から、ご来光に向けて、ムービングロードが敷かれ、そこに母と四人の導師が乗ると、ひとりでにご来光の下まですーっと渡ってしまう。

そのムービングロードの消え行く名残すら、この写真は表わしているかのようだった。両側の山の暗がりは、夢の中では、見送るダークスーツ姿の人々の重なり合う後ろ姿のシルエットだったはずなのだ。
は じめ、ネアンは、P氏がいったいどこで撮ったものやら知らなかった。富士山かなという思いもあった。そうであれば、日本で最高の夢となるとも思い、すごく 喜んだわけだったが、さにあらず、蒸気が充満する琵琶湖を望んで写したものだと分かったとき、P氏の同時添付されていた「蓬莱神の祠」の写真に、ここは いったいどういう場所かとネアンは調べたわけだった。その結果は、一生にいくつもないほどのびっくりを伴うものであった。それも引用しよう。
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Pさんから、3月9日の早朝に彼によって撮影されたすばらしい御来光の写真を提供していただいた。
撮影場所は、滋賀県の琵琶湖湖西にある蓬莱山山頂で、蓬莱神を祀る祠のあるあたりから東に出る御来光を写したものである。次の三枚が寄せられていた。


蓬莱神を祀る祠 (感謝)
ブログ閉鎖に伴う失敗で写真や画像はすべて紛失しました
蓬莱山の御来光 (横)
写真額から撮影したため画像に汚れがあります

蓬莱山の御来光 (縦)
写真や画像はすべて紛失しました
上の御来光写真には意識を高め変容させる力があります。

Pさんのコメント----------------
昨日(3月9日)は早朝より絶好の晴天で、雲海に浮かぶ朝日の写真といつも感謝申し上げている「蓬莱神」の写真がとれたので、別途送らせて下さい。太陽の輝きが我々の意識を良き方向に変容させることを祈念します。
送りました朝日の写真は、雲海の上に浮かぶ太陽で、琵琶湖も垣間見えます。
(撮影場所は)いつもの、修行道場「蓬莱山」です。日によって様々に表情を変えるのですが、昨日は言葉を失う美しさでありました。どういう加減か、琵琶湖の上にうっすら雲が敷き詰められ、所々に湖が出てそこが朝日の反射する筋道となって、あのような光景に・・・。
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この写真を見て驚いたのは私(ネアン)だった。
それは昨年の9月22日の未明に見た、故き母を盛大に見送る夢の光景とうりふたつだったからである。

振 り返ってみるに、あの日、目が覚めてから思ったのは、雲海を見下ろすような場所ゆえに、どこか3000m級の山の山頂に居たのではなかろうか、富士山あた りでも、夢の中身の破天荒さからすればありえてもいいんじゃないかなどといった連想と、前日の寝る前までに及ぶ親愛なる神々への熱心な祈りに、龍神の眷属 を総動員して応えてくださったという感謝感激の思いであった。
加えて、自分の書いている新神話の貢献の度合いに並ならぬものがあって、ここまでの礼を以て返してくれたのだという思いもあった。
新神話で設定した蓬莱島とは竜宮でもあり、下界を眺望可能な治外法権の場であり、そこにいる神々とは、梵天、弁天、毘沙門天など四天王とその后、戎、大黒などの七福神、さらには國常立神などの正神である。
私はその神々に協力する以上、私に生前関わった母の安全を思い、こうした神々の総力を取り付けてでも、行ってもらいたかったわけだった。
むろん母一人でも十分に積善の徳によって高い境涯が約束されたとは思うが、高徳な割には恵まれぬ生涯と、最後を飾る葬儀のあまりに質素なありさまに、せめて神々の手で何とか賑わしくしてほしいとの思いもあって、殊更真剣に祈ったわけだった。
するとその夜を越した未明の夢で果たせるかな、驚くべき夢見となったのだ。

そ のときは、その背景になる場所がどこなのか分かったわけではなかった。ただ大きなホテルのようなところにいて、そこには何千のスーツ姿の人々がいて、エレ ベーターでみんなして屋上に出たら、雲海を見下ろす場所でご来光を拝していたというわけだ。夢にありがちな奇想天外な展開ではある。
そして、目の 前に母がいて向こう(御来光のほう)を向いていて、やがて四人の取り巻きの従者とともに、エスカレーター風の動く歩道に乗っかると、すーっと押し出され て、御来光に向けて母の一行は進んでいった。途中で導師のうち左の僧侶がこちらをやや振り向けば、その横顔からして、メガネをかけた蓬莱道龍和尚だと分 かった。
そして向こうに着いてとまると、母はこちらを右向きに振り向いて手を振ってくれた。
私もこちら側でみんなとともに手を振った。こうしてお見送りが終わると、またホテルの中になり、見知らぬ参列者とともにそこを後にして、公共交通機関を探して帰ろうというところまでの、けっこう至れり尽くせりの夢であった。

では、母が到達したところとは。それは蓬莱島か蓬莱島経由のご来光でなくてはならないことになろう。思えば、かなり以前に書いた童話の「たつえおばあさん」に出てくる、お釈迦様のご来光のようであるかもしれない。そこには通れるか通れないかの細道があるのではなく、五人の人が十分に立って、しかも自動的に移動する輝かしい道である。母の積善の徳がこのようにさせていることは紛れもない。

Pさんが御来光を撮られた方向。それは当時の御来光の方角からして、山頂から方位度91゜ほどで、ほぼ真東とみてよい。


すると御来光がかぶさる位置に、琵琶湖の沖島がほぼ位置する。沖島には蓬莱嶽と名づけられた島の山頂があり、島内の神社は奥津島姫を祀る。
つまり、蓬莱山-蓬莱嶽は真東西で、ほぼ今頃のお彼岸近くにおいては、御来光が蓬莱嶽から立ち昇るように現れているのである。その筋道をまた蓬莱導師が導いていくとは、これ如何に。
現実に存在している沖島は、表象としての神界の蓬莱島に当たっており、そこは奥津島姫つまり弁天様の荒魂・本霊(分霊に対する)の御座所でもあるわけだ。
むろんそこから、奥津磐座のさらに延長上に、梵の全系・我々の魂の真のふるさとが御来光の中に遠望されている。
西に阿弥陀仏の浄土なら、東に蓬莱の神仙ありと謳われた神界伝説のまさに活在する、いと吉き処こそ琵琶湖。

それが夢に出てきた-
雲海がこのようなふうにも出るものなのか。
エスカレーター風移動道の段差さえも、御来光が湖面に反射して演出しようとしている。
はあー。ただただ神のお計らいには、感心し感嘆するばかり。
万葉の神仙世界は今なお活在!!
造形の妙を尽くしてくださり、多くの応援をかくなる天象を以てお示しくださった蓬莱におわす神々に深く感謝を捧げます。
そしてPさん。あなたのこのご尽力には、ただただ感謝いたします。
御来光とは太陽を写すことゆえに、うまくいくことのほうが稀なくらいなのですが、
ここにもすばらしい演出があったと考えるしかありません。
そしてあの夢のホテルには龍族だけでなく天狗系の方々やその他縁ある方々もおられたであろうこと。
ここに改めて万感の思いを込めて、御礼申し上げる次第です。
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新神話的考察として・・・

蓬莱の名が、三つ並んだ。蓬莱山(琵琶湖バレーの背後の山)、蓬莱嶽(沖島の山頂)、そして中を取り持つ蓬莱和尚がおられた。彼は母を導くために遣わされた弁天さんの命を受けた龍なのだ。ホテルにいたのは見知らぬとはいえ龍族のみなさんに違いない。
しかも、新神話で蓬莱島は、この世の邪悪ないかなる勢力も立ち入ることのできぬ、外世界への通用門(大使館)であった。母の身の安全は確かに図られた。
ネアンはそんなふうに自分なりに確信した。
謎解きはすべて吉祥のうちに飛躍的に進化発展した。新神話の大成功であった。

真に神々、諸天善神の活在されていることを、ネアンがはっきりと確信できた出来事であった。
その中で、最も活躍されているのが奥津嶋姫だ。その神の化身がカンナオビなのである。

その事実は後日になって、一層はっきりしてくるのであるが、カンナオビは、ネアンを愛していたから、このような計らいをしてくれたのだ。ありがとう、カンナオビ。そして、奥津嶋姫弁才天様。
ネアンは、胸の中に宿るカンナオビの本体の白龍をぎゅっと抱きしめた。
わが祈りは、胸の白龍さんにいつでも聞いてもらえる。そうネアンは思った。
神霊に戻れば、どれほど自在なのだろうか。ネアンはまたカンナオビとともに飛翔したい気になった。

いや、そうしなくてはならなくなる。我々の役割のために。

そこには、新神話の要素がふんだんに取り入れられていたゆえに、新神話の有効性も併せて確信できたわけであった。
新神話におけるこれらの神々、正神と位置づける神々は、紛れもなく動いておられる。
弁才天をカナメにした構図でいつも動いておられる。
そして、メッセージと応援をたえまなく送り続けてくれているのだ。
心の底から感激と感謝が湧いてくるネアンであった。
母ミソギはもはや解脱の境に至ったも同じだ。
協力者たちは、それぞれに偉大な方向性を持ってまい進している。
新神話に頼る巫女たちは、このたびのご神業を覚悟して臨んでいる。
みんなあるべき姿に落ち着いている。
今までこれらの縁者に、ネアンのほうから誘いをかけることはなかった。巫女たちのほうから近づき、多大な相互作用を及ぼしてくれたのだ。自分は時計仕掛けの存在然として、真ん中にいればよい。起動さるべき刺激は、ただ待って受け取るものとなる。それが通常のネアン流だ。
だが、能動的に動くことも、男なら必要となろう。そこで、もし自分から能動的に近づくとすれば、相手から「来られるのを待っていました」という言葉を合言葉にしようと決めた。
そして、残るいくばくかの余生を、新神話効果の成り行きを見届けるために送ることにしようと、ネアンは心に決めた。

 

⇒ 夢見超常体験・・・母の盛大なお見送りでの彼岸入り (2007年9月22日)

 


四神相揃う安定的ステイタスはどこに

そのようなとき、心残りなのは、四神相応の体制が欠損していることだった。玄武イナンナは去り、白虎代理シノもい ない。そして、玄武イナンナの役割を青龍カンナオビが併合して兼務したことまでは、ゲンのもたらした衝撃的ななシンクロによって知った。旧友のゲンが、ネ アンがカンナオビを連れて丹後訪問した際に、彼が前夜に見た夢の話をしたことによって知らされることになった。
カンナオビは、ものすごい潜在力を 蓄えた巫女だと推し量られた。表向きはごくふつうの比較的恵まれたタイプの主婦。氷山の一角にもならないその下には、とてつもない力が潜んでいるのだとネ アンには思えた。適時における的確な行動が、新神話への原動力にもなっていることに幾度も気づかされていた。その信頼性は、天与のものでしかない。弁天乙 姫の化身がそこにある。そのゆえに、彼女が座を兼務するになんら問題はない。
あとは白虎だ。

ところが、白虎らしさを醸す人物が前二者と同じルートから現れたのだ。
ちょ うどネアンが役割に目覚めた50の頃から、同時並行的に、独自の異界交信の方法を編み出し、日々その技の修練に心がけていた女性が伏在していたのだ。たま たま、異界交信の成果を情報ネットに載せたく思ったとき、ちょうど見つけたネアンに助力を求めてきたのだ。この交信方法は、異界への質問をあらかじめ用意 し、回答を翌日の新聞の見出しの中の言葉として受け取るというものであった。
そして、お礼の代わりとばかり、ネアンにまつわることを異界交信しその回答を知らせるようになった。その内容が、これまた随時適時のキーの到来を待つネアンに、刺激を与えるほどにシンクロに満ちたものとなった。

