物 の理 |
この論説は1984年
に日本サイ科学会において 基幹誌であるサイ科学誌に掲載されたものです。 1983年に同誌掲載の「超宇宙の仕組みを考える ためのモデル概念」の続編にあたります。 |
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ニアデス体験の共通牲と普遍的手続きの潜在 より良く生きようと考え,その方法を模索することは重要である。 近似死体験研究者のレイモンド.A.ムーディ博士は体験者百数十例から総合して,死に瀕した状況や死を経験した人のタイプが,極めて多
様であるにもかかわらず,体験談そのものに驚くべき類似性がみられ,それらを総合すると次のような共通要素にまとめられるとした。 @苦 痛が極みに達したとき、医師が死亡宣言するのを聞く。多分に境界地(河など水域に閑したものが多い)を越えると,もはや仮死から完全死に移行してしまうと考えられる。(これがいわゆる「脳死」に対応するのだ ろうか) この延長上には,人は死後,霊魂として生存するという古来より伝統的に支持されてきた死後の世界(霊界)や輪廻転生の問題が横たわって おり,この種の最近の研究はこれに対し肯定約な情報を提供するようである。 さて,これらの移行の過程には,その人の生活や信条による影響は余りみられず,多様な形態をとって顕われることはあっても,夢や幻覚と
異り,鮮明で共通要素に関して定型的であるという。 かかる普遍的手続きの存在が確かなら,死後の意識存続が延長線上に確からしくなるばかりか,我々の感覚を超えた一大情報系の存在が仮定 されてくるであろう。しかもそれはユングによれば「元型」なるものに規定されていようし,なおも言えば生命体の発生分化がDNAに手続きされる如く, DNAすらもその傘下に擁する「超越的な手続き群」の賜物であろうかも知れないのだ。 バルド・ソドルに書かれる原型的手続き 古代の死の技術書とされる「チベットの死者の書(バルド・ソドル)」は、臨終から意識原理の移行がなされる中有と呼ばれる期間に,意識 の周囲に起る現象を一連の定められた手続きの流れとしてとらえている。 バルド・ソドルはヨガの技法により釈迦牟尼が生きながらに死に、その間に観てきた体験を語るものとされ、死後の手続きとその対処法を 「生前から知って経験」したり,「死後に地上から誘導」されたりすることにより、効果的に解脱に至る技術を語るものとされる。 それによると,死者は中有の四十九日の毎日に渡って試練の幻覚を経験するが,その中で死者は何らかの心理的反応を起こし,その結果、解 脱か転生かが運命づけられていくという。 転生してゆくにも天界・人界・阿修羅界・地獄界・飢餓界・畜生界があり,総じて「六迷界」と呼ばれる世界で魂にとって長い間に渡って意 義の乏しいところとされる。それだけに中有の期間は死者の魂にとって死活をかけた修練場であるわけで,解脱こそが是非とも獲得されねばならないとしてこの 書は説かれている。 恐らくこの書は幾多のニアデス体験の類型話の原型が説かれているのであろうと思われるし,実践ヨガに基づく科学的解釈が微細に渡ってな
されていることに驚嘆を覚えるものである。 死後の身体と現象 ソドルは次のようなことを言っている。 死後,人は皆「バルド体」という生前のカルマ(性癖)と行為の記憶をもつ体を有する。そして中有の間は,バルド体の認識能力により情報
が外界から摂取されることになる。人はバルドの中間世界をさまよい,これを観察しなくてはならないが,その展開は表1のようである。
