物語





はつの祖母の思い出(前編)

石田ハツノ述−−奥人編



これは、教訓付きの不思議な話をたくさんしてくれたおばあちゃんの
実際に生きた若かりし時代の原色の話です。


以下、「私」とは、はつの祖母のこと。
()内はおくんどのコメントです。




《はじめに》

私の近しきご先祖には、それはまれにしか見ない人徳者が居りました。
その第一の人は、私の祖父でありました。
世の中には、自分のためだけに生きている多くの人と、 自分のことはさて置き、 人のために生きている少数の人が居るようです。
祖父は、後の部類の人であり、その難しい仕事を、 人一倍すぐれた知恵で実現していった人でした。
私にとって、このような人を先祖にもっていることがどれほど誇りになり、 どれほど勇気づけられたかわかりません。
祖父は、「はっちゃんよ。
人間は一代のうちにどんな事も有るだろうけれども、 その日の日暮しもできん貧乏人になったとしても、 心だけは落ちぶれるなよ」と言われたことがありました。
私の人生は、確かにその日暮しにも事欠く、どん底の一生になりましたが、 心だけはきれいなままで過ごしてきたことを、 今になって誇らしく思っています。
祖父は、あまり笑うことをしない威厳ある風貌の人でしたが、 こちらから何かを聞いたら、大概のことは教えてくれました。
従兄兄弟の誰もあえて聞こうとはしなかったから、 いま祖父のしてきた事について知っているのは、 自分だけになってしまいました。
祖父は、名を池田梁吉といいます。
以前、テレビのNHKでやっていた大河ドラマ 「西郷隆盛」に出てくる大久保利通(鹿賀丈史?=筆者注) のような威厳のある風貌をしていました。
写真が割合普及していた頃だったのですが、祖父は写真を撮られると 魂を抜かれると信じていたので、一枚の写真も残っていません。
有るのは、妻のたけ祖母と伯父、伯母がともに映っているときのものだけ。
それで、大久保利通がテレビに映るつど、 いつしか娘時代の思い出に耽ってしまいました。
ドラマの筋は、そのつどわからなくなりましたが。


