古へ




身禊(みそぎ)




汚土脱出のミソギの旅 

 イザナギとは、精神を凪の状態にする安心の節理を示す神である。いっぽうイザナミは精神的に擾乱の状態にする不安定性の節理を示す神である。歴史の展開には、そのいずれもが必要であり、その絶妙のコンビネーションによってこそ、理想世界の実現は可能となる。
だが、車の両輪のごとき二神の働きが失われ、さらにイザナギのユツツマグシ(観測の意識の目)すらも黄泉の国を照覧するようになった。このことは、意識の主眼がこのシナリオの上にあることを示す。
だが、意識は黄泉の国の惨状を見て、このままでは危ないと脱出を決意する。そう決意すれば、ルートは開かれ、ふつう冥界からは帰れないとされる節理も曲げられ、扉を開く。
だが、いったん汚土に居た限りは、その影響と余韻をすべて拭い去らねばならない。
こうして意識は、自らミソギの行程を踏むのである。

大変災・汚土脱出と大洪水


イザナギ神は黄泉国から脱出して、心身を清める身禊を行なうが、まず汚れている身に着けていた道具、衣類、装飾品の類を投げ捨てる。
冥界に出入りする際に身の回りの物を脱着するのは、メソポタミアの神話にもみられ、その内容もほぼ等しい。
だが、日本神話には持ち物のイメージが類似する意味深長な何物かが象徴的に神名で挙げられている。
それは物心両面における遠隔地への逃避を表わす言葉ともなっている。
前段を引き継げば、地球外知性の助力によるイザナギ人類の汚土地球からの遠離という段階があり、生き残った人類と生物の種子は、いったん生存可能な別の場所(宇宙)に移されたようである。
ノアの方舟は、古代人にとって手の届く範囲で分かり易く解説された象徴話の感がある。


「身禊」の前半の神々
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 
                         
 投捨品   生じた神           示す意味     その他暗示されるもの 
                                         
   杖   衝き立つ船戸       遠離の船出    環状列石の中央柱? 
  帯   道の長乳歯        長い道程     歯状列石?(カルナク)
  袋   時量師          長い時間の経過  クロムレク?、天体時計
  衣   煩ひのうし        煩悩、病の消失  ドルメン、瞑想、治病所
  袴   道俣           道中の安全    石神、道祖石     
  冠   飽咋のうし        貪欲飽食の消失  ドルメン       
  手纏   奥辺疎、渚日子、貝箆   遥か遠くに遠離  磐座の直線上配置 
                             
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

「身禊」の中半
原文
ここにのりたまはく、「上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は弱し」とのりたまひて、初めて中つ瀕に降り潜きて、滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、八十禍津日の神。次に大禍津日の神。
この二神は、かのきたなき繁き国に到りたまひし時の、けがれによりて成りませる神なり。
次にその禍を直さむとして成りませる神の名は、神直毘の神。次に大直毘の神。次にイヅノメ。
次に水底に瀬ぎたまふ時に成りませる神の名は、底津綿津見の神。次に底簡の男の命。
中に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、中津綿津見の神。次に中筒の男の命。
水の上に滌ぎたまふ時に成りませる神の名は、上津綿津見の禅。次に上簡の男の命。
この三柱の綿津見の碑は、阿曇の連等が祖神と斎く神なり。・・・中略・・・筒の男の命三柱の神は墨の江の三前の大神なり。
意識の目は図らずもしたこととはいえ、黄泉の惨状と黄泉の神のおどろおどろしさを見てきた。神界にすら黄泉の手が伸びているかのように思われた。
このため、意識の目はイザナギの目と行動を借りて、理念界、神界の浄化を果さねばならない。
その場所は、神界と現界のいずれによっても困難なので、その間にある中間界で行われることとなる。
まず、黄泉の神々から凶悪の原因に至るまでの理念が、いったん呼び覚まされ、浄化の川の流れにすべて流し去られた。その理念は川の中でも正され消滅させられねばならず、このときにカンナオビ、オホナオビ、イヅノメ、ツツノオが活躍して、理念界、神界の毒を消し去った。いずれ現界にも好影響として出てくることになる。
すべて、理念界、神界、現界を住み易くするための節理である。


理念界と地上界の浄化がなされる

 今一方、地上では、ヤツマガツヒ、オホマガツヒで示される放射能による超汚染がカムナホビから「上簡の男」までで示される浄化機構で清浄化された。その具体的な形や仕組みははっきりしないが、筒の男は海洋浄化のための円筒状の機構であることは言える。ノストラダムス大予言の二章四八編には毒物浄化機構を思わせる極地にある輪のことが述べられているが、この簡状の機構の活在を意味してはいないだろうか。接点の時代にはこのような救済用設備が前面に出て活躍し、文明期には人類に気取られることのないような所で潜かに運用されていると考えられる。 なお、イザナギが身体を源ぐために降りようとした川の上、中、下流というのはアカシックレコードの投射の階層をあらわしていると考えられる。というのは、古代人が因果的な過去(時間にしろ空間にしろ)を示そうとする際に用いるのが、身近な不可逆的な可視の(空間的な)擬態表現なのである。「道」は不可逆性を石で作っていたが、川は自明である。加えて、ごく自然にブレークダウンしてくるものであり、否応ない法則としての理念の投射を表現するのに相応しかったのではないだろうか。だから、ここで浄化がなされたというのは、多く理念界での出来事とみてよい。上流はそのままにされ、中間段階に手が加えられた。これは大本にあるアカシックレコードの原型は病んでいなかったからであろう。これゆえ、この文明の歴史は、まがい物のレコードを索引してしまった失策であったと結論できるのである。