たとえば誰かが死んだとしよう。するとまず,生前に善行を重ねた人やヨガに習熟した人には、死の直後に輝く発光が近付いてくる。(逆に カルマで重濁した人は多くの優れた機会を気絶状態で過ごすという) 意識がそう知覚するのである。それを仏の知恵の光と知って,自らをその中に溶け込ますことができたなら,その人は覚醒し,地上への再誕 生を免れる。しかし,その発光を恐れたならば,残念ながら最高の機会を逃がしたことになる。 しかし,中有の期間に渡って,ちょうどはずむゴムまりのように何段階もの種々の仏智の光やビジョンが彼を迎えにくる。その中のどれか一 つにでも同化できたなら,彼は解脱を得る。しかし,まりのはずみはしだいに減衰してくるし,後になるほどバルドの中にカルマが影響してきて、これによって 人は錯乱して,純粋な解脱を離れ,いつしか六迷界の再誕生ルートに誘いこまれてしまうのだという。 六迷界のうち天界、人界ならまだましとしても,人間界でも宗教の発達していない国に至っては,その他の界と同様で解脱の機会を削がれた といってもよいという。 よってこの書は,悪くして人間界への再誕生を余儀なくされてもなお恵まれた誕生先を選択する技術に言及している。 バルド体の性質 バルド体は思考機能が生前のままであるに加え,知覚カが増大しており,夢に遊ぶときのような自由度の大きさをもち,意志のカで現象を容 易に変容できる。このゆえに、生前に比べて心の持ち方が重要となるかわりに,解脱ははるかに容易であるという。 ここで重要なのは,バルドの経験世界は全て彼の知性の構造であるということである。つまり,彼は自らの心の中をのぞいて経験世界を営ん
でいるということが重要である。身近には夢がそう言われているが,ソドルは夢もバルドの一種だと言っている。 バルドの性質と対処 夢は多く荒唐無稽であるのに,そうと分って対応することは珍しく,死後についても同様でバルドをバルドであるとなかなか悟れず,多くは ここで迷う。加えて,心の持ち方が要求されるので,知的認識以上にヨガの実践的習熟が必要とされるわけである。 また重要なのは,バルドの経験世界は全て空(実体がない)であることである。死後しばらくするとカルマに起因する幻覚が生じてきて,非 情な恐怖体験を強いられることになるが,空なるもの(外界)が空なるもの(すなわちバルド体)を害することはないわけで.この原則を知って臨むのとそうで ないのとでは、心理的に雲泥の開きがあるとされる。 思惟の動きに敏感な体は恐怖心と怯弱な衛動に惑わされて,望みもしない迷界に追い込まれていく。ここに無知と知,ヨガ熟達者とそうでな い者の差は決定的になるというわけである。 次表に解放に導かれるための様々をビジョンへの対処法をまとめよう。
表2から分かることは,外界の変化の何事にも執われることのない心理状態であること,とそれ以上に知性のうちの最上のものを利用して飛 躍せよと言っていることである。 知性には善も恵も存在する。それがカルマに従って索かれるとき,善神の慈光や悪魔の脅迫という象徴を通して幻視されるのであり、一番最
初のチャンス(死の直後)を除いて,幻覚は幻覚を処する知恵で駆逐されて解放に至らねばならないかのようである。 精髄句(導引の知恵の言葉) 死者が現在どの状態にあるかを死後の経過日数でみて,その時に応じた知恵の言葉(精髄句という)で死者に状態認識きせ,有利なように誘 導することができるとされている。 これは次のように考えることができるだろう。 四十九日は中陰プロセスの猶予期間として表1の共通の手順が許されるが,この間であれば言葉による暗示によって原型的手順でなくとも生 前の生活環境にあわせた応用的形態で誘導可能であると。 つまり,この間は死者の意識は常に誘導可能状態にあるのに,偶々何も知らぬ我々では,なすべき方法を知らないために,不幸にも手続きの 多くが省略されてしまうのではないかということだ。 ヨガの達人のように魂が覚醒していれはよいが,気絶したり無知の中に錯乱するのが常だとしたら,何と恐ろしいことか。だから悪くても宗
教の発達した国に生まれよというわけである。
ソドルのいう知性とは ところで意識は決して会話上の言葉の情報で暗示を受けるのではなく,術者の言葉が端緒となって彼の「知性の中の照応的な多次元の情報 群」が励起され,それが彼の意識に映ずるというのが本当だろう。 だから精髄句をいかに適時に付与したとて,死者が生前に履習していなければ無意味であることは明らかなことだ。また,怒り,嫉妬等の感 情は会話上の言葉で表現できるものではないが,知性の中の該当情報群を明らかに励起しているわけで,彼はそれに乱されないわけにはいかない。バルドにおけ る旅とは,当面する知性の中を旅することだからである。 ソドルでいう知性とは,彼個人のものにとどまらない。DNAが全てであるとき,肝細胞はその部分的投影だ。同様にその他の可能性を抑制 されている形態の受けもちが彼の知性と言えよう。 知性とは全宇宙の歴史・構造・法則等を規定する手続きの全てであり,ギリシャの叡知、中国の太極,インドのブラフマンに対応するもので