《ご先祖のこと》

私はむかし人間のためか、どうしても誇らしくなるのは、池田家の家柄です。
姫路城主であった池田輝正公の御曹子が、 福山城にご養子として迎えられたとき、 若様のお守役として随行したのが、 わが池田家の先祖であるといいます。
若様が備後藩福山城主となられてから、 この家は城代家老職を代々勤めて、 明治維新まで続きました。
輝正公と同じ姓であることは、 多分に本家分家の関係であったかも知れませんが、 時のご先祖の幾代かの名とともに、今は霧の中です。
私は、最近になってその場所を調べてみたところ、明治時代になって 鉄道が敷かれたことにより、城が駅に切り取られてしまったため、 城代家老の屋敷は今の福山駅の中ほどになることがわかりました。
城代家老は、明治には黒金屋という屋号を持つ商人となりました。
今でも登城する石段の先に、黒金御門という城門がありますが、 これは黒金屋が寄進したものといいます。
私は先祖のした功業を前に、しばらく佇んでいました。
池田梁吉のそのまた祖父は、その家柄の分家筋でありました。
明治維新前に武士階級を嫌っていち早く平民となり、 備後は沼隈郡、千年村の庄屋となりました。
つい私の代まで、城を守ってきた者の子孫すべてに対して、 先祖代々の系図に調印させるようなこともありましたが、 実際に調印したのは祖父の代までだったようです。
池田梁吉のそのまた祖父にまつわる話です。
庄屋になっていくらか後の天保年間に大飢饉が起こり、 天保六年にその頂点を迎えました。
この飢饉は、天保の大飢饉として知られるもので、 金が有っても食べ物が手に入らず、 金の入った布袋を首に掛けたまま行き倒れる人が、巷に溢れたといいます。
このとき、農村部で裕福なのは米蔵に多くの米を貯えた庄屋だけで、 普通の百姓家が口にできるものはほとんどありませんでした。
このため、庄屋邸の焼き討ち事件が日本全土で起こったといいます。
だが、先代の祖父は、庄屋の一般に似合わず、 すでに飢饉が始まった頃から、千年村の百姓家の暮らしぶりをみて、 それに応じて蔵の貯えを村民に分け与えていました。
特にこの天保六年ばかりは、飢饉の度合いがきわめてひどかったので、 貯えをすべて取り崩し、米一俵、麦一俵を一家の割りで村中に配り、 「普段は、引き割り粥(米、麦、その他を臼で轢いて粉にして お粥にしたもの)を作り、祭りの時だけ米を食べて、 今年一年を何とか繋いでおくれ」とまで言い渡していました。
このため、千年村内での騒動はありませんでした。
ところが、沼隈郡の各所で発生した焼き討ちは、 千年村にも及んできました。
竹槍や筵を手にした徒党が、まっしぐらに 梁吉の祖父の屋敷目掛けてやってきたのです。
ところが、尋常ではないことが起きたものです。
焼き討ちのあることをいち早く知った村の衆が、竹槍などを手にして 庄屋邸を背に取り巻いて、やってきた徒党を逆に説得したのです。
こうして事件は何事もなく済んだのでした。
沼隈郡十六ケ村のうち、焼き討ちを免れたのは 二ケ村だけだったといいます。
事はそればかりではありません。
村の衆は、それからというもの毎年のように総出で、 先代の広い田の田植え、稲刈りなどの農作業を手伝ってくれ、 その恩返しは梁吉の代に至る明治以降にまで及んだのです。
世代が替わっても、恩義を忘れず行なわれていた 総出の手伝いを見て心苦しく思った梁吉祖父は、 「わずか数年の、それも当たり前のことでした恩に、 何十年も報いてくれているのでは申し訳ない」と言って、広い田畑を売り、 かわりに七山と七艚の黒船(2、3人乗りの帆船)を買い、 それをもとに海運事業を始めました。
私の父、神原国助は、若い頃からこのときの一艚の船に乗り、 船長として台湾の高尾やキールンから朝鮮の釜山まで、 石材を運搬しました。
(「幽霊船」の話はこのときのものです) その後、尾道と大阪の間を行き来するようになり、私が十五才頃には、 船乗り二人が徴兵に取られたために、父とともに海に出て仕事をしました。
私は船室甲板の掃除、炊事、食料や水の買い出し、 船乗りのする帆かけ、舵取りまで一通りをこなしました。
さて、池田梁吉のもとに嫁にきたのが、たけ祖母です。
この人は、三原藩の槍一筋の家柄の娘で、 かつては「たけや姫」と呼ばれていました。
お嫁にきた当初、台所の女中さんが 「若奥様、今夜は何のおかずにしましょうか」と聞くと、 「よきにはからいなさい」と答えられたので、 近所でも評判になったといいます。
お姫様だったので、炊事を一切しなかったのだそうです。
私には、常に上品で優しいお祖母様だったと思い出されます。
正月二日には、色紙の短冊に歌を書き、 欄間の額の中に、もみじに鹿の刺繍などを施されました。
私は、この梁吉夫妻に、生まれてから五才になる頃まで育てられました。
というのは、私が生まれてすぐに、父の国助が腸チフスに罹り、 再発を繰り返して、数年に及ぶ隔離生活を余儀なくされたからです。
私が兄弟、従兄のだれよりも可愛がられたのは、おしめの取り替えから ご飯の世話までしてもらった機縁によるところが大きいようです。
私は、その祖父と祖母に手を引かれて、近くのお寺にしばしば 説法を聞きにいきました。
この時の周りの景色の思い出や、 よくわからなかったにせよ、仏様の話などを聞いてきた美しい思い出が 三つ子の心として残り、その後のおおかたの難渋に満ちた人生を、 愚れたり投げやりになったりしないで過ごせたように思います。