━2007━
●ネアンさん・ネアン主催のブログ
Q ネアンさんてどういう人?               A 台風
Q ネアンさんは何のために生まれてきたか A 責任 「活動・運動」 大原則 厳格に適用
Q ネアンさんが知りたいことは?     A 照合 振り返りが必要 成績どう渡す
(照合とは適時のシンクロのことである。振り返りとは、それらを検証することである。そしてその観測成績を新神話にフィードバックしていくが、そのときにネアンは来たるべき筋書きを決めるのである。これらのステップは、東洋魔法の脈・境・兆・見立の手順である)
Q ネアン主催のブログとは?      A 情報関連集積 本社
Q ここのブログで世界初の「」が始まっている  
                   A 男性走者、命再び 救命士ランナー 的確処置
(ネアンは自らを救世主と位置付けていた)
Q 私へのネアンさんの反応             A 「歓迎」
Q ネアンさんが認めてくれたこと、嬉しいですか?  A 9割ふ化 視察相次ぐ 養殖可能
(神界も新神話に期待しているのだろう)
Q ネアン主催のブログがデータを受けてくれること嬉しい?  A 思想信条に基づく行為
(この人の交信それ自体、新神話からの要請であり、役割だった)
Q ネアン主催のブログに居座っていていいの?今後どうなる? 
               A 相撲 活気再び 横綱、育てたい 手作り土俵に夢描く
(新しい試み、つまり新しい取り組みとなった。このような巫女の協力者ぶりもいいものだ)
Q 私にとってネアンさんはどういう人?       A 給油 貢献
Q ネアンさんとメール交信する?           A 胎動 
Q 一般の人が私とネアンさんに付けるであろう病名   A 進出
●新神話
Q ネアンさんの神話評                A 業界へ改善指導  
(この世界がゲームソフトのバーチャルなら、これには不合格を与えねばならないとネアンは思っていた。つまり有害図書というわけである)
Q ネアン神話は、天界でいかなる役を果たすのか?   A 公演 情景たどり 今に
(新神話も旧神話同様に、天界で俳優の神々によって神楽舞が舞われるのである。それによって、地上にその垂迹効果が顕われてくる。それが神話の現象世界に対する作用機序というものである)
Q アリンコに新神話で助けてもらうわけ、気分は?  A 一転続投 
Q ネアン神話になぜそれほど威力があるの?     A 奇抜作戦 金メダル 連覇・意欲
Q 天界ではみんなで新神話を読んでいますか?    A 友好

(巫女さんたちの働きで上奏された新神話。神世の宮廷女官たちから始まったその人気は抜群で、またたくまに八百万の神にも伝わった。この連載神話がやがて神世を変えることになるのである)
Q ★神話1のあらすじ又はシンクロ
                A 大漁旗 漁獲 5年間で最多 産卵豊富、黒潮に乗り
Q ★神話2の印象       A 新法、成立へ ダメージ軽減狙い
Q ★神話3の印象       A 広がる共助 支援 ケア、相談子弟就学など実績
Q ★神話4の印象       A 格差の中・徒たち 深刻な報告続々 
Q ★神話5の印象       A 続く人員不足 連絡会議で実態報告 現地確認
Q ★神話6の印象       A 対等な関係遠く 関係自治体に不公平感
Q ★神話7の印象       A 見つけた「私の宝」 不惑の覚悟、夢を実現
(読者各位で、そうなっているかどうか、調べられたい。1から7は、第一章から第七章に対応する。
この回答はすべて神界から、この巫女さんあてに下されたメッセージである。彼女の設定したルールはいたって公平で、偽りの入らない新聞紙面上の見出しが言葉拾いの基になっている。
現在では彼女との連携はなくなったが、彼女は今でも独自に頑張っている。http://www4.hp-ez.com/hp/11427/)

彼 女と知り合った間際から、新神話への理解の度合いを交信結果に導く姿は、驚くべきものだった。しかも、以上の回答だけでも、ものすごい精度でネアンの功績 を言い当てている。そして、異界がネアンや新神話に対してする評価も、びしびしとネアンに心当たりとなって跳ね返っていた。
台風とは、スサノオの権化である。新神話のスサノオはネアンのサポーター役である。
ネ アンは今となれば、正義の大原則を新神話に厳格に適用するウシトラノコンシンの如くである。新神話でも書いているように、世相のモニターとして、その成績 を神界に持ち帰って報告しなくてはならない。それを随時の場において代行してくれるのが、神の化身的な巫女たちなのだ。
その結果が、このテーマパークの処置に繋がる。そして、下界で公開する彼のブログ記事情報は、世界の真相を網羅したものであり、そこから誰彼が参考にして思想体系化しても十分なほどのものである。

当然、情報に触れることのできた者は、啓発され、閉ざされていた目を開くことになり、ともすれば原罪意識に苛まれていっそう深みにはまって行こうとする衆生の心を救済する。
そ の行為と功績は、異界にも知れるようになり、参考にしようと視察が相次ぐ。それはあたかも、釈迦が現界で説法するだけのように見えて、実は天界においても 説法が行われるが如しなのである。彼はよく独り言をしゃべって、周囲を奇妙がらせていたが、天界の会場に集まる衆生に対して説法していたのである。

彼 女の異界交信からもたらされるデーターは、彼の待っていた啓発にも相当する。そこから、魔法の原動力たる「兆」や「脈(シンクロなど)」を得ることができ るものとなるからだ。その理由から、ふつうは非公開にしていた新神話を見せる相手に彼女を選ぶのも、すぐのことだった。
この重要な巻物を見せるとは、協力者である証のようなことでもあった。いっそう白虎に位置づけたいネアン。しかし、本人はあくまでも束縛されることを嫌った。これこそ、猫科の性分。

この女性の名は、五木乙女(いつきおとめ)。ネアンとはほぼ同年代で、文芸評論家に論争を挑むほどのインテリ女性なのである。しかし、その様な人が異界交信する。どこか不思議な取り合わせのようにネアンは思った。
新タイプの巫女とはいっても、異界から直接メッセージ(託宣)を受け取るという、古代黎明期に発祥した巫女の姿を現代版に置き直せばこのようにもなるかもしれないという古くて新しい方式を引っ提げていた。
ネアンに関わった今までの巫女は、霊能者や霊媒、そしてガイダンスを携えて持ち込む者や、行動で神話の雛形を演じてしまう演技派ばかりであった。しかしこの巫女は、伝統的シャーマンの部類のようだった。

ネアンは今までの経緯から、巫女を束ねるサニワを自認するようになっていた。
サニワは巫女に見知らぬ神や悪霊のかかるのを見極め、防止する役目がある。
し かし、今の巫女は自分の傍にいるわけではない。それぞれに生活の場を持ち、地場のしがらみに生きている。連絡はネットか電話という遠隔通信手段を使わねば ならないことが多い。古代のサニワのようにはいかない。前のイナンナのときのように、時間を割いたケースでも、いつの間にか邪神の罠にはまっていたりす る。役目の寿命も考えねばならない。おのずと協力者といった感になる。ボンドガールとしての命は長くない。

五木乙女は、自ら小説を書くも、世に認められずに、自費出版という昇華の仕方に甘んじていた。このたびは、異界交信を世に出し、広めたいという。本にして出版をしたいという。
しかし、データー量は膨大であり、自費出版するとなればとてつもない費用となるだろうし、言葉ばかりの並びに読者は閉口してしまうことだろう。
ネ アンは、ネット公開の場を作ってあげることで、彼女の努力に対する便宜を図ろうとした。その代わり、彼女のもたらす彼に関係する交信結果でギブアンドテイ クの関係を築こうとした。しかし、五木乙女は独自の出版に向けての熱意に満ちていた。これこそ、「進出」病といったことになるか。
ネアンは、異界交信のデーターの膨大さを見て、本にすることには納得できなかった。イメージできないようなプランを持っているのであろうか。
(当時は思いつきもしなかったが、今なら電子出版という方法がある。しかもここパブーさんなら無料で、自分なりのまとめ方が自由にできる。高額の自費出版を考えず、多少手間が要っても、すでに電子化されているわけだから、それを基にすれば簡単にいくのではあるまいか)
また、すでに出版した小説のほうも、いきなり護憲というキーワードで、人を推し量るルールのあるのにもびっくりした。それを小説の付録として添えている。目的の異なるものを一堂に集めても、効果が分散してしまわないか。
小 説を見るに、物書きの腕はなかなかいい。しかし、その腕が異界交信の結果の考察には反映されてこない。交信結果はもともと暗号の羅列だ。それが解釈されて こそ光を放つ。が、彼女の場合は、ほとんどそのままにつんどくデーターになっていた。そこから意味を汲み取るのは、外部の人間よりも、まず本人ではないの か。本人独自の解釈が彼女の文章表現であまり出ていないように思う。
これはかつて古代に巫女としての専門職にいた者において見受けられそうな性格と言えよう。神託を出すことだけが仕事で、それを神官に渡せば神官側が解釈して王に結果を渡していた時代のものである。五木乙女はその名残と捉えられた。


そうならば、むしろネアンは古代の神官だ。彼女には新神話協力者として、秘書然としておいてほしかった。というのも、かつての白虎シノの要 素を持っていたからだ。猫を飼い、農耕を行う。シノも猫を飼い、その猫の名がノラ(野良仕事のノラ)だった。ネアンは思う。OKしてくれれば、白虎は決ま りなのだが、と。
そして、ダメ押しになるのが肉体関係だ。シノとは一度だけだったが、初めてイッたという感動の言葉を残している。むろんこれも、近隣だからできたことであって、五木乙女は関東にいたから会うことが無理なのだ。
(しかし、カンナオビが奥津嶋姫、イナンナが市寸嶋姫としたとき、あと弁天三姉妹のおひと神、たぎつ姫は江島とも呼ばれ、江の島の弁天様として鎮座しておられる。五木乙女の方角と距離はとても近い)

五 木乙女の異界交信方式は、ネット読者の関心を呼び、時がたつにつれ、交信巫女希望者が集まった。いつしかレギュラー的に数人に絞られたが、五木乙女は後進 の指導を的確にこなしていった。それは彼女が過去世から培った縁だったのかも知れない。みんな解釈をそれぞれ心に秘めるという共通性があった。
いっぽうネアンは、解釈を事細かに加えていきたいタイプだ。それがとても面白いからだ。意味が通じる回答はけっこう連続しているもので、そんなときのノリは、回答を得た巫女よりもはしゃぎすぎくらいになった。

か なり後になって、異界が発するネアン関連の質問の回答の多くが、なぜか好意的かつ持ち上げている感があるので、五木乙女はもしかするとネアンこそが弥勒菩 薩ではないかと思い始めた。無論その前に、新神話の中身を多少とも知る彼女は、その中に書かれたことの成就をいくつも現実に目撃もしていた。それに加え、 ネアンは謎解き探偵の如く、難解に見える回答の言葉に明快な解釈をつけていたこともある。

ついに五木乙女からネアンにこんな質問がきた。
「ネアンさんは、弥勒菩薩である可能性はありますか?」と。
ネアンはそれに対して即座に解答を返す。
「これはすでに六角オーブとして、いっぱい目撃されていると思いますが、
弥勒は 身六 が 満つる六 で 国津神衆(地湧の菩薩衆)のことです。
人間は、自分ひとりで意識がしっかりしてると思っていますが、
ほんとうはいろんな霊や神がかかって、けっこう操作されているのです。
今までは邪神系の悪霊がかかることが多かったのですが、いまは身六がここぞと
思うところにかかって、本人を動かしています。
だから、真実に目覚める人が増えたり、政権交代が達成できたりしたのです。
私は新神話の中でのみ、ネアンとしての救世主をしていますけど、現実は阿呆な凡人です。
ただし、このネアン。あのマトリックスの救世主ネオより数年古い命名で、
ネオ=Neo=Newother=新しい別のもの
ネアン=Nean=Newanother=新しい別のもの
というシンクロとなっているのです。これ自慢。自画自賛。
ネアンと弥勒の関係は、新神話12章(この章この段)で出てきます。お楽しみに。
また、あなたのサポート的交信をその章の中にたくさん組み込もうとしています。
ダブルで楽しみにしていてください」
というわけで、この第十二章でその辺を解題していこうとしている。

 