ある。 輪廻の中の経験世界の本質 生前の世界とバルドの世界ではどう違いがあるのだろう。 ヨガでは、どちらも非存在の幻影であり,変わるものでないとしている。(前掲表2などは,ヨガ行者が実生活で基本的に修めていることで
ある) 生から死は肉体からバルド体への意識原理の転移。ソドルは、生前の記憶回路からの生命力の撤退に誘起されてバルド体が生成されるという 準備段階があると言っている。 逆に死から生も,バルドにおける象徴的な子宮への幽閉の幻覚すなわちバルド体の拘束という手続きに誘起されて肉体が生成される過程(勿
論このとき現世では肉体的父母の性的結合,受精といった具体的手続きと同期がとれていて,二つの隔たった手続きは矛盾なく進行している)があり、いずれも
遅れて意識原理が転移している。すなわち生も死も,ある体から異なる体への意識の再生であるということになる。 大字宙の構造 ニアデス体験談・ソドル・霊界通信・過去世透視等のもたらす情報を総合して、現象とその観測主体である自我の本質について,次のような 推測をするのである。 ○ 現象はすべて意識的認識のための暗示的映象で,認識の主体を離れた現象は意味がない。(物理学上の、観測されるまではどのような現 象であるか規定することはできないという意見に通じる。) ○ 現象映像の元は超越的な言語で形成されたプログラムであろう。(これを叡知とか知性と呼んでいるのだ。) ○ プログラムの索引の鍵はカルマであり,その間には数理的法則性がある。(ケーシーリーディングはその手がかりを与えてくれるだろ う) ○ 意識(自我)は経験世界の観測から生じていて,第一次的ではない。一次的なのは意識原理であって、これをとりまく経験世界は一種の 実験炉のようなものとして捉えられ、バルド体や肉体は実験炉の中のセンサーとしての機能をもっていると考える。 これらのことから現象とその認識の本質,いわゆる宇宙と意識の構造がホログラフイック・コンピューターモデルによって説明できるものと 考える。 これにより、仏教やヒンドゥー教の教理を旨く説明できるだけでなく,現代物理学にも準拠しているため,古今科学観の融合をはかるための
私案として提示できるものと考えている。ただ、モデルの性質から推測することゆえ畏れ多く,また真相のいくばくを語ることができるとも限らないが,次のよ
うな未踏の諸問題に説明が施せるかと思われる。(以下手短かに) 夢と潜在意識の解釈 物理学上の量子と同じように,意識にもそれが定在すべき、とびとぴの状態があるらしい。それは状態ごとに記憶領域と記憶保護機能のある コンピューターのマルチプログラミングモデルでモデル化できる。 また一つの定在すべき意識状態においてもゆらぎがあり,知性への微同調の仕組みがあるとみえ,現在の心理的状態の同調したものが顕在意 識であり,もれたもの全てが潜在意識の領域に押し込められると考えられる。 つまり記憶力も想像力(創造力)も「脳力」に関するものは,ほとんど心的状態の可変自在性に依存する。 長じるに従い現実的傾向が出て,意識状態の底が浅くなり,様々な能力が消失するのは一種の心の仮性近視であるにすぎない。ヨガは決して
特殊能力を磨く術なのではなく,心の自在性を復活する訓練と言える。 意識の連続 そこで解放とは,外にある知性を離れて,汎ゆる仕組みから超越することである。 人間界の誕生の仕組み 心霊の問題 知性の多階層境造性に起因して霊・霊界は在る。スエデンポルグの観てきた世界は知性により飾られたもので,ソドルのいう天界に相当する だろう。 霊の発生,分化も有る。これは唯一者の知性を本源的時間の流れに乗り,分担精査する必然性から生起されると考えられる。この必要性こそ カルマの本質であろう。また霊体は複合体,重合体でも有りうる。本質的には全てが知性の構造上繋がっているからである。意識原理(個我の元)はそこに短期 間とどまるにすぎないのだ。 霊の進化は,本源的カルマ(役割)の消去と母源的知性への復帰を言うものだろう。つまり分霊された理由の消去による拘束的な階層構造的 知性からの漸次脱皮である。こうして最終的には全知性の精査の成就と全霊の融合(「全成就の知恵」とソドルは言う)が果たされると考えられる。 スエデンポルデが言う霊界の結婚(2つの霊が霊的親和感で結合し,以後霊格優れた1つの霊として生まれかわる)や性格の類似により集ま
