テンサウザンド イコール ミリオン

                作 / 歌野 ゆう

    第一部





―序―

蒼い
空が蒼い
月が二つ?寄り添うように、
綺麗ね、あんな風にいつも一緒にいたのに…
誰なんだろう、誰?思い出せない…

−1−

「シュナ様、シュナ様!。」
「えっ?」
「又ですか?考え事。」
「えっ、ええ。なんでもないのよ。」
「しっかりなさってくださいよ、今日はお兄上の立太子の儀なのです。シュナ様の事も皆様が注目していらっしゃいますよ。お祝いには隣国からもたくさんのお客様がおみえになります。いずれシュナ様もお輿入れなさる日がくるのですから、少しは女らしくしていただかないと。」
「ふふ、今しっかりとおっしゃったのに、今度は女らしくですか?」
「だから…」
「お小言は後で頂戴しますわ。」
シュナは翻るように駆け出すと、部屋を出ていった。女官長の引きとめる声が響き渡ったがお構いなしだった。扉を閉めると渡り廊下から昼の月が見えた。立ち止まった。
「綺麗な月、本当に綺麗。大好き…」
大きく伸びをするとまた駆け出し、突き当たりにある兄の部屋に飛びこんだ。
思わず息を飲んだ。そこには昨日までの少し幼さを残した兄とは別人の皇太子と呼ぶにふさわしい威厳を備えた青年がいた。胸には王位継承を指し示す首飾り。菊の紋章。部屋は窓が開け放たれ、さわやかな風が流れこんでいた。格子棚の上には美しいサファイヤの花瓶が置かれ、生けられた花々は芳しい香気を放っていた。
「やあ、おてんば姫君の登場か。今日は大人しく出来そうかい。」
「にいさま、すてき!」
シュナは思わず兄に抱きついた。太子付きの女官が露骨に嫌な顔をし、咳払いをした。
「わかったよ。後でまた昨日の夢の話をゆっくり聞かせておくれ。どんな夢をみたの。」
「えっと、昨日は…あのね。私にそっくりの男の子がね…」
「もうお時間ですよ。シュナ様もお支度を。」
女官の声にさえぎられ、シュナは口をつぐんだ。シュナは夢を見るのだ。すごく不思議な夢。それを毎日兄に聞いてもらうのが日課だった。だがこの状況ではかないそうになかった。
「また後でね。」
シュナは後ろ髪を引かれる思いで、部屋を出ていった。昨日の夢が甦ってなにかに酔ってしまうような気がした。不吉?そんな予感がした。
「私にそっくりの男の子が私に会いに来る夢なの、でもね本当は…本当は会ってはいけないの…」
つぶやきを胸にしまいながら、シュナは部屋に戻って行った。

−2−

「シュリ!起きろシュリ、時間だぞ。」
「「うっう〜〜ん。」
「まったく、お前は寝坊だけが取り柄だな。」
「カオル、もう少しだけ寝かせてくれ。今いいとこなんだ。」
「なんだ、またあの女か?夢ン中の女に惚れてどうすんだ。俺はお前の方がいいぞ。」
「ばっ馬鹿やろう。めっ目が覚めたよ。いいとこだったのに…もう少しで扉が開くんだ。」
シュリはポリポリと頭を掻きながら、残念そうに体を起こした。細面の、男にしておくにはもったいないような、美しい顔立ちが印象的だ。だが華奢過ぎて、戦士というにはやや頼りない。それに対してカオルと呼ばれた男は恰幅も良く、いかにも屈強そうだ。しかしあくまで人が好い。
「扉?今どこまでいってんだ。」
「だから、塔の上まで行って、扉をあけてるとこ。」
「だったら、なんで中の女が見えんだよ。」
「わかんねえよ。時々入れ替わんだよ。俺がその女になってんの。」
「不気味〜〜〜わけわかんねえ。毎日夢の続きを見るだけでも不気味なのに、
その上その女と入れ替わるぅ。」
「そりゃ、双子だな。」
テントの壁際に座った男が言った。浅黒く焼けた肌に、鍛え上げられ、余分なものが削ぎ落とされた筋肉質の体は、まさしく一級の戦士だ。
「なんだって、双子!?サキ、なんでお前そんな事知ってんだよ。」
カオルがすかさず口を挟む。名指しされた男は何も言わず、静かに剣を研ぎ続けていた。
「双子?」
シュリは遠い記憶の中に、そんな存在を探した.だが記憶はあるところまで行くと、ポ;ッカリと口をあけた宇宙の暗闇のように何も見えなくなった。
「双子にはそんな力があるという、同じ夢を見たり、時に魂が入れ替わったり。」
「だったら、良かったじゃねえか。きっとシュリにはそんな肉親がどこかにいるんだよ。捨て子、捨て子って馬鹿にされてたけど、夢の話を聞いてりゃ、相方は高貴なお姫様だってえじゃないか。シュリが王子様だったら、俺達は王子様のお友達だぜ!サ・イ・コ・ウ。」
「お前、ほんとに調子いいな。」
シュリは苦笑いをしながら、テントの外へ出た。360度一面の砂漠だ。朝だというのに熱風が、体にまとわりついて吐き気がした。
「あのこが、双子?信じたくないな。だったら俺の妹だ。抱く事もできない。」
登り始めた太陽が容赦なく、シュリの体を突き刺した。
「暑くなるな今日は…俺は今どこだ?どこにいる?彼女の近くか…?繋がるものがあるとしたら…」
シュリは胸にしまった小さな短剣を取り出して、二重に覆われた柄をはずした。本物の中の柄には、何か紋章のようなものが鋭くえぐり取られた痕があった。わずかになにかの花びらのような模様がのこっている。眉間の傷が不思議に痛んだ。何か傷をつけられ、縫い合わせられたような痕が美しい顔に痛々しく残っている。そっと傷に手を当てると、ふとある考えが浮かんだ。
(この傷は、この紋章を削り取った刀と、同じものでつけられたんだろうか?)
当分答えの出そうにない疑問をねじ伏せながら、シュリは出発の支度をしに戻っていった。シュリ達は今、半島で強大な勢力となりつつある、スサの王の前線部隊に属していた。いよいよ数日中にシュメールの城壁をくぐる予定だった。シュメール、黄金の都と人々が噂する国。高度の数学、天文学をはじめとする、さまざまな宇宙の神の叡智に支えられ、豊かな農業、高度な生活技術が惜しみなく活用されている。人々の生活は豊かで、大運河を通じてありとあらゆる物資や、山海の珍味、宝物が塀の中に集まってくるらしかった。両陛下は有徳の方らしく、政治は古代の叡智を守り活用する長老部と、人民の代表達による、二院制議会に支えられている。物語にでも出てくるような平和な国だ。世界中の書物を集められているという大図書館にはぜひ行ってみたいものだ。知りたいことだらけだ。だがいまだ、塀の外にいるシュリ達には無縁の遠い場所のように思えた。

―3−

砂漠の果てに命が息づいていた。
命というにはあまりに、むごく、おぞましく、いたたまれぬ存在だった。
まるで、生殖機能だけの存在、ひたすら増殖することが目的の。
女が見たら、卒倒するに違いないような…
不気味なリンガの化け物。
遠い宇宙空間を旅して、この星に流れつき、
ただひたすらにその本分の、増殖だけを求めていた。
だが、そこに交わる相手は無かった。
どうすれば、生き延びられる、どうすれば…?
そうだ、我の思念を飛ばすのだ。
都合良く、この星には人間という憑依しやすい、だまされやすい存在がいる。
より多くの存在へ、より遠くへ飛ぶのだ。
思念なれば、いかならん壁もこえるぞ…

―4―

「ですからウズノ殿の立太子は役不足だと申し上げているのです。」
「何故に。」
部屋には、長老と呼ばれる人々が集まっていた。
「王位継承者には、代々ひたいにじゅ眼が顕れるのが常、我らが竜眼ともお呼びするその目は、見えないものを見、竜耳は聞こえない音を聞く。それなくしては、シュメールの王とはいえませぬ。我らの先祖がおられたいう、ムウ、アトランティスの二つの大陸が塵と消え、宇宙の神々が巡行されたという天の鳥船のお姿も見えなくなって久しく、神々のお示しになられた、古代の叡智は年々失われております。その上に神の証、竜眼を持たぬ帝王などとは。」
「しかし、古代の叡智の継承は滞り無く。ウズノ殿は聡明な御方です。学びもまるで水を吸い込むように…それになんといってもあの穏やかで、安定したお人柄は、平和なこの国にふさわしい人物。」
「確かに平和なれば…でもそれもいつまでか?スサの王が、ウズノ殿の立太子の礼を良い口実に陛下に会見を申し出ておられる。あの強大な勢力は日に日に隣国の地図を塗り替えて、この難攻不落の都に迫る勢い、五分と五分の勢力となった今、塀の中に入れぬ口実を作る事も難しくなってきておる。もしウズノ殿が、役不足と判断されれば一気に翻り、攻められるは必定。書物をいくら紐解いても、力の継承は意味が違う。じゅ眼無き者にはおぼつかぬわ」
「しかし現にじゅ眼は顕れなかったのだ。」
「だから、言ったのだ早まるなと。」
「早まるな?」
「17年前の…」
「それは、長老部全員一致の結論だったではないか。」
「17年前、紅き星が現れたのだ。しかも帝王を示す。北斗の柄杓星の横に。」
「国が乱れる証。流さでおれるか?お主なら…しかも男と女の…」
「いざとなったら、巫女姫がおられる。シュナ様の夢見の力はまさしく神の力を継承されたもの。ウズノ様を退けて、シュナ様を形だけでも女王にすれば、皆も納得しよう。あとは我らで。」
「そのとうりじゃ。王は形で良い。鳥船の訪れぬ今、誰に口出しされる訳でもない。神政になんの意味があろう。」
「それじゃ。それじゃ…それにしても頭が痛い、主もか、どうしたのか…」
長老達の間に、重苦しい得体の知れぬ不穏な空気が流れた事に、今や誰も気づくものはなかった。