《幼児時代》

父国助と母ユキは、結婚したのですが、一年も経たないうちに離婚して、母は実家である千年村大越に帰ってきて、私を生みました。
私の誕生日は、いま戸籍上では明治三十六年の 八月二十二日となっていますが、 本当は旧暦の五月二十二日だと聞かされました。
しかも、最初は、伯父の直吉の三女として届けられていました。
当時は運勢学上の問題とか、早死にを案じてのゆえに、 出生日の後送りがよくなされたらしいのですが、 私の場合は夫婦間のごたごたが最大の原因だったでしょうし、 また母からすれば、私はそう大事な人間ではなかったからかも知れません。
その後、まわりのとりなしで、父母は復縁しました。
その経緯は私もよくわかりませんが、父の国助がその頃腸チフスに罹り、 再発を繰り返して、都合二年の隔離を含む入院生活を送った際に、 母は付き添っていたと聞きます。
そうしたことのため、私は祖父母に、 生まれてから五つになるまで育てられました。
この時のことは、幸せだったせいかよく憶えていません。
父が退院すると、私は祖父の手元を離れ、 一つ離れた浦崎村高尾の実家に帰りました。
私は、知る由もないことですが、すでに二才になる章という弟があり、 母は自分の体が弱かったので、おぶって守りをするよう命じました。
そんなに弟と背丈が違うわけでもないので弟の足が地をすり、 あまりの重さに私の脚もふらつきましたが、一生懸命に頑張りました。
転けて泣かそうものなら、母は怒鳴りつけたあげく、 ひどく叩きなさったからです。
弟の子守は、毎日朝から日が暮れるまで続きました。
そのためか、私の背は人並みに伸びなかったようです。
また、早朝には牛追いの仕事がありました。
家で耕作用の牛を一頭飼っていて、 それに食事させるのが、朝起きなりからの仕事でした。
どれほどの背丈もないわずか五、六才の頃のこと、 裏山に追っていく途中で、牛は立ち止まって勝手に 道草を食べるので、それを前に進めるために、 手綱で自分の頭よりも高いところにある牛のお尻を叩いていきました。
山と山の間の谷にある草地で牛に食べさせている間、 私は木登りをしました。
松の木に登ると、枝の上に鳥の糞などを土にして知らない草が咲き、 たくさんの米粒ほどの実をつけていました。
牛は草を食べて満足でも、まだ私は朝飯前で空腹だったため、 取って食べてみると、不思議な美味しい味がしたので、 たくさん食べたのを憶えています。


《浦崎の小学校時代》

明治四十三年の春、私は浦崎村の尋常小学校に入学しました。
それは、辛い子守の仕事から解放されることであり、 子供ならではの自由を満喫できた幸せな時期でした。
小学一、二年の頃、明治天皇のご病気平癒のため、毎日のように 学校から1キロほど離れた住吉神社に、二列の隊列をつくり詣でました。
天皇様には申し訳ないですが、何が良い悪いの 区別もつかぬ時期だったので、たいへん楽しいことでした。
学校とは何と良いものかと思ったことでしょう。
休みの日になると、私はしばしば二里離れた祖父の住む 千年村大越に行きました。
祖父の畑や裏山で取れる季節に応じた野菜や果物、 木の実などを取らせてもらっていましたが、 あるとき、それらの取れる時期を聞いてくるように 使い走りを母から言い付かることがありました。
道すがらの道脇に小さいが早い水の流れがあって、 その土手を蟻の行列が長い列を作っていました。
ふと足を止め、それをぼおっと見ているうちに、 自分が何の使いをしているのか忘れてしまったのです。
大越に着いたら、祖母が林檎や上菓子を出してもてなしてくれました。
そして、いろんな話をして楽しいときを過ごしましたが、 いざ何の用事で来たか思い出そうとすると、蟻の行列が思い浮かぶだけで、 とうとうそのまま大越をあとにしてしまいました。
家に帰り、母に首尾を報告する段になり、 「私は何を聞いてきたらよかったんでしょう」と覚悟を決めて言うと、 母は「何のためにいっとったんだ」と怒鳴るや、 台所から割り木を持ってきて背中を散々叩きました。
それ以来、使い走りの用件を忘れた試しはありません。
また、この頃、梁吉祖父の父である保助大祖父が、よく遊んでくれました。
保助大祖父もまた、先代の人徳を引き継いだ人でした。
私が帰るときになると、私を母の家の見えるところまで 送ってくれるのがしばしばでした。
あるときなど、私は大祖父と歩いているうちに眠たくなって、 道端にしゃがみこんで寝てしまいます。
大祖父は、「おお、眠うなったか。
わしがおぶって行ってやろう」と、 私をおぶって、いつものところまで来ると、 「はっちゃんや。
さあ着いたで、ここからは自分で帰りなさい」 と起こしてくれました。
大越は本当に居心地が良かった。
帰りがけに雨が降ったりすると、 梁吉祖父は翌朝帰るように言ってくれました。
それが時には、二日後になることもありましたが、こうしたときにも 祖父が母あての伝言を家人に持たせますと、母は何も怒りませんでした。
母も祖父を誇りにしていたから、決して逆らわなかったのです。
今の方なら、どうして祖父に母のきつい仕打ちを打ち明けて、 諌めてもらわないのかと言われるかも知れません。
でも、その家に居るものが、その家の恥を世間に曝すというようなことは、 その当時どこにも例がありませんでしたし、 また母とはそういう厳しいものだとも思っておりました。