る霊団体と組織(町や村)の存在はこのような考え方で説明できるのである。 総じて経験世界の意義 バルド・ソドルによると,知性は意識原理を離れて意味をもたないし,かといって後者は前者を必要とする訳でなく,かえってそれによらな い状態が本当だとしている。つまり現象は,あるいはそれを在らしめる知性は,一種の制度(方便)ということになろう。 では現世に意義はないというのだろうか。 現世とは変化極まりないカレントな意識経験の場であるが,日々刻々の中に幸福と進歩を希い一層の努力を重ねている構図は,いかなるあな どりの感情も生ずるものでなく,ただ偉大であり,感嘆の想いを起さざるを得ないのが本当である。ソドルの矛盾なのか,それとも我々の無知によるのか。 このためには,この制度の目的を考えてみるべきだろう。 神仏の御心を推量することゆえ畏れ多いが,一説には魂の教育システムなのだという。ある霊界通信によれば,霊は当初荒けずりで、幾多の 経験を通して進化して円熟していかねばならないという。仏教ではその卒業形態を成仏とし,それに至るまでについて,法華経は,誰でも個性に応じて最も効果 的に覚醒に至るべく導かれることになっていると言っている。 また一説には魂の懲罰システムなのだという。つまり、精神は一定の条件が満たされるまで非情さと、とりとめのない夢遊の錯乱状態におか れるというわけである。 また,一説には,神の全像開顕と,それへの奉仕説である。先程も述べたが,神は全知性であるが、それを展開していくために、分担して受 けもつ分霊があまた必要だということである。分霊は特質をもった知性を受ける以上、欲望を内在させてそれに応じた偏向した性質を示さねばならず,これゆえ 神に比して無知な形態としてあらわれるのはやむをえないとする。 前二説もさることながら,我々は第三番目の説に注意したい。バルド・ソドルでは人間界それ自体の価値が否定されたが,それに意義を見出 すとすれば,この説以外にはないだろう。また,神とその表現である宇宙を生命体と考え,「神と人間が相似かつ不可分の関係にある」という生命観に裏打ちさ れている。 特に「神の役割」の活在は,次の最もオーソドックスな霊界通信にみられよう。死は好機とはいえ,では自殺はどうか。自殺者や無謀が原因 の死者の魂は(役割の放棄ゆえか、救いの導きに遭うことなく)暗くじめじめした虚無と隔絶(の知性の状態)に落ちつき(次の転生までの非常に長い間)苦悶 するという。当然,転生先も,そのような知性の延長上にあるはずであろう。 逆に他人を助けその反動で死亡した者や善行を積んだ者は霊的進化を早くされるという。このことから役割が善に基盤を置いた厳然たる実在 であることがうかがえる。 そこで推測するのであるが,全ての時間が神を前提としてあると認識して善良に行動するとき,自然の行為が,また真の道徳がとりおこなわ れるものではないか。(これを老子は「大道」と言ったようだ) そのとき,全ての時間において輪廻の経験世界の中にあってなお覚者で居ることができるのではあるまいか。 筆者の浅白な思いつきにすぎないかも知れないが、こう考えてみたとき一つの隠された精髄句を発見したような気がした。 もしかすると,遠い将来,科学が発展したあかつきに,宇宙の知 性を直接映像化して見せる装置が創られるかも知れない。(それができてこそ,真の科学技術時代と言えるだろう) −Copyright(c)2001-2002 Okuhito all rights
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