このイザナギ神自身が身体を清めるべく、川の中ほどに降りて潜り、諸々の穢れを洗い流すという話。これは現在でも核兵器の放射能毒を洗浄する最も有効な方法と考えられている。
それを地球大にスケールアップした大洪水があり、地上が水により洗浄されたことを意味すると解される。(これは水を多量に含んだ天体との衝突が原因であった。後段)
この時に災禍を示す神々と、それを直そうとする神々、そして海洋と水系の浄化の神々が生まれたとする。
ゾロアスター教にも、悪神の地上に出した害毒を浄化するためにアフラ・マツダの命でティシュタル星(シリウス)が洪水を起こしたという神話がある。

だが、それらは地球上という角度から見た解釈だ。実は、現界の悪しき現出は、理念界(プログラム)に端を発している。それが悪しきものであるなら、意識の目から見て、その向こうにある神界も曇って見えるものである。
このために、意識の目は、ミソギの行程を、自らの得心のために踏まねばならない。その中には、邪神の断罪から、元凶たる原因の断罪破棄まであって、すべて漏れることのない周到さで行われる必要があるというわけだ。

 

 

身禊(後半)

原文 訳/解釈
 ここに左の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、天照らす大御神。次に右の御目を洗ひたまふ時に成りませる神の名は、月読の命。次に御鼻を洗ひたまふ時に成りませる神の名は建速須佐の男の命。・・・中略・・・天照らす大御神に賜ひてのりたまはく、「汝が命は高天の原を知らせ」と、言依さして賜ひき。かれその御頸珠の名を、ミクラタナの神といふ。  
次に月読の命にのりたまはく、「汝が命は夜の食国を知らせ」と、言依さしたまひき。次に建速須佐の男の命にのりたまはく、「汝が命は海原を知らせ」と、言依さしたまひき。
 かれおのもおのもよさし賜へる命のまにま知らしめす中に、速須佐の男の命、依さしたまへる国を知らさずて、ヤツカヒゲ胸前に至るまで、泣きいさちき。その泣くさまは、青山は枯山なす泣き枯らし河海はことごとに泣き乾しき。ここを以ちて荒ぶる神の音なひ、狭純なす皆満ち、萬の物の災ひことごとに起りき。
 かれイザナギの大御神、速力佐の男の命にのりたまはく、「何とかも汝は言依させる国を知らさずて、哭きいさちる」とのりたまへば、答へ臼さく、「僕は母の国根の堅州国に罷らむとおもふがからに哭く」とまをしたまひき。ここにイザナギの大御神、いたく忿らしてのりたまはく、「然らば汝はこの国にはなとどまりそ」とのりたまひて、すなわち神逐ひに逐ひたまひき。かれそのイザナギの大神は、淡路の多賀にまします。
イザナギが目鼻を洗浄したとき、天照大御神、月読の命、建速須佐の男の命が生まれた。
イザナギはそれぞれに高天原、夜の支配する国、海原を統治するように命じる。
だが、スサノヲだけは責任を果たそうとせず、母の居る地下界に行きたいと泣いたので、緑なす山々は塩害で枯山となり、あらゆる災いが発生した。
ここでは三貴神の支配の構図を示すことにより、新しい天地支配の開始、仕切り直しが語られているとともに、スサノヲが海原というのは、すべてが水の中に没した前提に立っているようである。
それは直ちに収拾されるべきであったが、スサノヲの責任放棄話に掛けて、浄化の行き過ぎによる生態系の壊滅を物語っているように思われる。
ホピの神話の人類の守護神マサウウは、スサノヲと同一神であると考えられる。
マサウウも、前の時代において失策したゆえに、この時代において守護神を命じられたとされていて、より一層、同一神であるらしいことが分かる。


新天地の登場と荒廃した地上世界


 この節では、新しい時代の天地支配の構図を示している。アマテラスの支配する高天の原は既に述べたように超空間であり、地上世界の何事も鳥観できる五次元的時空である。だが逆に地上の我々からは察知し得ないので、遠隔の太陽に擬態すると共に、ミクラタナ(棚の上の安定した世界)と古代人の間では認識していたようだ。また、「月読」は「尽く黄泉」と解せ、地上を中心にしたとき、高天原の正反対の位置に在るべき冥界をあらわすと共に、現在みる月が文明の終局に何らかの関わりがあったことを示している。後程述べる「天の斑駒」(水天体)と関係が深いと思われる。

 スサノヲは海原の守護を命ぜられるが、これは表裏の関係にある大地の守護をおこなうことでもある。(これはギリシャ神話のゼウス、ヘーデース、ポセイドンの支配構図と一致している)だが、彼はそれを履行しないばかりか、かえって海陸を逆転するようなことをした。「その泣く様は・・・泣き乾しき」にあらわれている。これは海外にあるものと共通した洪水神話である。また、スサノヲが洪水を起した理由が、母イザナミの居る黄泉の国に往くことであるから前節のイザナギの水による地上の病んだ状態の浄化と同じことを示しているのではないかと考えられる。つまり同一事件を異なった観点で述べているのである。海外の洪水神話がいづれも洪水の原因を不敬な人類への神の怒りとその浄化に帰していることをみても頷けよう。
 古事記上つ巻の訳の上から、ここで大きく歴史的に二つに分けられる。これより以前は一時代の壊滅と次代の準備のための浄化までが書かれ、以降は次の時代の初期状態の説明で始まるのである。また、原文上でも、イザナギ、イザナミから天照らす大御神の天神、スサノヲという国神の持ち分け支配へとバトンタッチされていくのである。


 誓約へ 


Copyright(C)1978-1998   初稿1978.5 


古事記一覧表に戻る




−Copyright(c)2001- Okuhito all rights reserved−