―5―

焚き火を見ていた。
紅い火、紅い…
懐かしい、何故?
紅い星?
ああ僕はどこにいるの?
君は…君は…誰?
僕は君を知ってるよ。昔、確かに会ったよね。
君は僕を優しく抱きしめてくれた。
傷ついた僕を、看病してくれたんだ。
どこで?この星じゃないよ。もっと遠いところ。
紅い星が見えたね。とっても近くに、大きな紅い星。
少しだけど二人で暮らしたよね。
約束したんだ。
僕達は、本当は敵同士で、みんなには内緒で暮らしていたから。
もし離れ離れになってもわかるようにって、一緒におまじないの言葉を覚えた。
「あれがリゲル、天の女王様の星さ。白くて凛と輝いて、
じゃあ僕は?僕はベテルギウス。えっ紅い星?不吉な星。世の中を変えてしまう。あの星なの…?でも僕らにとって大切な星には変わりないさ、決して忘れないで…覚えていたらまた会えるよ。きっと。きっと。」
…でもそこももう消えてしまったんだって。
星の海に飲みこまれちゃったんだ。
何故?
想い出は消えないのに、星は、宇宙は消えてく。
確実に、確実に…
宇宙が消えたら、僕らも消えるの?
君に、君にこのまま会えないまま?
君に会いたい…
会えないままじゃ…
ああどうすればいいの?

―6―

「シュリ!シュリ、おい聞いてんのか?」
「えっ…何を?」
「なにって、鳥船のことだよ。鳥船。」
「鳥船って、あの神々の乗られるという?」
「そうだよ、その鳥船を見たやつがいるって言うんだぜ。我が隊にな。砂漠の果てに消えてったらしい。」
「でも天の鳥船はもうこの星を訪れなくなって久しいと聞いている。」
シュリは幼い頃の記憶をたどっていた。葦船に紅い布に包まれ、短剣だけを添えられて、流されていたらしく、ようやくチグリスの川岸に引っかかっていたところを、スサの王の家臣に拾われたのだ。スサの王はなぜかシュリに目をかけてくれ、一通りの読み書きや、算術を学べるようにしてくれた。シュリは賢かった。そのうちに学士たちに目をかけられ、古代の叡智を学ぶようにと勧められた。はじめは自分には過ぎた話だと辞退したが、手ほどきを受けるうちに、虜になった。天の鳥船の話はその中で学んだのだ。かつて神々がこの星におられた頃、鳥船は大空を巡行し、各地を訪れ、その先々で神々の指導が行われた。神官たちはそれを書き取り、わかりやすく民衆に伝えた。時にホログラフのように神々の虹のようなお姿が拝見出来ることもあったという。神々の言葉はまるで、波のように人々に伝わり、人々はありがたさに涙したという…しかし二つの大陸が海に沈んだ頃から、訪れる鳥船の数は年々減り、やがてその存在すら伝説になろうとしていた。最後に目撃されたのは17年前に、空に異様な紅い星が現れたときだったという。
「神々は我らを見捨てたかな…」
サキがつぶやくように言った。
「なんだって、聞き捨てならねえな!今から行こうとしている、シュメールは神の国だって言うぜ。代々の陛下は、神の証の竜眼を持っていて、我々には見えないものを見、聞こえない音を聞き、予言すらなさるという。第一我らのスサの王にだって、角があるじゃねえかよ!神の証しのよ。」
カオルが反発した。
「異形は神の証しか…」
シュリは学士に教わった事を、なぞるように反芻した。
「違うな、それは。」
「何が違う!?スサの王は神じゃないっていうのか?」
「そういう意味ではない。スサの王はあの角にご自身の能力を封印されたのだ。そして我らと共に歩こうとされている。シュメールは違う。神の子が神の力で、政治を取っているのだ。」
「神の力で…」
聞き返したシュリの額に、突然サキのナイフがつきつけられた。
「何をするんだ。」
「何ともないのか?」
「何がだ。」
「フッ、お前気をつけろよ。幽霊のついたような顔をしている。ここからは真剣勝負だ。忠告しておく。もう体から魂を抜くのは止せ。いざというときに動けずに命取りになるぞ。」
「なんのことだ。」
「夢だ。お前、夢に魅入られてるな。ここにいるのは本当にシュリ、お前か?」
「馬鹿を言うなよ。」
サキの手を振り払いながら、シュリは少し不安になっていた。
(時々自分がどこにいるのかわからなくなる。僕が彼女で、彼女が僕で…)
不安を振り払うように、シュリは焚き火の、最後の埋火を消した。明日は早い。もう寝なくては…

―7―

夢の中で、あの人が入ってくる、扉を開けて。
いつも、いつもあの人が来る。
私はどこにいるの?何、この部屋?
変な部屋、狭くてなんにもなくて…窓が一つ。
ただベッドだけ。嫌だな。
嫌な感じ。でもあの人は好き。
みんなと違ってなんにもしないから。
いつも約束守って来てくれるから。
ただ優しくお話をしてくれる。
笑顔が素敵ね。ふふふ。
私達似てるよね。そっくり。
違うのはその額の傷。痛そうね。
なに?目なの?本当は目?
開かないの?どうして開けないの?
…不幸になる?誰が?私が?みんなが?
私不幸じゃないわ。何故?
ここにいるから、あなたがいるから…
あなたとならなんにも恐くないよ…
夢?夢なのこれ?
重苦しい、体が重い、まだ戻ってこられない。少し待って。
わかっているの呼ばれているのは。わかっているから…・

―8―

 気がつくと自分の部屋だった。いつのまにか疲れて眠っていたのだ。兄の立太子の礼は滞りなく終わった。兄はシュメールの、力の継承の為に今夜は塔の最上階で眠る事になっていた。その塔はジックラードと呼ばれ、そこに神霊が降り、中の者と交信し、皇太子は名実ともに、皇位継承者として皆に認められることになるのだった。そうなるはずだった。しかしさっきからの異様な外の物音は事態の急変を間違いなく示していた。(何、何が起こったの?)シュナは重い体を起こし、急いで部屋から出ようとしたが、訪れた大臣に遮られた。
「シュナ様、今しばらくここに。」
「何?何かあったの?」
「いっ、いえ、なにも。大丈夫です。ふとどきな賊が侵入いたしましたが、無事取り押さえました。シュナ様が足をお運びになるほどの事もございません。」
「賊?そんなものがここへ?嘘よ!賊など入れるはずがないわ。何かあったのですね。兄様は?兄様は大丈夫なの?お父様は?お母様は?」
本能のようなものが働き、シュナは大臣を振り払い駆け出そうとした。しかし、彼の必死の腕にわしづかみにされ、取り押さえられ、阻まれた。
「何をするの?無礼な。」
シュナが、彼の腕を振りはらおうとしたとき、なにかねっとりとしたものがシュナの手のひらについた。恐ろしい感触にゾッとして、手を広げると、そこには大量の血がこびりついていた。シュナは絶句し、大臣を見つめた。大臣の肩が大きく震えていた。
「驚きません。私も陛下の娘です。正直にあったことをお話しなさい。」
シュナの驚くほど冷静な姿に打たれた大臣は、重い口を開いた。
「陛下、妃殿下は何物かに襲われ、ご崩御なさいました。皇太子様はいまだ行方がしれません。私は今日、陛下の用事を言いつかって、外出しておりましたが、戻ってきましたら、あたりは血まみれで…」
シュナにはもう返す言葉は無かった。自分が壊れて行くような感触があった。崩れるようにその場にひざをついたシュナの前に、長老達が現れた。
「シュナ様、女王陛下。ただいまより急ぎ皇位継承の儀が行われます。さあ、塔へ参りましょう。ご神託をなにとぞ我らに。」
怒りと、絶望に満ちたシュナのまなざしが長老たちをしかと見返したとき、誰一人として、目を伏せるものは無かった。どんよりとした、得体の知れぬ黒いうつろな空間が、彼らの瞳を覆っていた。そこには神の国シュメールを影で支えてきた叡智を感じさせる輝きはもうどこにも無かった。