子神誕生

ネアンはカンナオビの若さに惹かれていた。たとえ逢えなくなったとはいえ、カンナオビが望めば電話という手段で言 葉を交わすことができた。彼女ももういい年とはいえ、花のクライマックスとしての情交を楽しみにしていた。ネアンは彼女の声がいつまでもせいぜい若いOL ほどにしか聞こえない、まさにうぐいすの声であることをたいそう喜んだ。電話の向こうにはいつも適齢期の彼女がいるのだ。そして、彼女が望むのは、この世 でたったひとつ果たせなかった自らの子供を産むことを、二人の創るイメージの世界で、これでもう思い残すことはないというほど、果たすことであった。彼女 は美しい。なのに正しく夫婦として愛されなかったことの不満を、ネアンにすべて振り向けた。

ネアンもそうだ。ついに配偶者を設けることも子供を設けることもできなかった不足を、彼女とのイメージの世界で補おうとして、電話での情交の背景設定は、楽しもうとするあまり様々に工夫を凝らすも、最後は必ず、赤ちゃんを作ると宣言して中出しした。(イメージの世界でのことなので想像妊娠はあっても、本妊娠はない。ところが・・・異世界に子供ができるという話がこの段である。我々は妖怪なんじゃろうか)

十年前に始まった想いの世界の子作り。いったい、どれくらいの数の子供ができただろう。この頃までに、すでに天の川くらいの子供は世界に放たれていただろう。それぞれ梵天と弁天の雛形としてする性行為だから、神聖かつ確実なものとなる。

お りしもたびたび白昼の青空を背景に、たくさんの星の子UFOが飛行する場面が世界中で撮影されていたが、ネアンは二人にできた子供ではないかと思った。こ のタイプのUFOはすべて神霊体だと思っていた。むかし、ネアンはこの手のUFOに、ピラミッド瞑想中に眉間から飛び込まれているから、なおのことだっ た。ヒラサカ(坂本氏)もあれは自分の子供やと言っていたなあ。けったいな変人たち。

2008年の夏はとくにお盛んだった。時間さえあれば、カンナオビは求めた。ネアンの気の心地よさに触れたい思いとともに、とにかく子供をほしがった。それは霊的な欲求のようであった。

そんなとき、五月乙女 (さつきおとめ 前述の五木乙女ではないので注意) という女性が、ネアンのブログに、不思議な夢見の内容を伝えてきた。それはあまりに印象深かったため、二日に分けての投稿だった。
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つい最近・・あれは先週だったか・・美容院に行く夢のとき、パンチパーマにするかと聞かれたんです モデルまで見せてくれて・・えええ!!と思いながら、場面が変わり 坊主頭の尼僧がこどもをともなって歩いてきて道を尋ねました。
こどもがトイレにその途中行きたがったので、地下に降りてトイレに・・しかし・・間に合わない・・しかも・・大・・服まで汚して一生懸命脱いでいて、脱げないと半泣き(袈裟でした) 臭いけどしゃあないと私が脱がせたんですが 脱がせると尼僧だったんです。
そのなんとも気の毒なお姿・・もうひとりの人に上から下まで代わりの服や靴を買ってきてと指示しました。
ずっとありがとうと泣きじゃくる尼僧・・そこで夢が終わりました。
脱がせてあげてよかったと起きてから思いました。
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昨日の夢をまた書かせてください。
赤ちゃん(生まれたて)が泣いています。
両親もいません、建物の中に数名と一緒です。
きっとおなかがすいているんだろうけれど、おっぱいが出たらいいのにね・・と試しにあげてみると。
ぐいぐい飲んでいる様子、にっこり満足げに笑いました。
搾乳すると溢れるようにおちちが出るんです。
よかった!私が育ててあげます。そう宣言したのですが、そのあと どこからきたんだろうとか病気を持っているんじゃないかとか、言う人が出てきました。
それでも生きているんだから、と赤ん坊を抱き上げ違う部屋に移動してまたおっぱいを上げるという夢でした。
あかちゃんはぬれていました。どういう存在だったのか
しばらく考えてしまいました。
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赤ちゃんは濡れていたというところから、ネアンは一瞬の直感で、カンナオビとの子であると判断した。イメージに入ってする情交は、すでに神の雛形になってする神聖なものとなる。そこで返事する。
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それは私からお礼を申します。
その子は、梵天と弁天の間に生まれた子です。
前回の尼僧は弁天です。
どうぞ、親子ともども仲良くしてやってください。
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そして、その返事を追認するように、カンナオビが、隠し返事で、
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最愛のネアン様
わたしもそう思います。
あの日は(*^^*)
いつもより消耗が大きくて♪
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と寄越した。
もうこの頃の二人は、新神話の磁場に十分に磁化されていて、発する断定的な言葉は、神々として発する言葉となっていたから、この宣言は確定されたものとなった。
このとき、五月乙女は赤子の乳母役として確定したのである。さらに、五月乙女は確認をとろうとする。
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弁天さんと梵天さんの間のおこさまの乳母役ですか^^光栄です。
先日は弁天さん自ら乳母を捜しに(試しに)おいでいただいたんですね。
ところで・・このお子様はどなたなんですか?
どういうお働きをなさるんでしょう?
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これに対し、
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あなたの、巷の偏見に流されない積極的な善意を知りました。
頼りない親たちで申し訳ないですが、新しい時代を開く子供と予定しておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
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と、受け答える。すると、
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なんだか染み入るお言葉です。
そうなりたいです。
新しい時代をひらくこども すばらしい。
一心にそのいのちをつなぎやってこられたんだと感じ取れます。
乳母の体すべてをこのおこさまに差し上げましょう。
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この決心に、もはや対抗する意見などあるはずがない。ネアンは、かつての神話に、類話があることを知っていた。それは山幸(浦島)と豊玉姫(乙姫)の間に生まれたウガヤフキアヘズノミコトを、豊玉姫の妹の玉依姫が乳母として養育するという話である。
ウ ガヤフキアヘズは、中つ巻以降の初代の英雄である神武天皇の親である。つまり、このたびの流れの中で、新時代への移行が掛けて示されているわけである。新 時代へは、このウガヤフキアヘズがお役を担うものとして、ネアンには理解された。ネアンとカンナオビは、梵天と弁天のみならず、山幸と豊玉姫の雛形でも あったから、すなおに次のような言葉となって表われた。
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あなたに"タマヨリビメ"の神格を差し上げましょう。
子供をばよろしくお願いいたします。
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それは神のした契りであり、もはやすべての管理は神代のものとして置かれる。
それに対して、素直に応じる五月乙女。が、しかし。
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玉依姫ですか なんかもったいない格を頂戴し恐悦至極にございます
乳母すっかりのんびり穏やかな日々が戻り、秋の風に心澄ませたいところです。
五木乙女さんの熱き思いがかたちになりますことを意乗りつつ
 このなんだか不思議にブームのようなアセンション祭りが秋という季節に合わせ 外から内へと向かい動から静 拡大から収縮 スピリチャルの探求者たちも現実と自己の意識変革を真剣に取り組みだしているせいか、静かだとどこをみても感じます。
おそらく・・今年の暮れから来年に向けてまた盛り上がる気配は感じつつ・・。
その中でも女神さんたちは元気ですね・・宮城地震でセオリツヒメさんが復活なんてのもどこかでみましたが、たのしみです。
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五 月乙女の返事の終わりに出てきた瀬織津姫とは、国常立神と天照天皇を暗殺した邪神が、世の平静を装うべく擁立した女神なのである。世界はその直後から暗黒 化した。瀬織津姫がなぜ別名が八十禍津日神なのか。それはその名のとおり、非常に多くの日々歳月を禍々しい日の下に置いたことに由来している。
イ ザナギは「身禊」のことろで、身の穢れを落とす際に、八十禍津日神を生成しており、この神は川で流し去った神として描かれる。つまり、イザナミ陣営に属す る神なのだ。いっぽう、同時並行的に生成された神直日神(カムナオビ)は、これらの禍事を浄化する神として生まれたイザナギ陣営の神である。それがカンナ オビの真価なのだ。これも、ネアンが彼女に対して命名した時点で、雛形ここにありと、神代の出来事として成就したのである。
おりしも、大きな被害をもたらした宮城地震。命のことなど何とも思わぬ性質を丸出しにしていた。

な ぜ東北方面にこの神社が多いか。それは川に流された蛭子・夷(えびす)と同じ境遇であるゆえに、同情的に祀られているというのが真意だろう。だが、古代先 住民族を追い払い、大和朝廷側から呼び習わした棄民の夷とは、まったく意味が異なっているのだ。そして、せっかく祀った神のおでましで被害を受けていると いうのも、皮肉な話であった。ネアンはそのことを暗に指摘した。


これはいけないと感じた五月乙女は、瀬織津姫を知ったのは、大祓詞によってであったと報告してきた。それは天智天皇のときに中臣連によって作られたという、伊勢系の神社で唱えられる祝詞である。が、それもそうだろう。その祝詞の中で、重要な地位を占めていても当然なのだ。

天の岩戸隠れがまだ解決していない理由はそこにある。巷はまだ岩戸開けのこれからあるを期待していたのも無理はない。それほど、不正義が蔓延り、咽返るような世相となっていたからである。
そして、それを裏付ける話を、五月乙女はどこからか探して持ってきた。
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こういうのもありました。
>天照大神の荒魂=瀬織津姫
伊 勢で消されたはずの瀬織津姫の名が、伊勢神宮の神主であり、大和朝廷の神祀を司る中臣氏によって、年二回の年中行事である朱雀門前の大祓えの祝詞の中に、 祓え四神の一つ、水の神として、公式文書として記された。広瀬神社の祭神は和加宇加之売命他とされるが、地元の古文献には、天照大神の荒魂で瀬織津姫と同 体であるという。この広瀬の大忌神、天照大神の荒魂瀬織津姫が勧請されて伊勢の荒祭宮に祭られたという説がある。
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これはネアンのまったく知らない話であった。重大なシンクロとネアンには思えて、身震いした。そして、五月乙女も、自分にはなくてはならないキーワード保持者として捉えるようになったのだった。
五月乙女は、いわば中間に位置して、どちらの情報も均等に捉えていて、正邪のせめぎ合いから比較的独立しているようであった。だから、邪神側の動きを随時報告してくれる良いボンドガールであるとともに、もしかすると相手方にも状況を伝える者であるかも知れなかった。
ネアンはよく、彼女ら巫女たちを、くのいち忍者に譬えることをしたが、それは随時の情報を彼にもたらすゆえであった。そんなとき、五月乙女の場合は、両陣営あるいはその仲裁的陣営のどこにでも情報を配り歩く、根来忍者のような存在かと思えた。

そ の辺は、やや後に、白山菊理姫を讃える姿勢を見せたことにも見られた。むろん彼女自身はまったく知らないでしていることである。しかし、こと玉依姫がそう 考えているとなら、先の未来にどう影響するや分からない。古事記では、玉依姫はいずれ、育てたウガヤフキアヘズと婚姻し、後の時代への教育の親となるはず だからだ。
だが、菊理姫は、日本書紀に登場する神として、イザナギとイザナミを仲裁し和解させる方向に働く。つまり、黄泉の国を改善する可能性が ある神ではあるが、ネアンが目指すオールクリーンな世界とは相いれない。邪悪がまたぞろ入ってくるからである。それをすればまた次の時代へと時と場所を代 えて、同じことが繰り返されることになる。そういった折衷的な世界にするのはもうやめようと言うのがネアンなのである。

また、五月乙女自 身が夢見で交流する神がいることを、たびたび口にしていた。その神とはニギハヤヒだった。彼女の地元関西の神でもある。とすると、ウガヤフキアヘズとはニ ギハヤヒとして、再来するともネアンは捉えた。しかし、ニギハヤヒはかの神武天皇以後の大和朝廷の存立を導いた人物であり、秘教組織のドンだと捉えてい た。
むろん、過去にどんな過ちをしたとはいえ、この時代においては、正神への復帰を切望するなら、それなりの働きを見せることによって、それも叶うとしているのだが。

ネ アンは、たとえ次代を、ウガヤフキアヘズ、玉依姫コンビに任せたとしても、自分たちは院政を敷いて、新神話をしっかりとして打ち立てていく覚悟をした。そ うでなければ、古事記ばかりでなく、またぞろ秘教仕込みの亜流の旧神話が湧き出してきて、人類を混乱させるばかりになるからだ。しかし、玉依姫を拝領した 五月乙女もまた現実世界で百戦練磨した能力者のようであった。