《藤江の小学校時代》

大正元年、私が小学三年の時に、父の仕事の都合で隣村の藤江村前の浜に家を建てて移りました。
父は、今度は藤江のハトから尾道通いの渡海をやりだしたのです。
船の名前はハト丸といい、毎朝大勢の人を乗せて尾道へ出航します。
私は、家から五百米ほどある藤江村小学校に転入しました。
母は、前の年に生まれた弟、忠の産後の日立ちが悪く、 ひどい喘息の病になって、春の木の芽立ち、 秋の草枯れどきには何ヵ月間も何もできませんでした。
そこで、私が炊事、洗濯、食べごしらえをしました。
また、弟の忠は乳飲み子ゆえ仕方ないとしても、 章の面倒は私の責任となり、学校に連れていくこととなりました。
私は二人が並んで座る長椅子長机の、 隣の子との間に弟の章を置いて勉強しました。
そんなことをしていたのは私だけでしたが、 級友のだれもからかったり不平を言うものはなく、 先生がたも普通と変わらぬ授業をして下さいました。
中でも校長先生は、弟と私をよく授業の合間に やさしくいたわって下さいました。
大正天皇の御大典に、日本全国が賑わったころのことです。
天皇の御神影が小学校に配布になり、講堂の宝安殿に安置されました。
それを祝して祭りが催され、小学校の運動場で、大勢の人が集まり、 磯節の踊りの輪ができたのです。
私もこの時、紫のちりめんで頬冠りして踊っていました。
ところが、突然私の振り上げた両手を そのまま掴んで放さない人がいたのです。
振りほどこうと思っても、私の力ではどうしようもなく、 ふと見ると、それは校長先生でした。
しばらくそんな状態が続いたので、周りの人は気付いて見ます。
恥ずかしいことでした。
後になって思うと、校長先生はいろんな方法で私の存在を 引き立たせようとしていたことがわかります。
私が家庭の事情で苦労をしていることが解っておられたからでしょう。
私は運動神経だけは達者でした。
運動会の走りでは、たいがい一等賞をとり、 賞品として鉛筆一ダースや半紙一束(百枚)をもらいました。
実力もあるにはありましたが、裏話がないわけでもなく、 運動場を一周する競争では、いつでもいちばん内側に並びました。
この仕掛けを見破った藤本トラさんや神谷さんやらが、 「神原さんはいつも内側からスタートして、ずるいです」と 校長先生に噛み付いたのでしたが、そのつど先生は 「いちばん小さいんじゃで、辛抱したれ」と不平分子をかわして下さいました。
私は、運動会の賞品もそうでしたが、祖父からお年玉として半紙を一束 頂いたりもしました。
でも、それらすべて母に取り上げられてしまい、 そのくせ書き方の時間のある日には、 半紙一枚しか都合してもらえなかったのです。
他の子等は、書き直しがきくよう何枚も予備を持ってきていたのですが。
授業では、一つの手本が課題として出されました。
時間内に手本にできるだけ近い上手な作品を提出すればよかったので、 一枚で足りるといえば足りるのですが、 まだ小さな子供にとって、難しいことではなかったでしょうか。
このため図らずも、私には手本どおりに間違わず書く癖がつき、 常に書き方では一番の成績となったのです。
学芸会でも、書き方の模範生の発表の場があり、 講堂のいちばん前の教壇の前に座って、 硯と半紙を前にして筆を取って、実地に書いて見せました。
何が幸いするかわからないものです。
誇らしいことでした。
ただ、授業中に使う鉛筆だけは困りました。
小さくちびて2センチぐらいになっても、かぶせを接いで使わされました。
間違って芯を折って帰ったりしたら、どんなことになったか。
私は学級委員長などにはならなかったけれど、 いろんな事で先生方には印象深かったのでしょう。
学芸会では、主役を演じることが多く、とくに木曽義仲の育ての親、 斉藤実盛役は私にとって忘れられない思い出です。
小さい頃はとかくいろんな脱線や失敗をしたものですが、 とくに印象深かったことを二つ挙げましょう。