―9―

出して、ここから出して、
ここは嫌い、毎晩神様が来て、
私を抱いてゆく。
嫌い、好きじゃないの神様嫌い。
離して、助けて!
あなた。
どうして、助けに来てくれないの?
私はここにいるのに…あなた私のこと忘れてしまったの?
帰ってきて、ここへ帰ってきて!
私を迎えに来て。

私子供が出来たの、神様の子、宇宙よ。
でもすぐに流れてしまう。
何度出来ても流れてしまう。
壊れてゆく、壊れてゆく…
もう見るのは嫌!
壊れてゆく宇宙を見るのは嫌!
だから抱かないで、神様、私を抱かないで、お願い…

窓?
風が吹いている。優しい風。あの人みたい。
鳥がいる。鳥こっちへ来て、私の魂を乗せて、
鳥になればどこまでもいけるわ。
あの人が今どこにいるか探しに行くの。
待って、私を連れていって…

―10―

 城壁の中は、どんよりと重苦しい空気に包まれていた。かつて、地面から黄金の気が放射したとまで言われたその都は、今は歩く人々さえ、まるで息を潜めているかように少なかった。両陛下が原因不明の死を迎えたという噂は、瞬く間に街中に広がり、警備の手薄になった城壁は、流れ者のような人々の侵入さえ許しつつあった。しかしバザールに辿りつくと、そこには黄金の都にふさわしい、活気がまだ満ち溢れていた。
「さあ、腹いっぱい食って、次は女かな。楽しみ〜〜」
カオルは手当たり次第に、露店に盛り上げられた果物を、こっそりくすねていた。シュリはそんなカオルをはらはらしながら見つめていたが、心は空ろだった。昨日の夢は最悪だった。夢の女は真っ赤に目を腫らせて泣いていた。自分はそんな彼女に何もしてやることも出来ず、壁の外にいる。そこへ得体の知れぬ白い影や、黒い影が次々と訪れ、彼女を蹂躙してゆくのを、よりにもよってこっそりと見ているのだ。勘のいい彼女のことだ、きっと気づいている。もう絶対に嫌われてしまったに違いない…
「シュリはどうする。」
サキが幼い弟をからかうように、シュリを見て言った。
「どうするって?」
「決まってんじゃんかよ。俺の可愛いいシュリの相手は俺が決めてやる。」
カオルが身を乗り出してくる。
「ほら、あの子なんかどうだ、日に焼けていて胸やお尻もも抜群だ、シュリのような子供でもちゃんと教えてくれそうだ。黒い大きな目も可愛いじゃないか。」
「おっ俺はいいよ、勘弁してくれ、楽しんできてくれ〜〜」
シュリはするりと身をかわすと広場から駆け出していった。女でも抱けば忘れられるのか?いやとてもそんな気にはなれない。今の自分では娼婦に対してさえ申し訳無いような気がしていた。
 とぼとぼと道を歩いていたら、いつのまにか突き当りだった。シュメールが誇る運河のほとりに出ていたのだ。空は今、黄昏を迎えようとしていた。夕暮れの風がシュリの顔をなぞっていった。河岸一面に葦がびっしりと生い茂り、その向こうに豊かな水が流れている。ゆっくりと何事もなかったかのように船が川面を行き来していた。それを見ているうちに、まるで忘れていたことを思い出すかのように不意に眉間の傷がうずいた。
(僕は、僕はここを知っている?)
妙な赤ん坊の泣き声が耳にこびりついている気がした。夢の女をもう少し大人びた感じにした女が、涙をぬぐいながら、赤ん坊に短剣を握らせている。なんだ、この光景は?俺はこの赤ん坊か?だとしたらどうして自分でそれを見ているんだ?おかしいじゃないか?俺はいったい…おのれの想像に押しつぶされそうになった時、目の前の茂みから鳥が飛び立った。
「鳥?」
鳥はシュリの頭上を大きく旋回したかと思うと、急にスピードを上げ、空高く舞いあがった。シュリはその鳥についてゆくように視線を移していった。そして愕然とした。そこには何度も何度も、登っては失敗して降りてきた決して忘れることの無い、あの夢の塔があったのだ。鳥はそのはるか天辺にある、小さな窓にすいこまれていった。

―11−

 夜、シュリの属する前線部隊では緊急の召集があった。事を済ませて帰ってきたカオルは露骨に疲れた様子で不平を言った。サキは普段とまったく変わる様子も無く、まるで今までタバコでもふかしていたかのようだった。
「サキ、カオルと今まで一緒だったのか?」
サキはにやりと笑うと、隊長を指差した。
「シュリ、お前さんにとっては、朗報か?それとも地獄からの招待状が届くかも知れないぜ。どうする?」
サキの思わぬ言葉を聞き返そうとするシュリの声を遮るかのように、隊長が声を張り上げて話し始めた。
「シュメールの両陛下が、何者かに暗殺されたことはお前達も聞き及んでおろう。長老部のクーデターという噂もあるが、皇太子の妹君がつつがなく皇位継承された今、表立ってはなんの状況変化も無い、しかし前陛下と違って、この女王は我々の前に一度も姿を見せられぬ。スサの王も謁見を申し出られたが断られた。しかも様々な神託を次々発表しておられ、必ずしも今までのように友好路線のみのものではないのだ。今後どういう風に長老部の発表が変化してくるやもしれず。しかも、皇太子はいまだ行方不明だ。そこでスサの王は我々に密かに内偵を依頼されたのだ。どうだ志願者はいないか?一番難しいのは女王の身辺を探ることだが…女王は運河の側にある、ジックラードの最上階におられるらしい。」
シュリに衝撃が走った。考える時間は彼にはいらなかった。
「私がいたします。」
「シュリが、おう、かえって怪しまれぬかもしれぬな。いざとなったら、女でも化けてもぐれば良い。」
「皇太子の件は?」
「それは私が。」
サキが手を挙げた。
「それは安心だ、サキ頼むぞ。それでは、他のものも随時細かな打ち合わせをする。今夜はこれで解散。」
シュリは空を見上げた。星があった。満天の星だった。彼女に会える。きっと会える。それがどんな運命を僕に及ぼそうと知った事じゃない。僕は彼女に会いたい。あって確かめたい。君は本当に僕の探してた女?僕を呼んでくれてたの?僕を知ってるの?君と僕は…それも全部わかるはずだ。彼女に会えれば、きっと…

―12―

コツコツと足音が来る、また時間だ。今度は何を聞かれるの?
もう夢さえも見ない、限界。
大臣は優しいわ。私を特別な目では見ないし、いつも敬意を払ってくれる。
でも、ここから出してという私の願いは決して聞いてくれない。
ここから出たい。
もう限界。何日経ったの?お兄様はどこ?
このままだったら悪い事を考えてしまう。
この扉を壊して外へ出たい。
どうすれば出られるの?
外から誰かくれば…
敵でもいいわ。戦争でも起これば。
そんなこと考えちゃだめよ、考えちゃだめ。
もうすぐ夜、また神様が来る。
嫌だ…。
月?
月が見たい。
月になって会いに来てくれればいいのに。
あの人、来ない。
どうしたんだろ?
なにかあったのかな?
この頃ちっとも来てくれない。
私のこと嫌いになっちゃったのかな、
私が神様のお嫁さんになったから、
きっともう嫌いに…