このころ、オバマが2009年の大統領選に向けての第一歩たる、民主党大会における大統領候補一位指名を果たした。
そのほぼ一月後だった。衝撃的な展開があったのは。

 

 


弥勒誕生

それは思いつきのようにして高野山に旅行したカンナオビに始まった。ネアンは、その計画を事前に聞き知って、空海 への多少の疑惑があったため、またどうしてそんなところに行くのかと諭したが、どうしても行きたい、それに計画を立ててしまったからという。彼女は、意義 も何も知らぬうちの行動を通して、新神話に影響する多大な成果を持って帰るという優れ者だったから、まあまた何かお土産があるに違いないとネアンは思って いた。

空海は存命のとき、朝廷の命を受けて、山人討伐をしている。そして、あろうことか、修行していた天狗たちを三角護摩壇法の呪法で封 印してしまっていたのだ。千年の封印の末、ようやくネアンたちによって、封印が解けつつある様が、彼や仲間のビデオカメラによって捉えられている。それも まだ、現れ方が、ぶんぶく茶釜の狸のような妖怪変化としてでしかない。しかし、麻耶山上空を喜んで飛び回っていた。全国の天狗たちの封印が解けたのが2005年の半ばになってからであった。

朝 廷の命を受けて、それをすべて正しいとして、とんでもないことをしている聖者や豪族があまたいるのである。大和朝廷自体が、世界の秘教組織の日本での先鋒 であり、太古の神々を封印して回る側だった。正状に復するというなら、それが行動によって示されなくてはならない。空海は入定の瞑想中に、してきたことの 非を悟ったに違いない。天狗岩の祠の横に「三角寺」の看板を置いてヒントを与えたのは、おそらく空海であったろう。

2008年の秋のお彼岸の中日の直後、ネアンの知らない間に、カンナオビは高野山詣でを家族とともにした。
そのとき、金剛峰寺で撮ったデジカメ写真の中に、不思議な形をしたオーブが写り込んでいたのである。その形は、はっきりではないものの、やや縦長の六角形をしていた。場所は持仏間の加納元信作の群鶴図ふすま絵の一羽の鶴の頭上に、それが出ていた。
そして、翌日それを興奮気味にネアンに知らせるにも、両者ともに気の憔悴感がある中でのやりとりになった。カンナオビは、まず昨晩の不思議な夢の話から切り出した。
その辺をネアンはブログ記事にしているので引用しよう。

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[弥勒下生は間近だ!!]

 

昨日はカンナオビさんが地元のバスツアーで高野山に行ってきました。私は、彼女が出かけてから知ることとなり、あの地は結界がきついから一日心配なわけでしたが、案の定お蔭をもらって帰ってきました。
鏡を見るように彼女も私も昨晩から今朝にかけて、"気"が憔悴してしまい、ひどい体温低下とだるさに悩みました。

しかし、お互いのコミがとれてからは情報の受け渡しができたために、気の疎通が図れて具合はいくぶん回復しました。
彼女の開口一番の情報は、高野山の話かと思えばさにあらず、昨晩見た夢の話でした。

彼女はすでに帰路のバスの中で強い睡魔に襲われていて、帰ってくるなり寝床で爆睡したといいます。その際に見た夢がびっくりするような夢で、
『相撲の若貴兄弟のうちの若ノ花(兄のほう)の顔に似たお坊さんが、懐に白と金の光りもの(布にくるまっているような何か)を抱えて現れ、おごそかに「まもなくお生まれになるぞ」と言った』そうです。
私はその話を聞いて、咄嗟にその御坊とは空海・弘法大師であり、お生まれになるものとは弥勒菩薩であろうと直感しました。
彼女は、そのお坊さんは(若貴兄弟のうちの)若ノ花みたいな顔で、がっしりした体格の背が高くない人物だったけど、ほんとに空海?と言いましたが、ではと、空海の肖像画をネットで探してきて見せると、「似てる」と言います。

 

「似てるという空海の肖像画」

さらに彼女は、現地で写真を何枚か撮ったが、中に巨大なオーブが写っている一枚があるので鑑定してほしいと言います。
見ると、それは金剛峰寺の大広間と持仏間を写したもので、オーブは加納元信の描いた群鶴のふすま絵の鶴一羽の頭上に現れていました。

大広間と持仏間

 

六角オーブの部分拡大


持仏間は、「本尊にお大師さまを奉安し、両側には歴代天皇御尊儀のお位牌や歴代座主のお位牌をおまつりしています。」とのことです。
持仏間の扉になる襖絵の手前にオーブはあるわけです。
しかも普通、オーブというと丸いたまゆらでしょう。ところがこの場合は六角形なのです。
私も変形オーブは生霊の一例ぐらいしか撮ったことがありません。
しかし、六角とは。主体が強い想念であれば、着物の形も出るかもしれませんね。とすれば高僧の姿か? それとも、六という数字を暗示しているのでしょうか。ならば六六六の弥勒(身六)ではなかろうか。
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ネット上の空海の絵はその当時描かれた最古の肖像画と目されていたことは、後日分かったことだった。さらに。
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私 は不思議現象があれば、こだわって見ることにしています。さらに重要なメッセージがあるかもしれないからです。見つけたならば、推理の連環に加えて行きま す。すると、それはおよそシンクロですから、連環の強化で築かれた魔法がいっそう強化することになるわけです。新神話という魔法は、少なくとも私の固有の 世界で良好な働きをすることになるわけですね。
五木乙女さんの交信メッセージも随時の状態把握に役立っていて、神話魔法の係り具合を確認できます。"宮崎"というのも不思議なシンクロです。五月乙女さんの随時の夢や経験談にも、はっと驚くことがあります。みなさんに感謝感激もいいとこなんですよ。 ⇒ 弥勒降臨推測のプロセス

さて、話を続けましょう。
釈迦の預言した弥勒が降臨する場所は、この世でどこよりも繁栄している鶏頭城というところで、それは日本ではないかと噂されています。発音的に、京都とも東京ともとれるとか。
いっぽう釈迦の弟子の摩訶迦葉は、弥勒の出現を待って、釈迦の養母の献じた金るの袈裟を手渡すためにその間、鶏足山で入定の状態で待機しているといいます。鳥の頭と足の呼応ですよ。これは紀元前の話。
いっぽう空海は、入定に際して、未来において弥勒菩薩の下生に合わせて復活すると宣言しています。

鶏頭城が日本ならば・・・こうして、摩訶迦葉は空海に比定され、鶏足山は高野山に比定されているわけなんです。
もしかしたら、カンナオビさんの夢に現れた僧が抱えていたのは、釈迦が弥勒に捧げる"金るの袈裟"だったかも知れませんし、あるいはすでにそれにくるまれた赤子の弥勒だったのかも知れませんね。
オーブも、空海自身か、もしくは生まれる弥勒のたまゆらだったのでしょうか。
鶴=トリ=鶏の頭上に出ていることが、鶏頭城を示しているかのようです。
ぜんぶ、謎掛け謎解き問題になっていること、お気づきになるかなあ。
鶏頭城の弥勒=身六(霊身は六)を示したか。
夢、写真のおかしな写り、偶然ではないメッセージ、こうしたものを通じて示される異界の出来事は、我々にとっては象徴として感得されるのが常です。とにかく、今この時期ゆえに、弥勒下生がいつ何時あってもおかしくないと思う次第です。
私はまだ憔悴感がすべてはぬぐえていません。たぶん彼女もそうでしょう。これを記事化して顕わし終えたとき、不調から解放されると信じ、取り組んでいるところです。早くしなくちゃ。
しかし、弥勒降臨を伝えるのに、しんどいのはないんじゃない?
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弥勒が鶏頭城に現れるといった話は、ネアンはほんらい知らなかったはずのことだった。
ネアンが弥勒降臨を知るための布石が、新神話の制作工程に入る以前から、周到に準備されていたのである。それを次に。
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もうひとつ、過去にあったシンクロについて語っておきましょう。上の知識はそこから多く得ているからです。みなさんにもきっと参考になるでしょう。
私はHPに掲載中の「古代日本謎の中東思想渡来考」の原著を「古代日本にカバラが来ていた」題で1995年に出版しています。

ところが、それにいくぶん感化を受けた著者(彩明日迦氏)によって、「弥勒降臨」という著書が1997年に出されています。私の著書から多く引用されていて、名古屋の旧友から盗作されているみたいだから、抗議したほうがいいと指摘を受けて、一冊購入したようなことでした。
見れば、私が別図書で引用した程度のことであり、典拠を表示する礼儀も守ってくれているので何も文句つけることはないように思いましたが、文章表現をまるごと使っている箇所がたくさんあるのはどうなんでしょうね。

い や、それよりもこの著書の内容が私の1999年末以降の新神話形成に大きく関わってくるとは、思ってもみなかったことでした。特に拙著引用部分に切り込ん でくる「かごめ歌」の解釈からは、大いに啓発され、人生がそのシナリオ展開に乗っかってしまう格好にさえなったのでした。これも不思議なシンクロと言えま す。(著者彩明日迦氏によれば、鶴と亀がすべる結果として火の鳥が生まれるという。2000年9月の移情閣でのイベントはまさにそれを暗示していた)
⇒ http://p.booklog.jp/book/97537
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つまり、翻ってこの著者もまたネアンにとっての重要なキーワード保持者だったのである。むろん顔も見たことはない。ただ間に介在するのは、時間と合 言葉なのである。解読のキーはそれぞれが保持していて、時間が来たらそれが自動解凍する。これは神一厘の仕組みでなくてなんとしよう。

こ れが狡猾な邪神の目をくらますために正神が仕組んだ神一厘の仕組みというものなのか。その原理を説いた出口王仁三郎の後継として動いている自分を意識せざ るを得ないネアンであった。しかし、大本教の信者でないことはもとより、経典もほとんど読んだことはない。ただ、キーワード保持者が片言に持ってくるもの を、ジクソーパズルのはめ絵のようにして統合していっただけのことだ。
こうして、鶴(鶏)の上に出た六角オーブは、弥勒となり、さらに関連的に、身六、すなわち、六の数を体現する可能性を有する神霊として、新神話に登録されることになったのである。

この六角オーブは、ネアンとカンナオビそれぞれに預託した神霊(山幸彦と豊玉姫)の交合によってできた神霊である。その形からして、出雲系国津神であるらしい。出雲系の神々はご神紋からして六角・亀甲紋である。

その顕れ方を空海が、母親(豊玉姫であるカンナオビ)に直接、受胎告知したというのが真相だ。

ちょうど、ネアンの祖母が、母をお腹に宿したとき、夢に出てきた高僧のお告げで、毘沙門さんの二十日に子が生まれる、と聞いたのと同じようなことである。キリストの母マリアにもそのような話がある。

さ て、カンナオビはそのような弥勒にことのほか思いを寄せる。わが子と思うゆえにいっそうだ。しかし、ネアンは一ヶ月前の、五月乙女にした乳母役任命のこと を忘れてはいない。どうやら、乳母に任せたのがウガヤフキアヘズという男神なら、この弥勒と同体と見るべきであろうと考えた。そうすれば、この世の成り行 きは、弥勒=ウガヤフキアヘズ=ニギハヤヒと、玉依姫の戦士たちのチームに任せて、自分たちはもっと子作りに精を出せると思った。このスケベエ。

カ ンナオビも初めはそれもよいかと思った。気の世界で行う男女の交合を、それまでにカンナオビと何度も果たしていて、そのたびに子供を作るためにという大目 的を持ってやっていた。カンナオビは、肉体の側でやるのではないから、大いに受精することを喜んだ。形而上世界で子供ができる。彼女は肉体の身で果たしえ なかった夢をここで果たそうとするかのように燃え、ネアンの精子を子宮のみでなく卵巣の中にまで行き渡らせた。ネアンは、それも可能とばかり、卵巣にまで ペニスを延ばして射精をおこなった。なぜなら、カンナオビは元来竜宮の種族なのだ。魚や亀や蛇、さらに龍といった種族の子供はみな卵生である。ネアンがそ の卵巣に精子をかければ、何千という卵が受精し、それが海に放たれる。それらすべて、ネアンが浦嶋つまり山幸として機能した際に、乙姫つまり豊玉姫との間 にできる子供の神々なのだ。
すると、その効果が実際に現れるようになった。