《弟の仇討ち》

私は殻は小さかったのですが、けんかをしても運動神経のよさから、相手が男の子といえどもほとんど負けたことはありません。
とくに相手がずるくて悪い場合には、徹底的にやっつけてやりました。
私は高学年に上がって、三つ違いの章も低学年に上がってきました。
その頃、仙一という、弱い者いじめをする子がいて、 章はいつもいじめられていたのでした。
章が泣いて帰った明くる日の朝、私は学校に登校すると 章の仇討ちをすべく下駄箱の脇で仙一を待ちました。
やがて仙一が現われ、草履を脱ぐと自分の下駄箱から 上履きを取り出して、代わりに入れようと向うを向いた瞬間、 私は飛び出して、仙一の後ろから耳を掴んでやりました。
「うわ、何するんじゃ。
そんなことしたら、ひどいことどつくぞ」 私はひるみもせず、「おお、やってみい。
そんなことしたら、 耳を引きちぎるぞ」と、少し両手にひねりを入れました。
「いててて」 「章をよういじめてくれた。
これはそのお返しじゃ。
もうせんのじゃったら放してやるが、どうじゃ」 よほど痛かったのでしょう。
仙一は「解った、解った。
もう二度とせん」と約束しました。
「よし、それなら許しちゃる」と手を放したら、 仙一は男のくせに耳を押さえてしくしく泣きだしてしまいました。
そのとき、廊下のほうから、宮沢先生が走ってきて、 「こら、何しとるんじゃ。
男の子を泣かすとは」とあきれ顔。
騒ぎを見ていた同級生が職員室の先生に、 「女子のハツノさんが、男子の迫田仙一をいじめています」 とご注進に行ったものでした。
職員室に立たされました。
当時、男子の間ならともかくも、 女子が男子をいじめるなどということは、有ってはならないことでした。
そのうち、お昼になり、生徒は持参した弁当を食べるか、 家に帰って食事してくることになっていました。
私は、いつも帰っていたので、このまま立たされたままならば、 母がまた怒るに違いないと、内心そわそわしていました。
そこに校長先生がやってきました。
「ご飯、食べに帰るのか」 「そうです」 校長先生は、こちらのほうを困り顔で見ている 宮沢先生をちらりと見て言われました。
「宮沢先生と、お母さんとどっちが恐い」 「それは、お母さんです」 「どうして」 「先生は叱っても叩かんですが、お母さんは叩くから恐いです」 すると、校長先生はうなずいて、「食べに帰ってこいよ」と言われました。
助かった。
先生に会釈して、家に走って帰りました。
食べてもどり、また職員室に立っていますと、次の授業が始まる頃、 宮沢先生が「もう教室に帰ってこい」と言ってこられました。