―13―

ジックラードの調査を始めて、シュリはそこに侵入することが自分の夢を上回る難関であることを思い知らされた。内部は数々の迷路構造になっているらしく、しかも最上階の女王に謁見を許されているのは、御付の大臣ただ一人であった、女王は長老部とも直接会いたがらないらしく、大臣は食事や身の回りの細々とした世話さえ一手に引きうけているらしかった。シュリの美貌に簡単にイロイロな口を割ってくれた女たちの噂にも、皇位継承後の女王の姿を見たものは一人も無かった。これではせっかくの女装作戦もなんの意味も見出せない。最後に辿りつけたのは、月に一度、女王が月の障りに入られる時、一切の公務を休み、大臣に代わって女官が彼女の世話に入る時があるという噂だった。シュリは女達に、作戦の為に預かった宝石を精一杯はずみ、噂の女官に当たりをつけた。だがその女官はシュリの手におえるような相手ではなかった。頑固で、かたくなな性格が全面に出た風貌はシュリが思わぬことに口を滑らせれば、全ての計画が一気に露呈する事を間違い無く示していた。シュリは自分の計画の難しさよりも、塔の女王に同情した。なにか裏があると思わずにはいられなかった。大丈夫なのだろうか?そう思わずにはいられなかった。ついに強行作戦に出る事にした。女官について、忍んで最上階に上がり、女官が部屋に入っている間に扉に仕掛けをする。そしてあらためて忍びこむ。それしかなさそうだった。
薄暗い回廊を、ろうそくの灯だけが、女官の単調な足音とともに行く先を示している。複雑な扉のしかけを、いくつもくぐり、螺旋状になった階段を彼女は登っていった。石組の天井から、かすかに月の光が漏れている。女官は不気味なほどにまっすぐに前を見ていた。僕に本当に気づいていないのか?それとも全てわかった上で、わざと知らないふりをしているのかと思うほどに、単調な足取りだった。シュリは緊張と興奮に押しつぶされそうになりながらも、ここで見つかるわけにはいかないと強く思っていた。その強い思いが1歩、また1歩と足を前に運ばせていた。もし魂というものが本当にあるなら、今見つかれば絶対成仏できない!
やがて、その螺旋の石組階段は終わりを告げ、女官は重い石の扉の前出た。シュリは階段を上りきらずに地べたに這いつくばるようにして、ようやく身を隠した。ギィーっと重い音と共に扉が開き、彼女はその中に吸い込まれていった。シュリはすかさず上へ登りきり、扉につっかえの仕掛けを施した。そのとき中から争う声、というより一方的なののしりが聞こえた。
「出して、出してください!」
「お願い出して。あなたにも人の心があるのでしょう。だったら私をここから出して。お兄様に会わせて。」
「なんのためにこんな事をするの?私がなにをしたの?お願い出して!せめて一日でも一時間でもいいの、お兄様の無事を確認したらまた大人しく戻ってもいいわ。ねえ、聞いてください。」
悲痛な叫びにもかかわらず、相手は完全無視を決め込んでいるようだった。はやる心を押さえながらシュリは続けて聞き耳を立てた。
しばらくの間哀願は続いたが、そのうちに静かになった。長い沈黙の後で、女官の無表情な声が一つ響いた。
「あなたはシュメールの栄光ある女王です。」
物の投げつけられる音が辺りに響き渡ると、女官はあわてて逃げるように出てきた。大きくため息をつくと、嫌な事を振り払うように、乱れた髪を撫で付け、またあの単調な足取りと共にその場を立ち去っていった。

―14―

シュリは息を整えた。
いまだ決心がなぜかつかなかった。
本当にこの扉を開けていいのか戸惑いがあるのだった。
もしかしたら、僕と会う事が彼女の運命を変えてしまうかもしれない。
それは本当に彼女にとって幸せな事?
明り取りの窓からは、静かな月光が射し込んでいた。
辺りにはまるで、人の気配が無かった。
月と、天上ともいえるこの空間の、澄み切った空気だけが存在していた。
それは太古から今にと繋がってずっとそこにあるような気がした。
そこにあの女がいる、確かにいる。
それはわかっているのに、一歩が踏み出せないまま、たたずんでいた。
月、月が明るすぎる、このままでは良くない。
さあ、いかなくては。
今行かなくては、チャンスはもう二度と、巡り来ないかもしれない。
そしたら絶対後悔する。
シュリは迷いを振り切って石の扉に手をかけた。

―15―

 サキの調査もまた、難航を極めていた。サキにはシュリのような、天性の愛嬌があるわけでもなく、綿密な実地調査と、鋭い戦士の勘が頼りだった。サキがこの難しい役どころを引き受けたことには訳があった。一つは奇怪な事件に対する単純な興味だった。そして今一つはシュリの存在だった。この事件はシュリの秘密とどこかで繋がっているような気がしていた。サキは今まで自分の勘にだけは自信があった。それは長い間実戦を積んできた一級の戦士だけが持つことのできる、生き抜く為の勘だ。だがその勘もただ一人の男の前では狂わせられることがあった。人の気配を読むというのは、戦士にとってもっとも重要な事だが、シュリの気配は突然に変化する事があった。普段のシュリはさわやかな風だ、誰にでも優しく、人懐っこく、行軍の途中、道端に咲く花さえ踏む事が出来ない。そんなシュリの優しさを甘いと思いながらも、サキは密かに大切に思っていた。最後には逆にこの男を救うかもしれないとさえ思っていた。だが、シュリは時々心ここにあらずという表情になり、そんな時にシュリを観察すると突然に気配が変わっていた。匂い立つような、男の自分でさえ、ドキッとするような女の気配だ。カオルは何もわかっていないから、時々冗談で、シュリを抱きたいという。だがそんなものではない、あれは確かに女だ。シュリじゃない。そんな時シュリは決まって夢を見ていた。塔に住む不思議な女の夢。そしてその女に無意識のうちに恋をしているようだった。他にもいろいろシュリにはわからない事が多い。眉間の傷。二重柄の立派な短剣。あの聡明さ、まるで記憶を取り戻すかのように、古代の叡智を覚えたという噂だ。あいつは何者だ?サキはそれが知りたかった。今回の事件が、なにかのきっかけになる気がした。
 ようやく傭兵の一人としてシュメールの陣中に乗りこんだサキは、まるで噂話に耳を傾けるかのように、丹念に兵士たちの証言を拾い集めていった。両陛下の不信な死には目撃者の一人もいるはずだったが、そういう輩にはなぜか巡り合えなかった。ただ奇妙な話が幾人かの口からこぼれた。血まみれの部屋に入った時、異様なすえるようなにおいがしたというのだ。そして長老部からはこの事件に関して、厳しい緘口令がひかれていた。表面的には新しい女王の治世を乱さぬようにという配慮からだった。そして皇太子に関しては、こんな話を聞かせてくれる者がいた。
「ウズノ様には、神の御印の異形が顕れなかったのだ。しかもジックラードでの神との交流の夜は失敗に終わり、神のお怒りに触れられた。だからお姿を隠されたのだ。」
「しかし、立太子の儀が滞り無く済んでいたという事は、古代の叡智の引継ぎは済んでいたということだろう?」
「多分な、だがウズノ様の教育係は事件の夜、ジックラードに外からよじ登り、自殺されたのだ。今となってはわからん。」
「自殺!」
「ああ、飛び降りだ。」
「何の為に?」
「さあな、ウズノ様が神のお怒りに触れられた事に対して、責任を感じられたんじゃないのか?」
サキにはなにか心によぎるものがあった。何かが繋がりそうで、繋がらないもどかしさがあった。自ら死を選ばなければならないほどの何か?自分なら…?責任?確かにな。でも戦士なら…自ら死を選ぶのは秘密を知られたくないとき…
そうか!そうなのか。
「なあ、新しい女王様にお前会ったことがあるか?」
「ああ、女王になられる前はな。愛くるしいお姫様だった、我らのような下々の者にも分け隔てなくお話下さる、やさしい気さくな方だった。今の神託が、あの方から語られているというのは我らには信じがたい事だ。兵力の強化、強化とお前のような傭兵でさえ雇い入れるのだから。あの方は絶対的な平和主義者だった。花の一輪でさえ切ることを嫌うような。よく花の痛みが伝わるからと、こぼしていらした。」
「痛みが伝わる?」
「ああ、花が切られると、自分も痛いのだそうだ。シュナ様は、よく庭でぼんやりと樹を眺めたり、空を見たりされていた。我らが声をかけると、驚いたようにされるのだが、しばらく口をきくのに時間がかかる。遠くへ行っていたと不思議なことをおっしゃっていた。さりげなく不思議な事をおっしゃるのだ。能力という意味ではウズノ様よりあきらかに上だ。」
「どんな能力が?」
「夢見だ、古代から伝わる神々の技の一つで、魂を、時空を超えて飛ばすのだそうだ。我らが書物でしか知る事の出来ぬ古代の叡智を、実際に見たり、聞いたりしてこられるのだから、まさに神の力に違いない。」
「夢見…どこかで…魂を飛ばす。シュリ!」
そうか、シュリの探している相手はやっぱり彼女だ、間違いない。
「なあ、17年前にこの国で、葦舟に赤子を乗せて流したという噂は聞かんか?」
「赤子を葦舟で?聞いたことがないが、一分の迷信深い輩が、望まれぬ子が出来た時、葦舟に乗せて流すという。無事を祈り、遠い彼方の地で、大成してくれよという願いがあるそうだ。17年前といえば、ちょうどシュナ様がお生まれになった年だな。」
「えっ…なんだって!、もう一つ聞く、この国の紋章は?」
「菊花紋だが、何か?」
菊花紋!似ている、シュナ、シュリ。まさか!シュリ、彼女に会うな!彼女はお前の…
知っているのか?お前の…