まず、六角オーブはカンナオビがスキューバダイビング中での撮影写真に、いくつも写り込んだ。しかも、露骨に彼女の股間にへばりつくものまで撮られた。そして、まるで親を慕う子のように、陸上のパーティー会場の家族同伴の宴会の席にも、出現したのである。
初 めはデジカメの問題かと疑ったりもしたが、フラッシュもたかれない中、依然として、六角のいびつな変形型を呈しながら多数写っていた。それをキタロウが UFO撮影の際にも、ビデオカメラに捉えるようになり、もうこの現象は超常的ではあれ日常的でしかなく、六角オーブと名づけていいと結論したのであった。

ネアンは、六角オーブに、出雲系の国津神の姿を見た思いがした。それはもう、紛れもない国津神のスタイルであり、もし彼が山幸の雛形なら、彼の親のニニギノミコトがしたある疑いへのわけも知る立場に置かれたことになる。

すなわち、
ニニギノミコトの妻の木の花の咲くや姫は、たった一晩で子供を妊み産気づいてしまった。それをニニギは、短時間に妊んだ子とは不義の子であり、天神の子ではないのではないかとの疑いを持ち、火をかけて燃焼下で産ませて真贋を占おうとしたのである。

これは非常に暗示的な話であり、神話解釈的には、短時間に作った子供とは、急発展する現代文明を示している。吉ならば天津神の子、凶ならば国津神の子といった具合に占うのであるが、古事記にはその判断基準は載らず、ただ天津神の子として、海幸山幸らが扱われているだけだ。

し かし、目の当たりにするのは、国津神の姿丸出しの六角オーブである。世代が変われば、あるいは解釈が変われば、別にどうということはない話になる。むし ろ、ネアンとしてみれば、親のニニギがした残酷な行為には従えないし、国津神シンパとなっているというのも、国津神こそが黄金時代を支えていた神々だから だ。

インベーダー邪神どもが外からやってきて、武力を使って居座っているだけなのに、どうしてそんな奴らのシンパでいられようか。主体は古事記の山幸ではなく、山幸の思いを動かす雛形のネアンなのだ。

それ以降、カンナオビはまたも惹かれるようにして出雲地方を探訪し、出雲系の神社を巡ったが、その際に撮られたデジカメ写真に、いくらも六角オーブが写り込んだ。

なぜ突然、惹かれるようにして出雲地方に旅をしたのか。彼女には高野山同様、出雲に関する予備知識はまったくなかったのだ。それが、彼女が言い出し元になってご主人をツアー旅に誘ったのである。

実は、後でしだいにわかることになるのだが、彼女の本体は奥津嶋姫であり、出雲大社の大国主命の奥様だったのだ。これは記紀ではわからない。ホツマツタエが真伝に準じている。

そして、ややあってのち、彼女はまだ若い命を落としたのである。すべて必要なこと、必要なキーワードのネアンへの伝授を急ぐように済ませることをして、彼女は神世に戻って行った。

その後、2013年5月11日にネアンはさらに決定的な夢を見る。式年遷宮翌朝未明の夢に、神世の出雲大社が出てきて、そこで大国主命と奥様の奥津嶋姫(お歯黒をしたカンナオビ)に出会ったのである。

出 雲系の神社はほぼ六角のご神紋を掲げている。オーブはそれに似ていた。特に、六角に「剣」の文字が入ったようなオーブが撮られた先が、そのご神紋に該当す る神社(多倍神社)だったりした。古代のシャーマンは、霊視ができたため御神体の形として把握し、神社のシンボルにしたのであろう。
丸型オーブなども、古代シャーマンにすれば、神の姿であり、それを造形した先が銅鏡であったとしてもおかしくはない。オーブの中身をよく見れば、三角縁神獣鏡などの銅鏡の背面のデザインによく似ていることに気づくだろう。

カンナオビが旅する行程で、およそ六角オーブが写り込み、彼女はその現象をたいせつに考えるようになった。それは当然のことだ。カメラの所有者であり、撮影主ということから、さらに霊体の産みの親だと分かったのだから。
ただ、その種族の性質として、卵生から孵化した子供は親の手を離れ、自活の道にただちに入っていく。しかし、親を恋しく思う子もいて、彼女が来たようなときには、傍に居つきたがったのだ。
その中の特別な存在として、弥勒も誕生した。六角オーブとしての顕現は、国津神を表わしている。生命系を重んじる神である。たとえ弥勒が凶事を先行させたとしても、いずれ吉事として生命系の発展をもたらすだろう。
そして、彼とともに生まれた神々は、兄の弥勒に従って、弥勒推進運動の担い手となるであろうことは紛れもなかった。

こ の新神話を書いている時点の人々は、自らの霊体に邪神邪霊を懸からせていても、まったく気づかないで行動している。彼らの考えは、外部によって支配されて いるようなものだ。利得ばかり追い求めるヤカラには、邪神が裏で胴元として資金提供しているのが丸分かりだ。世相を退廃させ絶望させようとするヤカラに は、権力や名声を与えて、行為を助長させているのが丸分かりだ。
そこで正神は、邪神追討の過程で、こうした憑依の下地を破壊するべく、邪神の側の、利得の吸い上げ工程に順じて、背徳の世界体制をひっくり返す行動に出る。
しかし、それが一気呵成であれば、多くの善人が先に潰されてしまう。それゆえ、ソフトランディングが試みられているのである。
その過程は実にゆるやかだ。個々人の心、意識の改まりから入っているからだ。つまり、邪神邪霊の憑依をリムーブして、正神が個々を指導するようになってきていると言える。

ま た、UFOもこの地球に起きる壮大な改革に加勢すべく、大型船が大隊そろえてやってくるという噂が広まった。それは日付を指定してやってくるとされていた から、その方面に関心ある人々、宇宙人や精神世界に興味する人々がこぞって期待していた。(マシューメッセージというのがそれである)
ネアンもその噂を知って、その頃にはUFOがよく写るに違いないと、たまたま指定された前日の夕方に撮影に出てしまい、買い物がてらという真剣味にやや欠ける部分はあったが、遠隔にUFOを録画できたのだった。


ネアンは、未来の地球が再び迷妄に囚われないために、宇宙人との交流が必須と考えていた。また、古事記の預言には、黄泉の国の今の世相が極まった先、最終戦争のようなことが起きると きに、桃の実UFOが空に満つるほどにしてやってきて、援助活動するという箇所がある。それを今から導入してソフトランディングの役に立たせ、新時代への 移行を円滑ならしめることができるのではないかとも思っていた。できるなら、自分にその橋掛けをさせてもらいたいものだと。そのような物語りも、昔作っていたのだ。

問題はその翌日だった。本命の日に、どこにも大型船はむろん小さいUFOも出なかったらしく、世の中はがっかりムードだった。それでも、Youtubeにあげてやった映像は、かなりいいカウント数となった。
(の ちにこの時のUFOはロズウェル事件で有名なグレータイプのUFOとわかった。どうも猜疑心ばかりが湧いてくる質なのが欠点なのだが、マシュー計画は、ど うやらグレーが哨戒にあたっていたため、実現できなかった可能性がある。またこの手のUFOは邪神側の意図で動いていて、のちの原発事故を綱渡り的に支え ることで、最も邪神好みの人心攪乱による終局計画に持って行かせようと仕組んでいる感がある。とにかく正神の出る幕を封じる役をしているように見える)
しかし、弥勒降臨の時代は、面白い話題が世界を駆け巡るものだ。UFOも、新時代への魁となるすぐれたステイタスなのである。


このころ、先に大国アメリカでは、民主党のオバマが大統領になり、日本にも民主党主導政権が誕生する。オバマは弥勒の一顕現であるらしかった。
理 由は、環境政策取り組み重視にそのステイタスを見ることができるからだ。また、人類みな平等のシンボル的存在であることもある。日本の総理大臣鳩山氏も、 この名からして、九の鳥、九鬼ゆかりの伝統を思わせた。周到な政策展開能力もまた正神ならではと評価できる。鳩山氏の夫人もまたUFOシンパで、魁となる 逸材であった。


2009年は、そうした正神勢力が地上に敷衍し展開していく時であった。環境保護を旗頭に、正義とモラルを推し進めようとする弥勒思潮として、草の根運動の形で末端から中央に向かって行進していこうとしていた。
こうして成ったのが、民主党圧倒的勝利であった。日本では始まっていた。オバマ登場とその演説に触発された人も多かった。何が人類にとって優先されるべき問題か、誰の目にもようやく明らかになって映ってきたのだ。
(と ころがその先駆け的動きも邪神によって封じられてしまうことになる。時間軸を自由に移動できる仕組みを持った者たちには、いろんな操作が可能になるのだ。 こんな不正ばかりをオンにする奇跡を連ねられれば、正義感ある人心は荒廃させられてしまう。そこまで邪神たちは反則に手を染めている。そこに梵天はどう介 入できるのかが、今は問われている)


ネアン奥山の寧庵に移る

ネアンは、新神話の成り行きを見届ける者としても機能しなくてはならない。それが新神話に規定されたモニターとし ての役割である。お上から、もうこれまででよいと、召還命令が出るまでは、観測を続けねばならない。それを新神話に記載するしないは自由ながら、巫女たち の魂を鼓舞するためにも、彼は最後の時まで書き続けようと思う。
彼は、すでに久しく仕事をしておらず、蓄えが底を尽きたら、命もそこまでと見切る こととして、大胆なことを敢行した。山奥の草庵に移り住むのである。そこで、ささやかな生活をしながら、世の中の観測をする。時として酒も飲む。それは、 彼が若い頃から理想としていた陶淵明のような生活スタイルだった。
カンナオビは、彼のそのような姿をかねてより想像していた。仙境の仙人がふさわしいと思っていた。それは海に惹かれるカンナオビが竜宮の側で亀、ネアンが蓬莱山の側で鶴という対照でもあった。
現界においては、嗜好するところも環境嗜好も異なり、終生同居することはなかろう。それぞれにふさわしい協力者とともにあるべきであった。ネアンは移転作業と、移転先の山奥での倉庫建設作業に没頭して、寂寥感を癒そうとした。

そんなとき、不思議なことに、多種多彩な昆虫が、彼をびっくりさせるべく現れたり、まるで親密感を漂わせながら現れた。
最初はムカデだったた。6月、噂には聞いていたため、ムカデなどの忌避剤を購入し、家の周りに散布していたのだが、どんなところにでも入ってくると言われていたとおり、最初は20cmクラスの大型ムカデがキッチンの敷物の上をザザザと音を立てて這っていた。
ウ ヒャーっと、傍に置いていた殺虫スプレーで追い回して殺した。またすぐに、物音がカサコソすると見やれば、やや小ぶりのムカデ。これもスプレーで殺す。そ れからは連日のように、二匹ずつ現れるようだったから、これではたまらんと、ネットで調べて、家の中の外からの進入経路らいし箇所のことごとくをテープで 塞いだのだった。
それで、ほぼ最後になるムカデ二匹をスプレーで殺した後、ビニール袋に番(つがい)として入れて、神棚に祀った。こうして、ムカデの出現はまったくと言っていいほどなくなった。
そ の後、10cmほどの大きなゲジが出た。しかも、寝室の壁に居座っていた。どこからこんな幅広足長のものが入ったかと思うほど。このサイズが入るなら、ム カデならいくらでも入ってこように、不思議に思いながら、そのゲジも神棚に祀った。出現したゲジは都合2匹だった。ムカデは都合8匹だった。
いつも彼らを殺さざるを得ないときは(まあムカデとゲジと蚊は必ずだが)、その姿ゆえ殺す不憫さを思いながら、心で手厚く弔ったわけだった。