《千光寺、花見の過》

幼い時の思い出は辛いことばかりではありません。
月に二日くらい休みの日があって、友達と一緒に山へ行ってかくれんぼしたり、 ガンの実採りやハツタケ採りやショーロ探しに 夢中になって楽しい一日を過ごしたことなど。
でも、友達といっても、名はニンヤのトラさん、ツジのヨッさん、 それにマモルさんといった男の子ばかりでした。
女の私も男の子に負けないいたずら者で、 かくれんぼの時などは松の木のてっぺんまで登って、 下のほうで一生懸命探す友達の有様を見て楽しんだりしました。
五年生の春終り頃、尾道への遠足があって、千光寺へ登りました。
そこには、サクランボがたわわになっていました。
昼食後、友達が下枝付近のサクランボを食べておいしいと言ったので、 私は高いところのほうがもっとおいしいと思い、桜の木に登りました。
すると、下から友達が「神原。
ぼって落としてくれ」と言うので、 気のいい私はどんどん落としてやったのです。
ところが、明くる朝、二時間目が終った頃に先生が、 「昨日尾道でサクランボをぼって食べた者、全員廊下に立て」と言いました。
言いつけを守って食べなかった級長を除いて生徒全員が立ちました。
先生からは、千光寺の桜守が怒って来ていると聞かされました。
お昼になっても食事をさせてくれませんので、 私は家へ帰って食べなければ困ると思い、 「私は家に食べに帰ってくる」と言ったら、 生徒は皆「そんなことをしたら先生に叱られる」と言い、 中には泣き出す人もいました。
でも、とうとう私も、僕も帰ろうと言い出し、 しまいには全員帰りたいと言い出しました。
そこで私は、「なら、みんな帰れ。
残ると先生に叱られるだけだから、 みんな帰れ」とそそのかしました。
こうして集団脱走となったのです。
みんなで校門を出ようとすると、先生がそれを見付け 「おーい、待て待て」と言って走ってきました。
私は、「後戻りしたらひどく叱られるだけだから、早よ帰れ」と怒鳴りました。
こうしてみんな帰ってしまいました。
明くる朝の朝礼の時、遠足に連れて行った引率の先生三人が 辞職のあいさつをされました。
学校の裁定は、先生が十分注意しなかったことが悪かったというのです。


《校長先生の思いやり》

学校は楽しかったけれど、家に帰れば家の仕事がいくらでもありました。
とくに春と秋は母が寝たきりになりました。
そこで、一日の日課は、朝四時半までに起きて 夜が明けるまでに食事ごしらえ、拭き掃除して、 海岸に行っておむつ洗いして水で濯いで干します。
それから隣の庭先から水汲みに行って、 大きな水瓶にいっぱい汲んでおき、 朝ご飯を食べてから、弟の着物を着せ、履物の用意をして、 私のこしらえをして学校に行きます。
畑仕事も、秋は麦まき、冬は麦踏み、 夏になれば麦刈りとなかなか忙しいのです。
畑は二か所にわかれて一反歩ほどありましたが、 私一人でサツマイモを植え、 収穫時にはそれを掘り出して担いで家に運び入れ、 床下にこしらえた一間半くらいの芋坪に二百貫目ほど入れて保存し、 それを一家の毎日の主食にしました。
夕方は一家の食事の用意をし、日暮時になると父の船が戻ってくるので、 一緒に荷上げして車で藤江の商店に運びました。
そして、父と私の夕食はいつも九時頃になりました。
そういうわけで、じっとしている授業中は、眠くて眠くて仕方ありません。
他の先生のときは、あまりしなかったのですが、 校長先生の理科の時間中には、疲れていたので 机の前に本を立ててよく昼寝をしました。
でも、校長先生は、私の苦労をわかっていて、 いつも見て見ぬふりをして下さいました。
だから、理科の授業にはほとんど身が入らなかったのですが、 ある日こんなことがありました。
休憩時間中に、校長先生が運動場にわざわざ呼びにきて、 「はっちゃん、ちょっときなさい」とおっしゃる。
何かと思い、付いていくと、「花壇の隅に、 芽が出ているから見てくれ」とおっしゃる。
空豆の芽で、抜いてみてもよいというのです。
「はあ、そうですか」と抜くと、これは何でどういうものかを説明してくださり、 その時は終わったのでした。
ところが、すぐ後の理科の時間に、校長先生は教壇に立つやいなや、 黒板に先ほどの見た空豆の芽の絵を上手に書かれたのです。
そして「誰か、これがわかる者はいるか」と生徒たちにおっしゃいます。
他の生徒が首をかしげている中で、根が単純な私は、 思わず手を挙げてしまい、「先生。
それは空豆です」と大声で答えました。
すると、「おお、ようわかった」と皆の前で誉めて下さいました。
こんなことがよくあり、おかげで私はだんだん理科が好きになり、 野菜作りが好きになりました。
いま、畑作りが得意なのは、そのためなのです。
校長先生は、御芳名を桧垣忠三郎といい、 後に神助の功労者として、昭和天皇の拝謁を賜り、表彰を受けられました。
文部省から松永の高等女学院の校長職を勧められましたが辞退され、 一小村の小学校の校長を通されました。
後に地元の愛媛県の大島に帰られて、 八十一歳か、八十二歳でなくなられました。
私は、昭和三十年代のいつだったか、墓参りに行かせて頂きました。
先生がなくなられて、八年の後でした。
墓はほこらとなっており、賽銭が捧げられていて、 参拝者が絶えないのか、二本の花立てには一番新しい花が供えられ、 周りにはやや古くなった花がたくさん置かれていました。
ここで、悲しい話を一つしておきましょう。
私が十才の頃、母はふきよという初めての妹を生みました。
一つになる頃、疱瘡の接種をしたその日に熱を出し、 不思議なことに、蒸かし終えた薩摩芋を持ち上げると、背に負うようにして、 はいはいをしながら、家の心柱(大黒柱)の周りを何回も何回も巡るのです。
芋を落としては乗せることを繰り返しながら。
そして、翌日あっけなく死んでしまいました。
幼くして死ぬ者は、自分の身に起こる不幸を察知して、 最後にこの世に対してできるだけの奉公をしようとするもののようです。
その哀れさが当時の私にもひとしお理解できて、 私は学校と家との行き来の途中で、ふきよの墓に立ち寄って手を合わせ、 「ふきちゃんよう、かわいそうに、どうして死んでしまっただいや」と、 石壇に顔をすり寄せて泣いたのでした。