―16―

 重い石の扉を開けたとき、彼女は外を見ていた。たった一つの窓からは余すところなく月光が流れこんでいた。それは寂しさをたたえた彼女の横顔を、優しく照らしていた。窓辺に鳥がいた。鳥は微かな扉の音にさえ驚いて、翼を広げて逃げていった。深いため息がもれ、怪訝そうな表情がこちらを振り向き、自分の視線と重なってはたと止まった。永遠に続くかと思われる沈黙の時間が流れた。
「あなたは誰?」
急な質問に答えが見出せなかった。答えられなかった。誰?そうだ僕は誰なのだ?わからない…その質問はなぜかシュリの心の深い部分まで届き、名前を答えるという単純な事が出来なくなってしまった。彼女が笑った。
「ふふふ、待ちましたよ。」
その言葉に急に肩の力が抜けた。
「待たせましたね。」
無意識にそう答えていた。そして二人はどちらともなく近づき、互いの顔を見合わせた。シュリは自分でも考えられない行動をとった。彼女の頬に手を伸ばし、そっと触れたのだ。そこには涙にぐっしょりと濡れた痕があった。
「泣いていましたね。いつも…」
「泣いていました。でも本当に来てくださるなんて。来てくださるなんて、嬉しい。」
彼女は崩れるようにシュリに寄りかかると、安心しきったかのように、体を預けた。心臓が早鐘のように打つのがわかった。シュリは彼女の手を取って、そっと座らせた。石造りの小部屋は東に向かって窓が開け放たれていた。遥か下は運河だった。真夜中の暗い運河の水が、煌煌と月光に照らされて、細波立っている。しかしそこは決してその窓から直接生きて辿りつける場所ではなかった。部屋にはただぽつんと小さな机が置かれており、そして主役ともいえる、あたりとそぐわぬ立派な天蓋付きのベッドがあった。その異様さが何の為に彼女がこの部屋に閉じ込められていたかを、痛々しく物語っていた。
「いつからここに?」
「もう忘れてしまった。」
「恐かった?」
突然彼女が泣いた。嗚咽だった。シュリは深く彼女を傷つけてしまったような気がして、どうしてよいかわからなかった。ただその声に番人が気づいてここに来てしまうことが恐ろしかった。
「しーっ、泣かないで、誰か来たら困るでしょ。」
彼女はすぐに泣き止み、しかも笑顔さえ見せた。
「私はシュナ、あなたは」
「僕はシュリだ。」
それから、二人は時のたつのも忘れて、互いのこれまでの話を尽きることなくした。初めて会ったはずなのに、話題が途切れることは決してなかった。暁はすぐに訪れた。シュリはその場を立ち去らねばならない時間が来たことを知った。
「必ずまた来るから。」
「本当に、本当に、約束よ。」
シュナは名残惜しそうに言った。いつのまにかまた目に涙をためていた。シュリは深く心をえぐられて、彼女を連れて逃げたい衝動にかられた。しかしまだ早いと自分に言い聞かせた。
「おまじないだ。」
そう言うとシュリは彼女を引き寄せ、額にくちづけた。
「私も。」
そう言うとシュナは背伸びしたが、はたと眉間の傷に気がついた。
「これは?」
「さあ、物心ついたときからあったんだ。」
「じゅ眼ね。じゅ眼を閉じてあるのよ。」
事も無げにシュナが言った。
「じゅ眼?」
「竜眼とも言うわ。天帝の証よ。あなたは捨てられたっておっしゃっていたけど、きっと神様の血を引いているのよ。」
「僕が?考えられない。」
「私も…普通に生まれれば良かったわ。そしたらこんな目に遭うことはなかったのに。」
「でも、普通に生まれていれば、きっと僕らは出会うことはなかった。」
「そうね。」
シュナは深く納得していた。希望が瞳に宿るのがはっきりとわかった。
「待てるね。」
「待てるわ。」
シュナは静かに立った。女王の威厳が戻っていた。彼女を残していくことへの不安は今日のところは消えていた。シュリは部屋を後にした。

―17―

 星の消えて行く暁の空を、カオルは見ていた。雲が異様な速度で流れていた。月はその雲に隠れては消え、また消えては現れることを繰り返していた。嫌な予感が胸を離れず、珍しく眠れなかった。シュリが帰らない。ずっと女王を内偵していたことは知っている。いつもはなんでもかんでもよくしゃべるやつなのに、今回の任務に関してはやけに無口だった。そのことがシュリのいつにない真剣さを物語っていた。だが、まさか今夜?カオルは悪い想像ばかりをしていた。シュリの細い体が槍にずたずたに突き刺されて、運ばれる姿を想像し、また打ち消すことの繰り返しだった。気がつくとサキがいた。サキも昨日の夜は遅かったはずだがこちらに心配はいらなかった。
「なんだ、サキか。」
「なんだはないだろ、ご挨拶だな。」
サキも無言で空を見上げていた。お互いに考えていることは多分一緒に違いなかった。だが口にするとそれが形になってしまいそうで、恐ろしくて口に出来なかった。夜営のテントを照らしていた月は刻々と薄らいでいった。最後の星も消えようとしている。もうすぐ夜明けだ。もう待てない!
「探しに行こう…」
カオルが言いかけたとき、地平の彼方がぼぉうと紫色に光っているのが見えた。まるで地面と天がシンクロしたかのように互いに稲妻を発した。サキが無意識に柄に手をかけた。だがその光は一瞬の輝きを見せると、急速にしぼんでいった。跡に人が倒れているのが見えた。
「行ってみよう。」
言葉と同時にカオルは駆け出していた。たどり着いた先には、見なれた顔の人物が濡れ雑巾のように、変わり果てた姿で倒れていた。
「シュリ!」
「ひどい熱だ。」
シュリの体の表面はまるでひどい火傷でもしたかのように高熱を帯び、芯は長時間水に打たれたかのように冷たく凍えていた。二人は急いでシュリをテントに運び込んだ。
「やめて…やめてぇ…」
シュリの悲痛な叫びだ。
「どうした、どうした!わかるかシュリ!」
カオルの呼びかけにシュリは答えない。そのかわりに瞳から静かに伝うように涙が流れた。
「夢を見ているんだ。」
サキは熱に浮かされるシュリの顔をじっと見つめていた。

―18―

僕は夢を見ている。
優しい夢だ。いい匂いがする。
側に君がいる。君も僕も赤ちゃん。
僕が笑うと、君も笑うよ。
母さんが子守唄を唄っている。
へえ、僕にも母さんがいたんだ。
なになに誰か入ってきたぞ、母さんとなにか話している。
母さんが泣き出した。母さんを泣かすと許さないぞ!
こいつ誰だ。そうだ、こいつについて行ってみよう。
どこへ行くんだ。この部屋どこだ。見覚えがあるぞ。嫌な感じだ。
あいつらがいる。なにか話しているぞ。
口喧嘩だ。でも良く聞こえない。
こいつの頭の中に入れば良く聞こえるかな…?
「ですから、若君を流したからとて、なんの解決にもならんというのです。妃殿下の受けられた神託が変わる訳ではない。」
「変えなくてどうするのだ、このまま受け入れろというのか?未来を。破滅を。」
「受け入れるとは申しておりません。でもそれと若君とはなんの関係もないのです。」
「主は第一王子の教育係でありながら、何故そのように第二王子の肩を持つ?」
「肩を持っているわけではありません。公正でありたいのです。それにあの二人は見えぬ糸で繋がっている。一人が笑えば、もう一人も笑う。時に同じ夢さえ見ているように見うけられる。そのような二人を引き裂けば、より大きな力で再び引きあいましょう。その力の方がよほどこの国の未来を揺るがすことになるやも知れませぬ。」
「では第一王子にじゅ眼は無く、第二王子にはじゅ眼がある。いったいこの事実をどう解決するのだ。」
「ともに育て、王にふさわしい方に即位いただけば良い。」
「理想論じゃ!ばかげたことを。第一きゃつは双子だ。しかも男と女の。言ってはいかんが不吉な存在じゃ。」
「無礼な!長子が王を継ぐと誰が決めたのです。双子が不吉だと誰が決めたのです。みんな主らの考え出した迷信に過ぎぬではないか。若君にじゅ眼が顕れたのは、神々の証、むしろ我らを破滅から救う存在として、神々が遣わされたに違いない。現にお二人の誕生に合わせて天の鳥船さえ直接おいで下されたのだ。」
「ならば結論ははっきりしておる、若君を流すことだ。」
「なにゆえに。」
「そのときの神託は以下の通り。」
―ワレハ、ナスコトヲスベテナシオエタ。モハヤツタエルコトハナイ―
「神々は我らを見捨てたもうたのだ。若君の誕生と共に!」
あいつが部屋を出た。急いで帰らなきゃ。
あいつが僕を抱く。
何?何をするの?
痛いよ!痛いよ!
額が痛い!
母さん僕を抱いてどこに連れていくの?
短剣?それ僕のだよ。あいつが柄を開ける。
「若君、何もできませなんだ。我に残されたことはただこれだけです。」
あいつは思いきり短剣の紋章をえぐり取った。
「一度引き裂かれるならば、再び会えぬ方がお二人の幸せです。」
あの子が泣いている。僕を呼んでいる。
嫌だ!あの子を一人ぼっちにしちゃう。
嫌だ!僕も一人ぼっちになるよ。
離さないで、僕らを離さないで…
僕らは、僕らは…やっとまた会えたのに
嫌だ!