そ れからニホンミツバチが、ネアンが外でたびたび小用するものだから、その落ちたところで吸引するようになった。まさか糖尿病になったかと検査紙で調べた が、どれも陰性。これはもしかすると、ネアン独特の気のパワーのエキスを採取しているのではないかと考えた。そのミツバチのさまの愛らしいこと。まるで、 自分がミツバチの親になって養っているような感覚になった。そして、ハルン(尿)の池に遊ぶわらべか、などと一首吟じたりしているのだ。それも、ネアンが その場に立つと、すぐにどこかから一匹がやってきて、いただきます、と言う様にして、お尻をぴくぴくさせながら飲んでいる。そして、仲間に知らせるべく 去っていく。その半時間後には、5,6匹に群がったハルンの乾池を見るようなことだった。ネアンは、心の中から湧き出る泉のごとき気のパワーで、歓待し た。

ところが、あるときを境に、その数が減り、やがて最後の一匹も、姿をみせなくなった。調べれば、分封の季節ではあった。しかしこんな に、一気に人気が陰るものかと、その裏でなにがあったか心配になった。スズメバチが、ミツバチの集まりの上で旋回していたこともしばしばだったから、巣が 襲われたとか。あるいはとうとうハルンの成分がばれて、最初のガイドミツバチともども追放されたとか。ネアン自身がミツバチ社会の敵だとみなされたとか。 そう思うと、寂しさが突き上げてきた。
そんなとき、毎晩入れ替わり立ち代りして部屋のガラス窓の向こうにくっつく蛾たちは、たとえ翌朝には力尽き落ちて、床を汚すことになるものだとしても、いっときの妖艶さでお腹を見せて、パソコンで疲れたネアンの目を喜ばせた。
あ る夜から数日間の夜、その一行に小さなカマキリが加わって、カマキリは大小さまざまな蛾を捕食しようとするようなしぐさをしながら追いかけるも、まったく そのようなことはなく、蛾もまた逃げるでもなく、ちょっと体をかわす程度で、鬼ごっこダンスをみんなでやっているような、愛嬌ある集いのシーンをネアンの 前に繰り広げたりもした。なんだ、捕食などほんとうはない世界のはずだったんだ、と思うネアンであった。そこは半分、楽園状態だったのだ。

また、夏の暑い日、そんなときには夜でも家の中は、屋根の輻射熱が残っていて、暑苦しくて、できたばかりの倉庫の屋上ででも寝たくなる。ネアンは、屋上にさらに天蓋として防水シートをかけて、蚊帳を吊り、布団を敷いて寝ることにした。
初 めは蛍光スタンドをつけるから、蛾がめがけて音もなく飛んでくる。ところが、日中鳴いていたセミのひぐらしかつくつくぼうしが、みんな鳴き止む夜にも、個 性的なのが一匹はいて、「コー」と鳴きながら、蛍光スタンドにやってきたのだ。これがまた不思議なことに、ネアンの消灯しようとする手に触れたりして、 「コー」と鳴いて向こうへ行ったかと思うと、いっそう近くに寄っていて、真っ暗にしてからしばらくして目を開けると、ネアンのすぐ真上20cmのところの 蚊帳の向こうに泊まって、妖艶なお腹を見せて眠っているのだ。寝息がかかる距離とはこのことだろう。
やがてその夜は雨が降り出し、しかも強く降るようになって、いよいよ天蓋のちいさな亀裂から雨が漏れてきて、布団の上のネアンの足にかかって、びっくりして起きて、急いで蚊帳や布団をたたんで持って入ったのだった。あのセミはそんな騒ぎの中、どこかに逃げ去っていた。

ネアンは、昆虫がこんなに可愛いものとは思いもしなかったのだった。
まるで、ネアンにみんな挨拶にやってきている、いつの世かでともに仲良くした友達だったような気がした。思えば、ムカデもゲジもそうだ。あんなに、突然現れたことを申し訳なさそうにしてじっと見つめていて、おとなしく討たれてくれた昆虫もない。
お りしも、パソコンで藤澤ノリマサの、クラッシックをベースにしたポップオペラ曲を聞き知ることとなり、その歌詞に謡い込まれた神界の天使のメッセージを聞 き取るネアンであった。そこから導かれる世界観は、このとりまく世界すべてが、愛すべき自分なのだということ。手に取るもの、目に触れるもの、感じ取れる もののすべてだ。
カンナオビの異界交信では、ノリマサの四曲の中に8人の天使が立ち現れているという。
ネアンは、そこに6人までは見た気がした。七天使が来ているかな、と思ったわけだったが、八天使。ネアンは自分がルシファーの雛形でもあること。もしかしたら、神界ではすでに七天使とルシファーがともに仲良くやっているのだろうと思えた。

そんなまだ暑い夏の日だった。
外 でつくつくぼうしが鳴く音に合わせるようにして、その鳴く音とは似ているもののまたトーンの異なる何かの生き物の声のようでもあるような「ふにゃふにゃ」 という音が、ネアンの寝室の壁から聞こえるようになった。まるで、暑さがきついもので、物悲しいようにも聞こえる。懇願するような、お腹が減ってでもいる ような、力の乏しい生き物の鳴き声のようであった。それが壁の中からだと分かるのに、時間はかからなかった。壁の裏側に回っても、その壁からなのだ。こん な音は、都会暮らしばかりだったネアンは聞いたことがない。数日それは続いた。日中だけに起きる怪現象。ネットでその音と発生環境を映像配信した。
そんなある日の朝、ネアンは外へ出ようとベランダからの階段を下り切ったとき、家の下に積んでいたダンボール箱から突然猫が顔を出し、ネアンと視線が合うや、そこから逃げ出した。そのとき生まれたての複数の子猫の不安がって鳴く声がした。
そうか、ここでお産をしたか。段ボール箱はちょうど好適な環境だったらしい。ネアンの存在さえなければのことだが。
母 猫は草むらに身を隠してしまった。子猫は三匹いて、箱の隅に積み上がっていた。これはいかんと、用をすぐすませて家に入った。母猫はまた戻ると、ネットで はなっていた。その日はなるべく家に篭るとしても、何度も出入りするうち、子猫を置き去りにする恐れがあったため、ネアンは子猫用のミルクと母猫誘致のた めの成猫用えさを買いに出た。ところが、母猫は、生むべき場所でなかったと悟ったか、子猫を一匹ずつ持ち去っていた。二匹までは速いペースでいなくなっ た。ところがあと一匹、いちばん小さい子猫が暗くなりかけても、残されたままだった。
ネアンは、もう母猫は来ないだろうと考え、子猫を飼うべく、家に連れて入った。
それは小さかった。母猫を探す子猫は、まだ見えないながらも、手足を伸ばして、感触を探っていた。ネアンは、掌にすっぽり収まる子猫が、なおも探そうともがくものの対象になりたかった。
「お前の母ちゃんやでー」と言いながら、買ってきたミルクを温めて飲ませようとした。
しかし、子猫用の哺乳瓶から漏れ出すであろうミルク臭は、子猫の興味を引かなかった。無理に飲ませようとしても、口を閉じたまま顔を背けてしまう。こんなことを何度か繰り返した後、ようやく飲んでもらうことに成功するも、それからの自信がないネアンだった。

子猫の名は「たまろ」。オス猫であった。それから、ネアンは夜も数時間おきに起きてミルクやりと排泄をさせた。たまろは、ベッドに入ったネアンの裸の胸の上で、夜もごぞごぞ動き回った。ネアンはもう愛情の塊のようにしてそこにいた。
しかし、二日目には眠ることが多くなり、それも熟睡して体温低下していたので、とうとう動物病院に行く。すると、保温をしっかりして、排泄ミルクやりのたゆまぬ介護の努力があってこそ育てられると、もっと適切な哺乳瓶をもらったのだった。
し かしついに夜もたまろは熟睡してしまうばかり。ミルクやりのために起こしてやるも、また眠るといったふうだった。そしてカイロで保温した中で熟睡でもいい と寝かせておいた朝、自分から起き出して、キュイーンと高い声で鳴くので、おお、それではと排泄にかかる。そしてミルクやりしようとしたとき、三度 キュィーンを連発した。その大きく開いた口に哺乳しようとしたとき、あくびを何度も連発。そのときミルクを含ませたところで、ぐったりと力尽きてしまった のだった。
お腹に拍動が見えていたものが、もう何もなかった。心臓が止まったことを悟ったネアンは、お腹を押して回復させようとするも、無駄だった。
亡 き母に見た光景と同じだった。母の時には、周りに医者や看護婦が取り巻いていたため、泣くこともできなかったが、このときは泣いて叫んだ。掌の中で、たま ろは息を引き取った。お腹がけっこう大きくなっていたようだったのに、このときは初めのときより痩せて見えた。悲しかった。空しかった。しかし、たまろの 印象と愛は、永遠に心に刻み付けられた。そうか。そのために彼はやってきたのだ。

不思議なことに、連日化しそうだった「ふにゃふにゃ」音は、たまろがいる間、一度も起きなかったのである。あれは霊体で、たまろになってやってきたのか、それともたまろがいる間は、出てこれなかったのか。再び「ふにゃふにゃ」が、5日後にし出したのである。
し かし、今度は、壁からの音だったものが、次の日には隣室台所の冷凍庫の裏に移動してしまったのだ。その翌日には、冷凍庫裏の、床下で音がしているらしいこ とが判明。それなら家の下がどうなっているか分かるはずと、行ってみれば、なんとそこには乾燥しているはずてあるにもかかわらず、大きなティンパニー型の きのこが佇立していた。
もうこうなったら、メルヘンである。ネアンは、どんな不思議でもたいがい遭遇したから、これもまたよしと思った。
そして、次の日、その外側で組み立て作業するときに、あの「ふにゃふにゃ」音がすぐ傍で聞こえた。見ると、一匹のアブがネアンの周りを飛び回っているのである。
これが音源? 家の中にアブが飛び回ったことなどないのだが。

そ こでネアンは気がついた。これはあるタイプの宇宙人だと。そのことは古事記に載っている。スクナビコナの神という表現で出くる。日虫の皮を被った昆虫のよ うな姿の宇宙人だったらしい。大昔の黄金時代には、この神が共同で国造りに携わったという。時の為政神はオオクニヌシ。去っていくときは、オオクニヌシに すごく惜しまれたとされている。
そもそも、ネアンはこの山上の庵を、宇宙人交流基地にしたいという要望で、移り住んでいることをまったく忘れていた。それは、ネアンと初めて名づけたきっかけになる物語を書いていたことに遡る。1996年頃の作品で、「天上人の宴」という物語だ。 ネアンが山上に館を構えようとしたとき、宇宙人がそこをオアシスにしてくれと言ってきたことにはじまる10章完結話である。最後は、ネアンが宇宙文明と地 球を出会わせる役目を果たしたところで話は終わる。誇らしいほどまとまった体裁をしていたのだ。それを今、いずれ必ず必要になるからと、同じパターンにす べく、この山奥に移って、小さいながらも望観台も設けていた。そんなときに、あの物語の敷地の規模からすると、ちょうど比例するぐらいのサイズで現れたの が、小さな宇宙人、スクナビコナ星人だったというわけだ。

そのような折も折り、ネットで五木乙女方式の異界交信を一年にも渡って続けてい たレギュラー女性が、公開していた彼女自身の日記において、どう見てもSOSのようなサインが出ているのを、たまたま見に行っていたネアンは見て取った。 そして躊躇せず、困ってるのかと問うたのだ。すると、まさにそうだった。ネアンは、また躊躇することなく、適切と思われる処置をした。その女性は、とても 喜んだ。喜びの返事が、ふと見ると、子供の返事のようだった。
この人の日記からにじみ出る人の良さ、物事へのやんわりした解釈や理解は、ネアンの心を以前から捉えていた。はじめ、カンナオビがこの人の日記の在り処を教えたのだ。それが今、彼の興味を引き続けている。
そ して、ネアンのかつて出版した本の残りを、応募者全員に無料配布するというときに、縁のあった人でもあった。そのときに本の裏書サインに短歌を添えた。そ れが、模範たるべき人はあなただという主旨のことを書き送った相手でもあった。むろんそのときは、まさか窮状にあるとはまったく思ってもいなかったのであ る。