《卒業後、仕事、習い事》

私が小学校を出た年、次女の百合子が生まれました。
母はまた育児にかかりきりとなりましたから、 私は替わって家の作業場に備え付けられた織機の前に座って、 畳の上に敷く上敷き織りの仕事をしました。
ちょうど反物を織る機織機の要領ですが、 四寸半の間に七百五十本のいぐさが入るように織り合わせていくのです。
それを朝の四時から、夜の九時過ぎまで織り続けて、 一日六間以上の上敷きを織り上げるのが日課でした。
それも合間に畑仕事や家事の手伝いをやりながらでした。
そして、一枚の上敷きの長さ二十一間三尺を三日間で織り上げないと、 ひどく叱られ、ときには夕食を食べさせてもらえないこともありました。
十九才で嫁ぐまでの間、年がら年じゅう仕事に明け暮れていましたが、 何のお稽古事もできなかったかというと、そんなことはありません。
小学校を卒業して、一年ほど後のこと、校長先生が、 暇のない子供らのために自宅で夜学を開くことにしたので、 来るよう言ってこられました。
それで、私も自分の仕事が終わってから、 小学校に隣接していた先生宅へ行き、 何人かの生徒に混じって手紙の書き方と算盤を習いました。
手紙の練習は、将来みなが困らぬようにとの、先生の配慮からでした。
算盤は足算、引算、掛算、割算を習いましたが、今憶えているのは、 よく使うことのあった足算、引算だけになってしまいました。
また、たしなみとして、百人一首を教えてくださり、正月の時などは、 かますに三袋もの蜜柑をかけて、 みんなと取り合いをして楽しんだものでした。
これは、二年間ほどのことでした。
夜学にいる間に、ひどい嵐になったことがありました。
そうしたことは二度ばかりあったのですが、校長先生は、危ないから 泊まっていきなさいと、私の家のほうに電話を入れておいて下さいました。
二階の部屋で、先生と奥さんの間で寝かせてもらいました。
翌朝起きると、先生も奥さんも居らず、時間も経っていてあわてましたが、 後から思うと、たまには寝坊しなさいという先生の思いやりだったようです。
電話といいましたが、むろん私の家にあったわけではありません。
前の浜の家並みは、三十軒ほどの家が、向かい合うようにして 軒を並べており、そのいちばん角の大きな家が、 大本さんという県会議員さんの家で、そこだけに電話が引かれていました。
少し離れてはいましたが、この界隈の人あてに電話があるたびに、 大本さんの家人が気よく駆け回ってくれていたのです。
また、私の家の裏に、伊勢さんという学校の先生をしていたお姉さんがいて、 時折、琴やテニスを私に教えてくれました。
こうして私は、結構何でも一通りやってきたのです。
やがて、伊勢さんは、大本さんのところに嫁入りされました。
私は水泳もしましたが、あまりぱっとしない思い出が残っています。
前の浜とは地名ですが、まさにその通りで、 前の家を隔てた向こうが浜辺で、父の船も一艚置いてありました。
夏の暑い盛り、私は、泳ぎたくてたまらないときが何度もありました。
でも、母はなかなか許してくれず、せがんでようやく 「十五分だけならよい」という許しをもらいました。
浜辺に飛んで出ましたが、当時は着物、帯、襦袢と色々着込んでいたから、 どんなに急いでも脱ぐのに五分はかかりました。
むろん着るのは、それ以上かかったはずです。
私は、急いで停めてあった船の鞆から飛び込み、 十メートルほど向こうにある碇のところに行き、 碇綱を持って戻りかけると、時間を推し量ったように 母が百合子を抱いて岸壁に立って待っている姿があり、 「はよう上がってこい」と叫んでいました。
いつもこんな調子だったから、海辺に育ったとはいえ、水泳が不得手で、 未だに犬掻きしかできないでおります。