―19―

「シュリ、目覚めたか!熱も下がっているな。」
そこにはサキがいた。暖かい手でシュナの額に触れた。カオルの作る暖かい食事のにおいが満ち溢れていた。
「ここは?僕は?」
「何言っているんだ、帰ってきたんだよ。」
「あの女は?」
「あの女?夢の女か?」
「会ったんだ。会えたんだよ。」
サキの顔色がみるみる変わるのがわかった。
「サキ…何?」
「いや、よかったな。それで、その彼女とは?なんだ、その…なにかあったか?」
「えっ?話したよ、いろいろ。」
「それだけか?」
「ああ、もう一度会うと約束した。」
「ならいいんだ、なら。」
「痛!なんだよこれ?針じゃあないか?」
「あっああ…お前の服、あんまりぼろぼろだったから、直しておいてやったんだ。」
「えっ…サキが?ありがとう。そんなことも出来るんだ。」
シュリのいつもの人懐こい笑顔に安心しながらも、サキは本当に縫い付けたものの正体をシュナに明かすことは絶対にすまいと心に誓っていた。

―20―

「今日はお加減がよろしそうですね。」
大臣が美しい花を花瓶に入れて入ってきた。この男はシュナの食事の世話に始まって、殺風景なこの部屋に居ても彼女の息がつまらないようにと、こんな細かいことにまで気を遣ってくれるのだった。
「ありがとう。そう見えますか?」
「はい、お顔の色もつややかで、御まなざしも力強く。このようなすがすがしいお顔を久しぶりに拝見しました。昨夜は良い夢を見られたのですか?」
「夢?…そうですね。そうかもしれない。」
「どんな夢なのですか?お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「夢がかなう夢です。とても優しい夢、ずっと夢見ていた、ただ一つの。」
「夢がかなう夢?それは素晴らしいです。良い治世へと繋がってゆくと良いですな。」
大臣は暖かいまなざしで笑った。心から自分のことを心配してくれていたことが、シュナに伝わってきた。ずいぶんとひどい言葉をいくつも投げかけてきたのだ。本当に申し訳ない気がした。
「一つお聞ききしてもいいですか?」
「はい、お答えできることでしたら。」
「あなたなのでしょう、私をここにいるように手配されたのは。」
「……」
「わかっているのですよ。あの夜確かに長老たちは私をこの部屋に連れてくるつもりでした。でもその後は…彼らの目的は違っていたはずです。私をかくまう為に?どうして…」
「………」
「…本を読みたいのです。大図書館の本を、一冊づつでいいわ。借りて来て下さらないかしら?」
「本をですか?なんの為に?」
「今まで兄にずっと頼りきりでした。毎夜神々は私にたくさんのことをお伝え下さるのに、私はその言葉を紐解くすべを持ちません。勉強してみたいのです。」
「古代の叡智をですか?良き治世に役立つことでしたら、協力いたしましょう。」
「約束しましたよ。楽しみだわ。」
女王は笑った。

―21―

 シュリが次にシュナの部屋を訪れた時、彼女は壁に体をもたせかけて眠っていた。いつもベッドには横にならず、そうして眠っているに違いなかった。月光に照らされて安心しきった顔をして…シュリは起こすことをためらった。彼女の膝には一冊の本があった。シュリが興味をもって手に取ろうとすると、シュナが目覚めた。
「まあ、来ていらしたの?起してくだされば良かったのに。」
「あんまり気持ちよさそうだったからね。」
「夢をみていたわ。」
「なんの夢?」
「おかしいの、今本で読んだそのままなのだけど…不思議な夢よ。あんな幸せな気持ちになったのは初めて。白と黒のような、あれは勾玉というのかしら?遠い東の国の貢物でいただいたことがあるわ。それが、暗闇の中でふたつ折り重なって一つになっているの、そしてくるくると回っているのよ。私はそれをうらやましく思って見ていたら、そのうち自分も白い勾玉になってしまうの、そして自分のかたわれの黒い勾玉を探すのだけれど、遠くまで探してもなかなか見つからなくて寂しい思いをしているの。そしたら急にあたりに光が指し込んで…まるで光の勾玉ね。神様の勾玉が現れるの。そして自分がまるで星々の海に浮かんでいるような気がするのだけど…その彼方にようやく黒い勾玉が見えるの。私の片割れだとすぐにわかったわ。それとわかるようにちかちかと光っていたから。私は全速力で泳いでいってそれに抱き取られるのよ。そしたら自分も、かたわれの黒い勾玉も光の勾玉と一緒に、くるくると回って、3つが不思議に同じように速くなったり、遅くなったりするからとても気持ちがいいの。でもね、そのうち時間が来たからと黒い勾玉は私から離れていくの。私はなんだかすごく寂しくなって黒い勾玉の名を呼ぼうとするのだけど、どうしてもその名が思い出せないの。悲しくなって目が覚めたら、そこにあなたが立っていらしたのよ。」
シュリは子供のように無邪気に語る彼女をいとおしく思いながら、手に取った本のページをぱらぱらとめくった。天の鳥船や、見たこともない亀の形をした乗り物の絵が難しい文章に添えられていた。
「これは?」
「これ?神亀と呼ばれる乗り物だそうよ。昔ムーとアトランティス、2つの大陸が海に沈んだ時、これに乗って脱出した人たちがいたんですって。わたしたちシュメールの先祖もそうだと思うわ。この乗り物は竜の形に変形や、分裂もして、空や、海、陸どこへでも行けたし、時空さえ超えることが出来たのよ。」
「時空を、何の為に?」
「さあ?」
「それは書かれていないの?」
「うん、書かれてないと思うのだけれど…自信ないな。でもこの本の一番大切なテーマは魂の融合よ。」
「魂の融合!」
「そうよ。昔ムーの人々はあまりに精神を求める余り、その部分ばかりが発達して、どんどん思念を広げ過ぎて、とうとう島の人々の魂は互いを求めて、本当なら増えていかなきゃいけないのに、一つになって寂れちゃったんだって。ところがそれを知らずにアトランティスから調査に行かれたスサの王が、彼らの魂にとりこまれそうになってね、それを拒んだスサの王の…スサの王は、元々は神様だし…霊体との間にすごい空間のひずみが生じて、ムー、アトランティス両方の大陸が沈んじゃったんだって。それで、スサの王は責任をとられて自らの力を封印され、ただ人になられたんだって。」
「サキの言っていた角か…?」
「人間は、魂を重ねて魂を生む。でも魂をやたらに融合してはいけないと、書いてあると思うのよ…」
今まで、演説口調で話していたくせに、急に自信なげになるシュナがおかしかった。
「あなたは魂を重ねたいと思ったことがある?」
「えっ?」
突然の究極の質問にシュリは答えに窮した。
「私は無いわ。絶対に厭。魂を重ねるなんてゾッとするわ。魂だけは誰にも汚されたくないわ。」
シュナは急に固い表情になり、きっぱりと言った。
「…その、今日は、神様は来ないの?」
「大丈夫よ。私大切なことに気づいたの。このベッドに寝なければ、神様はよほどのことでないと、こられないことがわかったの。」
「それでいいの?君の身に危険は無いの?」
「いいのよ。私も正直言って、神様のおっしゃっていることはまだよくわからないし、長老部がどうも勝手に神託を変えているような気もするの。それよりも大臣に頼んで、より良い方向へ導かれるようなお告げを作ってもらって、伝えた方がましなくらいだわ。」
「君は神様を信じてないの?」
「信じているわ、誰よりも強く。でも私の本当の神様は、ここへ来られる神様とはどこか違う気がする。」
「違う?」
「そうよ。心の声がそう言うの、違う、違うって、もし私の本当の神様なら、私は安心して魂を重ねたいときっと思うはずだわ。でもつのるのはなぜか厭な思いばかりなの。まるで魂が目に見えぬ霧のようなものにまぎれて、逃げたい、逃げたいって言っているのがわかるのよ。…もうこんな話止しましょう。ねえ、いいことを思いついたの。私、亀になるのよ。そしたらこの部屋から出られるわ。」
「君が亀に?それはちょっと…あんまり見たくないな。」
「そういう意味じゃあないわ。神亀になるのよ。そうすれば簡単にこの壁を越えられるわ。体は無理でも、少なくとも心はね。私お兄様を自分で探したいの。大臣は絶対に教えてくれないわ。できることならお父様と、お母様のことも知りたい。協力して下さらない?」
「僕が?君が神亀?」
「そうよ、あなたしか出来ないわ。私を誘導して欲しいの。そしてまたここへ呼び戻して欲しいのよ。」
「どういうこと?本当に君は大丈夫なの?」
「大丈夫よ。あなたがいればきっと戻って来られるわ。魂を飛ばすのよ、お兄様のところへ、さあ手を握っていて…」