その後、メール文のやり取りに書かれるこの女性の文は、まさに男の子を思わせた。そしてやがて、男の子でしかも、宇宙人としての前世を持つ 人格が明らかになった。彼女は複合霊という魂をしていたのだ。これは、元々霊魂がいくらでも重合や複合ができる資質を持つことによる。この世の個体として の人間は、そんなことができるものではない。それをしたくてセックスで模倣するのが関の山だ。しかし、霊魂はボーズ粒子のような性質なもので、いくらでも 重ね合わせが利くのだ。気に入った者同士で、パワーアップを図るために、霊的に結合したりする。それを霊的結婚と言う向きもあるが、男女でなくてはならな い決まりはない。霊には二元性や二極性はないからだ。

前にはカンナオビに脱魂してきたイナンナの白蛇が加わることがあった。それゆえ、カンナオビにおいて役柄の兼務ということもあり得るのである
重合や複合した霊は、元の性質や素質を併せ持つことになる。このとき、この世での作用をする際に、考えが違っていれば、足を引き合ったりもする。同じ方向を向けば、二倍どころではない牽引力を発揮するようなことになるのだ。
この女性の場合、どうやら足を引き合っている感があった。

ネアンはカンナオビと相談する。といっても、彼女に直接言わずとも、ネアンの中にいる白龍に相談するのだ。すると、カンナオビはただちに自らの夢見として、メールで報告をしてきた。
オ ムニバス形式の夢を見た。一つ目は、少年の抱えた問題を、時空を遡って探して解決したというもの。二つ目は、幽閉された塔の上で、脱け出したいとつぶやき ながら、今にも飛び降りそうになる夫人を、カンナオビは下に回って、そのまま安心して飛び降りるよう指示して、無事受け止めたというもの。
三つ目は、カンナオビとネアンがコンビとなった前世のよすがのような夢。すなわち、忠実な巫女と巫女のことをよく知り尽くした神官が出てくるというもの。
つまり、カンナオビは白龍として働いたのだ。
それを見たネアンは、これは今、この女性の救済をイデアの領域で行ってきたものだと悟った。
ところが、カンナオビは、この自分のことを夢に見たのだと言う。カンナオビは、そこまで塔の中に幽閉されているというトラウマの観念を持っていたのだ。(そのことは後にわかることになる。そして、ネアンを大いに反省させるのである。無理解であったと)

しかし、当時のネアンは、新来の女性のユニークさのほうに興味した。
そこでまた不思議なことが起きた。最初の適切処置をとったときから、あの「ふにゃふにゃ」がまたも収まったのだ。ネアンがよそに意識を振り向けたから収まったというのではない。それなら、いくらでもその機会はあったのに、ふにゃふにゃは起きたのだから。
要 は、この女性に起因していたのだ。もと宇宙人である男の子の部分は、女性がいままさに窮地であることを伝えようと、どこかでネアンが宇宙人を求めていると いう話を知り、直接ネアンの庵にやってきていたのだ。彼は、化身に慣れた羽虫にいろいろと変化して、ネアンの受け入れがどうであるか調べていたのだ。その 結果、たとえ身は殺虫スプレーで殺されても、その後の温情がどうであるかを探っていたのだ。

物質的には一時的にも救うことができたもの の、問題はその裏側にあった。それを解決せねば、また同じことになる。しかし、聞いてみれば、まだしも大丈夫なケースだった。問題は、本人が勇気が出せる かどうかだった。解決法を示しても、勇気が萎えればまた元に戻る。この女性が精神的に困苦するときは、ネアンの家では、蚊が湧いた。そして、しこたま噛ま れて、足も背中もむきだしのところは、赤班だらけになった。これで具合が分かるというのも、ありがたいようで、快くないものだ。密閉しているはずの寝室兼 書斎に、殺せど殺せど、順次立ち現れてくる蚊は、その晩だけで十匹を数えた。どこからやってくるのかわからないが、出てくるのだから仕方がない。ついに、 女性の名を呼び捨てにして、「俺は蚊は大嫌いじゃ」と唸ったりもした。
しかし、それで対処を速やかにとることにもなり、直接電話なども用いたのだ。
そしてようやく、解決となった。

ネ アンは、女性の中に複合する男の子の良いところを引き出そうと思った。ここまで現象化できる霊的素質も持ち合わせている。しかも、元は宇宙人。地球にやっ てきたのは、地球人の生き方を学びたいが一心だった。ところが、初めての地球人体験に、カルチャーショックを受けて、潜在意識の空き地に閉じ篭ってしまっ たのだ。そのままでは、彼は負けてしまう。現実に立ち向かってはじめて、地球人として育つ。でなければ、母体の死とともに、彼は意気消沈して自国星に帰ら ねばならなくなる。

ちょうど、ネアンがみなより早く亡きあとは、空座となる。四神獣相揃うということからすれば、この世でカナメになるところが抜けてはなるまい。ならば、この子を朱雀の後釜に据えようと思ったのだった。
そうすれば、彼は新神話上で、ネアンの息子になる。朱雀の子だから雛鳥だ。
問題の解決を見計らって、ネアンはこの子にマメビコナと名づけ、さっそく飛行訓練を開始したのだった。

(後の13章で、すなわち2013年になってネアンは自ら「天の菩日」の雛形でもあることを知り、マメビコナを自らの子・天の雛鳥(建比良鳥)として育てていたことがわかった。これも新神話が出してきたシンクロであったことがわかることになる)

この直前に、この女性は思いついたようにして、アインシュタイン博士のことを異界質問していた。おりしも、2009年9月のお彼岸の最中だったから、アインシュタイン博士は、この呼び出しに素直に応じられ、異界の回答チームとともに、回答に当たられたのだった。
このときの回答がまたすごいものだった。博士が臨終の間際まで抱えていた諸問題の回答が示されていた。それは、臨終の際立ち会った看護婦が、言葉の壁で理解できなかった内容そのものであったのだ。
博士は、きっと元宇宙人の彼にいろいろ訪ねたいことがあったのかも知れない。そうでなくても、博士の人間味と愛情の深さは、万民に向けられたことだろうが。
そして、飛行訓練の夜の夢見のとき、ネアンの夢のイメージの中に、アインシュタイン博士が二羽の朱雀と二頭の白龍が上空を飛ぶ様を、高台の芝生に立って、数人の人影とともに見上げている姿が映っていた。その数人の人影は、この女性の異界交信チームに違いなかった。
そして、彼らはこの神獣たちの飛行を、交信回答において「芸術」であると評したのである。
さらに驚くべきシンクロは続いた。もうこの女性と複合する男の子を合わせてマメビコナと呼ぼう。マメビコナは、自らのしたその年の3月度の異界交信の中に、鳥との縁について回答のあったことを思い出して報告してきた。
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【鳥】のシンクロもありました
3月の分Q:私の運命の道の友は?漢字一文字で。
       ⇒a 鳥
>613ーQ:私は地球人出身ですか 宇宙銀河星出身ですか
       ⇒a ひな出荷
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そ の縁が明確になるのはこの交信の6ヶ月後だったのである。これにはネアンも大感激だった。異界ではすでに定められたこととしてレコードは存在していたの だ。異界はけっこうそうした(過去現在未来を同格に扱う)秘密は知られないようにしているはずだった。しかし、ネアンたち新神話一家に対しては、特別な応 援をしてくれているのだ。あるいは、ここに博士が加わって、人間味あるユーモアとはこういうものだと教え示してくれたのかもしれない。ネアンとマメビコナ は異界の計らいに感謝を捧げた。
以後、マメビコナの異界交信には、博士を指名する内容が含まれるようになった。

 

(この記事部分は2009年のものである。ところが2014年になって、ナスカに今まで未発見だった地上絵が忽然として現れ、発見された。それはネアンたちが夢見で飛行訓練する丘陵地と寸分たがわぬほどに同じ光景であった。まさにその丘陵にアインシュタイン博士たちがいて、二羽の鳥が飛行する様を眺めていたのである。異界の交信チームが時を超えてそこに描き残してくれたもののようだった。同時にナスカに二匹の蛇の図柄も新発見されている。これは同時に飛んでいた二頭の白龍の姿ではないのか)



ネ アンは、すべてが新神話のシナリオにしたがって自然に立ち現れてきていることを喜んだ。新神話の出演者は、何気取ることなしに、自然のままでいて、その役 割を遂行していくのである。こんな楽なことはない。しかし、ふと行動するそのことが、人生上だけでなく、歴史上にも意味を持ってくるのだ。そこに拘泥や罪 の意識や自信喪失などを生じさせないこと、それが使命を円滑ならしめる。だからこそ、サニワのネアンがいて、関係する主要巫女たちのコンディションを チェックしなくてはならない。

さて、ネアンにはもうひとつまとめておきたいことがあった。それは、彼が虚空に質問を投げかけるや、ただち に回答が閃くことにあった。昔からそうだった。この頃にもたまに掲示板上で質問があれば、それを見て即座に閃いて、解答をつけるのが常であったが、そのよ うなとき、レギュラー的に書き込む人の中に、よそで得てきた知識について、こちらではどう思うか、というような方法で尋ねてくるご夫人がいた。
その夫人は、精神世界に興味し、勉強しながら修行もしたいと考えていて、修行の方法についても知りたく思っていた。そのようなテーマで質問を重ねてきていたのだ。
ネ アンは、とても喜んだ。こうした形で書かされることによって、そのテーマにおける自分の考え方を公開できるからである。いつもなら、自問自答で終わって、 いつのまにか記憶から抜け去っている。そして、理解の泉の中にそのまま沈んで、次に何の拍子かで取り出さない限り、浮かんでこない。それがこうした質疑応 答の中で、一連の知識体系としてまとまっていくような気がしたのだ。
その夫人はまだいろいろな知識をミックス的に詰め込んでいる最中で、その知識 間のリンクがうまくいっていないのだ。そのため、自分の理解を確実にすべく、ネアンの解釈を待つようになった。ネアンは、たとえ自分の知らない話でも、自 分にも必要だから、彼女が知らせに来ているわけだから、調べる手間をとってでも解答しようとした。キーワードを持ってくる神話協力者はこんな形でもやって くるのだから。

ネアンはなるべく分かりやすくを心がけたが、夫人はよそとの用語の違いなどの壁に立ち止まりを繰り返した。元々熱心な研修 者なのである。立ち止まられると、ネアンも立ち止まる。のんびりした時間が、間には流れていた。夫人の名は、タカムナ。その名のとおり、まっすぐ伸びるよ うに真理を求めていた。
ネアンは、タカムナにもいずれ必要な知識のほうから好んでやってくるようになるに違いないと思った。叩けよさらば開かれん、である。扉が開いてしまえば、あとは順風が吹くだけである。それまで、彼女にいつでも対応しようと思った。

 


うちの喜び

ネアンの新居は山奥の傾斜地にあるといっても、春はわらびの宝庫で、夏はきのこの(食べられるかどうかは別として)自生地であった。椎の実は10cm以上に堆積する枯葉の中に落ちていた。簡単な山の幸はそのままで手に入りそうだった。
しかし、土地は木々がうっそうと生い茂り、ここを農地にするには、業者を入れて整地する以外にないようだった。それを彼はしたくない。金をかけたくない。先住的生き物を迫害したくない。木々の豊富なのはいい。ただ必要な造作にとって必要な場所が活用できたらいい。
こ のため、彼は家の南側に並行するように望観台兼倉庫を作った。資材を自分で買い揃え、自分ひとりで建築した。集水塔含めて屋上13畳。倉庫は10畳といっ た具合だった。これを見た屋根職人などのいくつかの仕事をマルチで手がける旧知の庄助は驚いた。たったひとりで、よくやったね、と。ただ雨漏りがどうして もというので、そのアドバイスと資材購入に立ち会って、彼は帰った。そして形ができたわけだった。
ネアンは、並行して屋上にピーマンやトマト、小松菜などを植え、いい収穫ができた。
さて、とりわけ不思議だったのは、すでにいくらか書いているように、生き物の不思議であった。
ここで並べておこう。

[猫、河童、ネズミ] 