《文明開化の話》

私が上敷き織りをしていた頃に起きた出来事です。
昼間はよいが、夜間は、はじめのころ石油ランプで明かりを採っていました。
それは、芯を置く皿が金物のため、周囲こそ明るいですが、 真下が暗かったのです。
私が十四才になったとき、松永から沼隈郡一帯に電気がきました。
貧しい家ではたいてい、十燭光の電灯がともされました。
それは、今からすると、便所で頼りなく灯る電灯ほどに暗いものでしたが、 ランプの不便さよりははるかに良いもののように思えました。
油が切れることもないし、真下も明るかったからです。
裕福な家庭は別として、普通はどこでも電灯が一つで、 夕方暗くなるとそれをともし、夕飯のときはそれを居間に移動して みな集まって食事し、お客が来れば客間に運んでみなでお相手し、 仕事のときは仕事場の織機の上に吊して、 このときばかりは仕事する私の専用となりました。
どの部屋にでも持運びができるよう、電線は十分長くとっていたのです。
しかし、えらく便利なものが出来たものです。
ランプなら、その日予定した分量の石油が尽きれば、 それで仕事も終わったのですが、 一度つけたら最後、一晩中ともっているものだから、 どこの家でもてっきりそれに合わせるものだと思ってしまったようです。
私の家では、夜の十二時までは誰が、十二時から朝までは誰が、 という具合に、交替で仕事をするようになりましたし、 松永のどこでもおよそそんなふうで、 一晩中小さな明かりのともっている光景があちこちで観られたはずです。
ところが、半年もすると、どこの家から言い出したものか、 電灯というものは一晩中つけていなくても良いという噂が、 たぶん町の寄り合い場あたりから広まったようです。
やがてどこの家庭も、元のやり方に戻していったのでした。
こうして、どこの家庭でも、電気革命は始まったと思います。
そして、すぐに二十燭光になり、また四十燭光へと換わっていきました。
また、大正天皇の御大典を祝して、 アメリカからはるばるスミス飛行士が飛行機でやってきて、 下関から汽車の線路に沿って東京まで飛行して見せなさるということで、 巷はその噂で持ちきりになったことがありました。
だいたい、飛行機自体誰も見たことがなく、図鑑か何かで こんなものだというぐらいしかわかっていなかった時分のことです。
その日は朝から近所の人たちが、普段外へ出ない人も含めて せわしなく表へ出ては空を見上げて、 「いつくるんやろ」とか「まだこんようやな」とか話をするので、 ふだん静かな空もざわめいていました。
珍しいことなので、私も上敷き織りの仕事を一仕切りやっては、 外へ出て空を眺めてみるということを、何度も繰り返していました。
だが、いつまでたっても来る気配はないので、 昼も回ってからは半ばあきらめて仕事に専念していますと、 三時を回った頃です。
外が急に騒がしくなりました。
隣の奥さんがわめきながら、うちに来ました。
「来たよ。
来たよ。
早うせんと行ってしまうよ」と。
急いで外へ出て皆の見ている方角の空を眺めてみると、居た居た、 ちょうど蚊とんぼくらいの大きさのが去っていくではありませんか。
すぐにそれは、雲の中に見えなくなりました。
こうして娘じぶんには物珍しさで遠めに見た飛行機でしたが、 太平洋戦争期には栗田(京都府宮津市)の航空隊で 毎日のように間近に見ることになったのです。


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