―22―

どこかの壁から滴る水の音が、それだけが正確に時を刻んでいた。
意識は朦朧としているが、それを数えることだけが生きている証しのような気がしていた。
何度、何をされているのかもわからない。
痛みさえももはや感じなかった。
魂というものがあるのなら、それは体から出たり入ったりして、細い糸のようなもので、ようやく繋がっているに過ぎなかった。
時々フラッシュバックのように、残像が見える。
父が体をばらばらにされ、神の力と共に地中深く封印される姿が…
母が得体の知れぬ生き物に捕えられ、辱めを受ける前に自らの命を断つ姿が…そして彼女もまた別の場所に地中深く埋められる姿が…
二度と、魂の契りを結んだ本物の夫婦、陰陽二つの力が、神の力と一つにならぬよう、ばらばらに、別々に…
私はどうしたのだ。私はどこにいる。
ここは日の光の届かぬ場所。
ろうそくの微かな灯りだけが、石造りの壁を照らしている。
じめじめとしたこの場所はどこだ?
せむしの番人が、能面のような顔をして、私にありとあらゆる拷問を施していた。
私はそれをまるで他人事のように、体から離れて眺めているのだった。
男が聞く。
「コタエヨ、ヒトヲトクベツナソンザイトシテツクッタカミハイマドコニ?」
「コタエヨ、タマシイトハ?ソレヲウム、ヒギヲコタエヨ。」
「コタエヨ、ナニユエカミハ、オノレニニセテソナタラヲツクッタノダ。」
「コタエヨ!」
「知らぬ。」
容赦無い、鞭が打たれた。なぜこんなことを聞く?魂?当たり前のことではないのか?
そうか、これを聞く存在はもしかして…
もしかしてヒトは、特別な存在なのか?まさかな…
シュナ…どこにいる。大丈夫なのか?無事生きているのか?
「モシコタエネバ、オマエノイチバンタイセツナモノヲ、ワガモノトスル」
シュナ?
もしかしてこれはシュナの気配だ。来るな!
神よ!皇太子である我に力を与え給うたなら、、その最後の力でシュナを守らせ給え。
シュメールを守り給え!
どうか私の可愛いい妹を…この国を…
来るな、ここへ来るんじゃない、シュナ!
帰れ!塔へ帰れ!俺が結界を引いてやる。
帰るのだ!

―23―

「それで、巫女姫様はなんて言ったんだ。」
「水のぽたぽたと落ちる、暗い石造りの部屋で、拷問を受けているのでは?って言うんだ。」
「石造り?水ぽたぽた?わかんねえな、お姫様のいうことは…本当にあてになるのか?」
カオルがなぜか得意げに言った。
「そうかジックラードか!灯台下暗しだったんだ。」
サキが叫んだ。
「まさか、そんな近くにとは思いもよらなかった。水は恐らく運河の水。ぽたぽたというのは地下室だ。さすがお前を夢で呼び寄せただけのことはある。調べる価値はあるぞ。」
「サキ。僕は何をすればいい。」
「できるだけ、巫女姫に付いていてやれ、もしも話が本当なら、ウズノ殿はひどい拷問で、命も絶え絶えなはずだ。最後の渾身の力を振り絞って、妹を守っている可能性がある。神々との交流の為のみに作られたはずの、天蓋のベッドに神霊が降りなくなっているという話自体がそれを物語っているぞ。もしウズノ殿の命が尽きたら、彼女のところへ一気に神霊が押し寄せる可能性がある。」
「そしたら彼女は?」
「気が狂って廃人になるだろう。彼女という柱を失ったときこのシュメールはどうなるか?」
「どうなるんだ?」
「おそらく崩壊する。神亀として、拡大を試みていた精神がバランスを崩すんだ。他にもどんな影響が現れるか…」
「スサの王が、ムーの魂とぶつかっただけで、大陸が二つも沈んだんだぞ!」
カオルの顔色が変わった。急いで駆け出そうとするシュナをサキが呼びとめた。
「シュリ、話しておきたいことがある。大事なことだ。」
「……」
「お前、気づいていたのか。彼女にそれを絶対に話すなよ。これだけショックなことが続いているんだ。もし惚れたお前が肉親だとわかれば…」
「肉親?なんのことだ。」
「シュリ!」
「俺にとってあの女は、愛する女でしかない。身分?血?神?何も関係無い。僕らを隔てるものは実は表面的なもので、本質は何でも無いんだ。今はっきりとわかった。僕の欲しいのは彼女の魂だ。いつも、いつもそうだった。彼女を失って壊れるのは、本当は僕の方だ。」
「お前が壊れる…」
サキはあの日縫い合わせたものを思いだし、押し黙った。出てゆくシュリの背を見送りながら、サキは全てが終わるかもしれないという限りない絶望が自分を支配するのがわかった。しかし嘆いている時間は無かった。
「カオル、とにかく我らも急ごう。」
最後の可能性に賭けるんだ!シュリ頼むぞ!
―24―

「シュナ、居るの?」
「シュリ!」
暗闇にうずくまっていたシュナが、駈け寄って抱きついた。切ない匂いがした。シュリは渾身の力を込めて彼女を抱きしめた。シュナがひるんだ。
「恐い?」
シュナが首を振った。そしておそるおそるシュリに聞いた。
「ねえ、私達本当は双子なの?」
「だったらどうする。」
「嬉しいわ…いつもあなたと私は見えない糸で繋がっていると信じてきたの。でもそれなら見える糸でも繋がっているのよ。もう二度と離ればなれにはならないわ。」
「でも君と僕とは男と女にはなれないんだよ。それでもいいの?」
「確かにそうかもしれない。体を重ねることは…でも魂はどうかしら?私達兄妹?違うわ。私にはわかる。何度も何度もあなたに出会ったわ。何度も何度もあなたを愛した。いつも笑顔しか思い出さない。いつも側にいて私を支えてくれたわ。私気づいたのなんであんなに創っても創っても、神様達と創った宇宙が壊れていったか…あたりまえよ。私少しも神様達を愛していないもの。絶対に魂を重ねまいと、体を固くするように魂も固く閉ざしてきたのよ。魂を重ねないのに宇宙が無事生まれたりするわけないわ。でもできない。絶対にできない。あなたは私がたった一人、魂まで重ね合わせたいと思った人よ。私にとってはあなたが神なの。たった一人の本当の宇宙を創った神に繋がる人、光に繋がる人なのよ。その神様に私達は一つの魂を半分にわけてもらったの。そして離ればなれでさまよっていた。」
「シュナ。僕も同じ気持ちだ。今の二人は双子かもしれない、でもそれも膨大な時の流れの中では一瞬のことだ。僕の欲しいのも君の魂だ。僕と結婚してくれ、魂を契って欲しい。」
「じゅ眼を開けてください…全てを受け入れたいの、あなたと私の全てを…」
シュナはそっとシュリの額の傷に触れた。するとそれはまるで花びらが開く時を待っていたかの様に、自然に目を開けた。そして二人は互いの心を開き、魂の扉を開き合った。それは不思議な感覚だった。シュナにとってはもちろん生まれて初めての感覚だった。今までいくつもの神霊と称する者が、彼女の上を通りすぎていった。時に脅し、時に不思議を見せつけるるふりをしては、彼女を陵辱していった。無抵抗のシュナはそのたびに自分を傷つけ、自分の心を固く閉ざしていった。決して魂に触れさせまいと。だが今シュリの腕に抱かれ、シュナは宇宙を見ていた。驚くほどの開放感だった。シュリの腕の中から絶対に出ることは無いという安心感が、逆にシュリの宇宙の中では、どんなに遠い果てまでもいける気がしていた。シュリは彼女が恐がらないようにおそるおそる彼女の魂を抱き取った。シュナも安心して魂を重ねた。そこへ宇宙を創った最初の光と同じものが投げ込まれた。すると二つの魂ははまるで呼応し合うようにどくどくと音を立て交じり合うのがわかった。そしてそこから小さい小さい宇宙が生まれた。それは薔薇色をしていた。一つまた一つと増えて行く星々は優しくキラキラと光を放った。育つわ…きっと育つ。この宇宙は間違い無く育つ。シュナは遠のく意識のなかで確信していた。だって愛があるもの。シュリと私の。たった一つの愛が。
「ねえシュリ、私夢があるの。この薔薇色の宇宙がいつか大人になったら、私ここにあなたと生まれたい。そしてね、旅をするの世界中を、宇宙をあなたと二人で。そのときは誰も、なんにも二人を隔てるものはないわ。いつも一緒に旅をするのよ。ねえ刻み付けていてその魂に、忘れないように。きっときっと、すごく未来になる気がするから。」
「かなうよ。二人の願いが正しければ。僕らの夢はきっとかなうよ…僕もそうしたい。シュナ!」
二人は夢を見ていた。同じ夢を。そして眠った。暁まで。運命の夜明けまで。