子猫が亡くなってからも、猫のえさはお水とともに、中くらいのディッシュ皿に入れて、猫がお産した近くに、毎朝並べていた。
すると昼のうちに、えさのほうは皿の底がわずかに見えるくらいまで食べられていることが常になった。
子猫亡き後の当初来ていたのはあの母猫のようだったが、そのうち三度ばかり目撃したのは、茶色と黒の二色をした大型の猫だった。ベランダの階段の上から見ると、さささっと逃げてしまう。
三 度目に下に降りると、敷地の入り口の階段の上で座って、私のほうを見ていた。その目つきはどこかで見たことのある、座った目をしていた。そう。伏儀神農神 の掛け軸の絵。伏儀神農神は猫耳で、私がこの猫に見た二色よりは色あせて描かれているが、まあ似ている。ただ、この猫のほうは、頭は禿げていない。この神 の若い頃を髣髴とはさせた。とにかく、その目と目が合った対面以来、その猫が来ているかどうかは、目撃していないので分からない。
その間、何が来て食べているのか分からないわけだ。そして、翌朝になると、深夜のうちにやはり何物かが来て食べているのだろう、初めのころは、少し残ったままで置かれ、中には赤い小さい蟻が群がっていた。
いわゆる、これが猫別けというゆえんの食べ方だったのだろう。
と ころが後には、朝になると完全に皿の中がきれいになっているのだ。細かいくずまで舐め取って、乾いた状態になった様は、まるで洗って置かれてあるように思 えるほどだった。蟻一匹入っていない。これは果たして猫が食べたのか? 猫別けしないエコで食事マナーのある、例外的な腹ペコ猫でもいるのだろうか。それ が毎日のことになっていた。
ネアンはそこで想う。ちょうどこの庵は宇宙人交流基地としようと思っていたわけで、これは縁の下の異界に住み着いた河童型宇宙人が食べたに違いないと。
と いうのも、家の下のどこかから、しばしば、ボコッ、ボコッと音がするからだ。つまり、どろっとした沼から立ち昇るあぶくの音。これはあの「ふにゃふにゃ」 がしなくなってからも、必ずしていた。しかし、家の下は乾燥していて、沼などはない。が、目に見えないだけで、異界がこの世と重なるように存在していて、 彼らはここをアザーズとして過ごしているようなのだ。
沼と池の違いは何? それは河童がいるかいないかでしょ。 なるほど、ということは、これは河童だと。そう規定することにした。

なんと言う発想の単純さか。ところが、これが魔法の世界の導入口になっている。神話はメルヘン。新神話もメルヘンなのだ。異界に説明するのに、地上次元のことばかりでは、通じないのである。
彼はすでに、河童という種類の宇宙人と、この家の上下で棲み分けているのであった。
ネ アンは、どうやら住み着いた宇宙人(宇宙生物)に食事を運んでいる。猫や河童、その他に対して。ほぼ一定量しか与えていないが、それでもよしとして、ここ の生態系の秩序は維持されているようだった。要は、心なのだ。宇宙人といえども、歓待されていると思えば、好意で応えるものである。
ベランダの外 とは、下に何センチかの隙間を空けている(防虫網はフリーに垂らしていた)扉なのに、中に置いたむき出しの芋などがネズミにかじられていたこともない。土 地にいくつもの小動物が掘ったような穴があって、野鼠や地鼠はそこにいるだろうし、家の天井にも住み着いていたりしたのに、食物が荒らされたことは一度も なかった。
そして、もうひとつ不思議なのは、子猫のたまろの墓が家の下の物置の土地の通路に、簡単に材木の端切れで作って置いてあるだけなのだ が、倒されたことが一度もなかった。それはちょこ置きなのだ。そこに二週間ほどの間、ミルクを皿に入れて供えていた。それが誰かによって飲まれて空っぽ だったことが一度だけあったが、墓には何の乱れもなかったのだ。
こうやって、人間の形をした妖怪ネアンと、彼ら生き物たち相互の間には、何言わずとも分かる暗黙の秩序と、立場の尊重が維持されていたのである。

[ミツバチ、アブ、蛾、セミ、アリ]

かつて愛嬌をふりまいてくれたニホンミツバチがいったんまったくいなくなり、彼がブログで特攻隊出撃を命じたゆえかとネアンは猛省したわけであった。新神話の主人が指令することはすぐ実現してしまうから、よほどの熟考が要るのだ。
そ の後、一匹のミツバチが屋上に現れた。ネアンがそこに出て何かしようとすると、どこからかやってきて、彼目指して突進してくるのである。初めは、ミツバチ の再登場に、ネアンもうれしくて、おおどうだったと、歓迎しようとしたのだが、ミツバチは旋回して、彼の服に停まろうとした。
彼は、あのときの復讐として、刺そうとしてるのかと、逃げて入った。そしてまた出ると、今度も突進してくる。それも前よりいらだっているようで、ぶんぶんやってくる。ここでまた逃げ帰る。そんなことを何度も、その一日はした。
その後やってきたミツバチは、また以前のように、愛らしいしぐさで、またとんちんかんな場所に止まっては、えさ探しのようなことをした。屋上に置いたプランターの土の上に止まって、お尻をぷりぷりさせながら、ミネラル補給のようなことをしていた。
ネアンには、彼らが姿を再び見せて、喜ばせてくれているように思えた。
アブは羽音のするほどのものは大型以外にはいなかったが、小型アブでも、あの「ふにゃふにゃ」音そっくりの羽音をさせるアブが出てきた。しかし、家の中の異音を発生させた壁の中にも冷凍庫の裏にも飼っていたりはしない。
そこで、これがもし河童と並んで出てきた宇宙人の種族なら、それは古事記に書かれるスクナビコナのことではないかと思ったのだ。スクナビコナは、日虫の皮をまとい、背丈は蛾ほどに小さい。日の光を好む昼好性の羽虫のことである。ミツバチ、アブ、セミ、蛾などはそれだ。
セミにも、ネアンになつくようにやってきたものもいた。蛾もそうであった。
古 事記の同じ段に、タニグクという河童の種族が出てくる。そしてそこには、足は歩かないが天下のことはことごとく知っているクエビコという老境の賢者も出て くる。ネアンは古事記の解釈本を出そうとするとき、山田クエビコというペンネームにしようと思っていた。ところが、その名前をすでに使った古事記研究家が いて、彼は先を越されたと、じだんだふんだことがあるのだ。それはもう三十年も前のことだった。クエビコとは今に言う山田のソホドという者なりと古事記に は書かれる。これは山田の案山子のこと。まさに自分そのものだ、今の境涯を言い当てて十二分であるであると思った。
なんとのどかで鄙びた宇宙人との交流時代があったことか。古事記はその辺のことも語っていたのだ。
と、どうだ。ネアンの家の周りは、すでに宇宙人集落のようではないか。いずれやってくる、新時代の宇宙交流の土台作りをいま開始しているところであると思った。

[ムカデ、ゲジ、蚊、ノミ、ダニ]

昼好性の虫ばかりいるわけではない。
ネ アンがこの庵に越してきて、最初に面会したのはムカデだった。それは事前に聞き知ったヤバさから、殺虫剤の犠牲になった。しかし、ムカデはたえずおとなし かった。対面すると、ムカデは止まってじっとしてるのだ。だから、見つけしだい殺すのは簡単だった。しかし、それもしだいにかわいそうになる。予防が肝心 と、家の隙間という隙間をテープで塞いで、無益な殺生をやめたのだった。そんなとき、大きなゲジが侵入していたりした。いったいどこから?
この原因は、誰かがゲジに化身したというのが真相だったのだ。つまり、テレポート。
次に蚊であるが、これも自然の蚊と、化身の蚊があって、後者のほうは、殺しても殺しても、密閉しているはずの部屋から湧き出し、一晩で十匹を数えたりもした。これもテレポートと言える。
さ て、だれの化身あろう。スクナビコナ星人なのである。この宇宙人が、どの虫の皮を被ってくるかは、いろいろなのだ。偵察や採取のときは俊敏なアブになった り、見学のときは、昼間ではハチやセミ、夜間は蛾や蚊として現れる。たとえこの庵付近に住んでいたとしても、やはり異界が本拠である。そこから無難な自然 と調和した衣を着てやってくるというわけだ。
かつてUFO撮影家キタロウやヒロシが撮影したアブなどの羽虫に長く鋭い針が写っていることについて、虫型UFOが存在すると言ったものである。金属物体というのもあるにはある。それは偵察UFOだ。だが、肉体としてやってくるのもある。
地球上にいる生態系の代表的種族に、宇宙で進化を遂げてやってきたものがけっこういるのだ。爬虫類、鳥類、両生類にも宇宙人がいる。
困っ たのは、蚊、ノミ、ダニである。ヤブ蚊は獰猛なことに、皮膚に止まれば、体が多少動いていても、針を刺して血を吸った。ノミは足回りを、何箇所も刺しま くった。これらは、化身だろうが何だろうが、見つけたら殺さざるをえないものだ。彼らの遺伝子の中に、不快を催す毒づいた要素が混入されている。

こうして、いかに秩序ありといえども、自然界の中に混ぜられた毒気によって、楽園には程遠い環境になってしまうというわけだ。毒気を混ぜた者。それは邪神に他ならない。
彼 らは配下に命じて、種族の遺伝子に敵対的本能や肉捕食など手間と苦難を生じる種を植え付けた。いまやそれを食物連鎖とかで、生態系の輪の中になくてはなら ないものとして了解されているが、それは地球という生命育む土壌の寛容さがずいぶんと努力した結果である。それも、邪神の意図で次々と破壊されている。獰 猛な外来種が、局限された生態系の調和を破って投入されている。かつては公害だったが、今は電磁波の垂れ流しであらゆる生態系が狂わされようとしている。 このようなことは、またも人類のみが生態系から異端視される原因となる。


クロノスが原人や原生命を生み出した頃は、どこにも悪意や害意はなかった。生命の黄金時代を長く謳歌していた。そのふるさとの光景が、いまどの生き物の記憶からも消し去られようとしている。
それはすべて地球を、邪神とその手下どもの見世物小屋にしたいがゆえの策謀の結果である。彼らは今まで高みの見物をして高笑いしていたのだ。
そ のような邪神どもと配下は、このたび粛清されていく。ただ残された害毒だけは種の中に残存するため、新時代への移行期にそのような毒気の除去も必要になっ てくることだろう。それらの毒気の除去作業はまず神界に発し、イヅノメやカムナオビ、オオナオビ、ツツノヲといった神々がプロジェクト率いて取りかかる。 下界にも現象化したプロジェクト体制が発足するだろう。ゼロクリアーから始めることなく、ソフトランディングするなら、その流れが出てくることになる。

ゾ ロアスター教の神話には、過去の時代、邪神どもの撒き散らした害毒の除去のために、ティシュタル星(シリウス)に洪水を起こさせた。しかしその結果、海水 の塩分が強くなり、普通の生き物は住めなくなったとされている。継続させる場合には、システムの多少の劣化を伴うものとなることが多い。というより、依然 として邪神の干渉下であり続けたから、劣化したままだったのだ。
そのような経緯でスタートしたこの時代。やはりいっそう困難を増すものとなった。
ギリシャのヘロドトスが言った。かつて、黄金時代、白銀時代、青銅時代、英雄時代とあったが、そのいずれかに生まれたかった。なぜなら、今はいっそう頑なな、嘆かわしい鉄の時代だからだ、と。
その経過が、そろそろ終局に差し掛かっている。
これから先は、火の灼熱になることは新神話の予定としているところだ。が、それは天界の邪神の居場所だけだ。地球上までは予定していないが、もしかするととばっちりがあるかも知れないことだけ覚悟はいる。
しかし、残し置かれることにより、いっそう綿密な計画が要求されることだろう。それが新時代を継ぐ者への課題となる。おおいに宇宙文明の利器を活用するべきだろう。これからの宇宙人は、みな好意的であるはずだ。


奥付



第十二章 地上の語りが終わるまで書き続けられる新神話・・・その2 (命終の間際まで書き続けられる新神話)


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著者 : yae-mon
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/yae-mon/profile


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