―25―

 暗闇の中をサキとカオルは走っていた。登ったばかりの下弦の月が赤く染まっている。その不吉な匂いのする月に向かって走っていた。
「どこだろう地下室への入り口は。宮殿の中に入らないと無いんだろうか?」
「抜かりは無い。 こういう場所って言うのは、必ず外に通ずる抜け道っていうのがあるんだよ。何の為にずっと調べていたと思っているんだ。」
サキはジックラードの、運河に面した壁面にカオルを連れて行き、石組みの一つをナイフでこじ開けるようにした。するとその隙間は、微かにずれを見せたかと思うと、ずるずると滑って、ぽっかりと地下への入り口を開いた。
「バレバレじゃないか、どうすんだよ。」
「時間がない。隊長には全軍待機して、もし我々が夜明けまでに帰らなければ、民を塀の外へ救出するように頼んである。今夜中に遅かれ早かれ、決着をみるはずだ。さあいくぞ。どうしたお前、震えているぞ、一人で帰るか?」
「なっ、何言ってんだよ。武者震いだ。こんなに、血湧き肉踊ることは始めてだぜ。なんとしても生きて帰って女に自慢する種にしないとな。」
「その意気だ!」
 二人は、暗い石の入り口にロープを下ろし、中へと降りていった。そこには永遠に続くかと思われる石の回廊があった。壁面には、びっしりと刻み付けられた文字と共に、永い物語が壁画として描かれていた。
「なんだこれは?」
「おそらく、宇宙の創造神話。」
「この円盤のようなものは、天の鳥船か?いったいなんと書かれてあるんだ。はじめから教えてくれ。」
「…太古、神は宇宙の中心に大きな文明を築いておられた。だがそれも何度も栄え滅ぶことを繰り返していた。栄え始めたかと思うと、次の世代はその繁栄に甘え、文明をもてあそび、数々の文明が、宇宙が泡のように消滅していった。またあるものは、神を頼り、創られた己に満足してしまうため、なんの進化も見られず、元の宇宙の海に戻らんとして必然的に飲み込まれたいった。さらにその宇宙の外から、いつのまにか創られた宇宙を監視するものが現れた。」
「この目か?」
そこには異様な数々の目のとりつけられた機械が描かれてあった。
「この目は、創られた宇宙にあらゆる干渉を試み、宇宙の存続はさらに難しくなった。そこで神は考えられた。どうしたらこの宇宙を維持することが出来るか?」
「この部分か。」
カオルの指差したさきには、二つのの勾玉状のものが、人間とおぼしき、男女の体に一つ一つ埋めこまれる姿だった。そして二人の間には、糸のようなものが繋いであった。
「この陰陽二つの魂を、切り離して、宇宙の端と端に配置する。そうすれば元々一つの魂は、元の形に戻ろうとして、本願がかなうまでは、何度も輪廻転生を繰り返して望み、膨大な情報を蓄積する。その魂の膨大な情報は、膨大故に不安定で、宇宙に良い意味でのゆらぎを生じさせ、宇宙の平衡化、エントロピーの増大を防ぐ。さらに二人の求心的な、愛情ともいえる精神のバリアが、創った宇宙を壊すまいと、必死で働く。再会の場所を失ってはならぬと。その強い願いの為、さらに創られた宇宙は維持されやすい。しかも肉体がなかなか逢えない苦しみから、二人は魂を時空に飛ばすことさえ考えるようになる。それが、人間を飛躍的な進化の道にさえ導く可能性があるのだ。」
「シュナとシュリは…」
「忌むべくして生まれたんじゃない!これはすべてこの宇宙を、創られた宇宙を守ろうとする神の計画だったんだ!」
「あいつらに教えてやらないと。」
「そうだ。でもその前にウズノ殿を、急ごう!」

―26―

 ウズノの囚われた地下室にようやくたどり着いたとき、サキとカオルはすえた異様な匂いと共に、異様な光景を目にすることとなった。どこからそろえてきたのか、ありとあらゆる拷問の道具が部屋には整えられ、ウズノがその一通りの世話になったことは明白だった。無表情のせむしの番人が、息をつく間もなく、突然に襲いかかってきた。しかし彼はサキの相手ではなかった。痛烈な当身を食らうと、番人の体は、ずぶずぶと音を立てて、吐きたくなるような異臭と共に崩れていった。
「これは…いったい!」
「なにか、我らの知らぬ生き物に侵食されているのか?」
サキが剣の先で、崩れた体をつつくと、剣は瞬く間に侵食され、ぼろりと切っ先が落ちた。
「酸か?」
「この星にそんな生き物がいるのか…」
「…やつらはこの星の生き物ではない…」
微かな声の主はウズノであった。
「ウズノ殿!無事だったのか?」
サキはウズノの体を抱き起こし、痛めつけられ、びしょびしょに濡れた体を布でぬぐってやった。
「…やつらは、やつらには魂が無い。ヒトとはまったく違う進化をしてきた生き物…ただ増える為に、まず相手の心を食らい、体を食らい、結局は増えることが出来ず、一つに帰るしかない…哀れな生き物…砂漠の…宇宙の遥か彼方から来た…」
「仲間の見た、砂漠の鳥船って…」
「ウズノ殿どうしてそれを?」
「心を読んだ。奴らの中に入りこみ……シュナ…シュナに伝えてくれ、やつらを裁くなと、決して裁くなと…彼らもまた、寂しさから自分の仲間を求めていたに過ぎぬ…広大な宇宙の流れの中で、ただ自分たちの在り方を求めていたに過ぎぬ。」
「心を読まれたのですか?やつらの中に?」
サキが恐れを込めて聞いた。
「やつらは私を望んでいた。私の体を、そして心を、永遠に生きる魂の謎を何よりも知りたがっていた。私はこの体をやつらにくれてやった。…なんてことは無い、恵まれているのだ。やつらが望んでも望んでも手に入らないものを、最初から我らは与えられている。ならば私がやつにしてやれることといえば、そんなことぐらいしかないだろうから…」
「ウズノ殿…」
「シュナに伝えてくれ、もしこれから先、時空を越える旅をするつもりなら、決して憎しみや、悲しみの心を抱えて旅立ってはいけないと、探していた人に巡り合えたのなら、そのことに深く感謝して、決して、何も、誰も責めてはいけないと…ただ愛する心だけを抱えて行きなさいと…」
冷たくなってゆく、ウズノの体は決して崩れなかった。眠るように息を引き取ったウズノの頬は、いまだ薔薇色に染まっていた。

―27―

シュナは夢を見ていた。
夢の中の宇宙に兄の気配があった。
それは星々の海に、飲みこまれ、いまやその海と一つになろうとしていた。
星々の海に帰ろうとしていた。
「兄様、待って!どこへゆくの?」
兄の気配は笑っている。そんな風に感じた。優しく…暖かく。
どうして?消えてゆこうとしているのに?
シュナの心にダイレクトに、兄の思念のようなものが飛び込んできた。
「シュナ…今から私は一万光年の旅に出るんだよ…」
「一万光年?」
「そうだ、時の彼方…お前と再び会えるやも知れず…会えないままかもしれない。」
「兄様、嫌!」
「大丈夫だ、お前は私で、私はお前、おまえが私と同じ創られたものである限り、お前の中に常に私は存在している。」
「嫌!そんな難しいこと私にはわからない。側にいて、兄様として側にいて!」
「シュナ、それは一つの形に過ぎないのだよ。お前にならわかるだろう。魂を契るほどの相手がいるお前になら…」
「形?そうかもしれない。でも大切なことよ。もし形がいらないなら、この星々も存在しないわ。お兄様のようなら、生まれ変われない!私は生まれ変わりたいわ、いつの日かあの人と、心も、体も、魂も一つに重ねて一緒に生きてゆける日まで、何度も生まれ変わりたいの。たとえどんな運命がこの先私に訪れても、それを乗り越えてゆきたいの、未来へ!」
「シュナ、お前ほどの強い意思があれば、死と生の関門もたやすく越えることができるだろう。ただし約束だ。笑いながらそこを越えるのだ。」
「笑いながら?」
「一万光年は千の積み重なりだ。シュナ、お前にはそんなあり方が似合うのかもしれない。笑いながら関門を越えるんだぞ……いつかまたお前の幸せな姿を見せてくれ…」
兄とおぼしき思念は星々の海へととけていった。にもかかわらず星々は、それまでとなんの変わりも無く、回転を続けていた。しかしその中には、確かに兄が宇宙ととけあって、存在しているのが、はっきりとわかった。今や宇宙は兄であり、兄は宇宙そのものであった。
私はこれからどうしたらいいの…?
私は間違っているの?
私の思いはシュリを苦しめるだけなのかしら?
宇宙の海に帰ったほうが、神様に抱かれた方が人は幸せなの?
笑いながら関門を…?答えて、どういうこと?
兄様!教えてよ…

―28―

 突然の轟音と共に、ものすごい圧迫感がシュナを襲った。激しい吐き気と頭痛に体を支えるのもやっとだ。気がつくとシュリはシュナをかばうように身構え、短剣を抜いていた。天蓋のベッドが、下からの突き上げるような振動で揺れている。黒い靄のようなものが、今まさに実体化しようとしていた。
「来るぞ!」
(もうだめ。私は化け物の虜になるんだ。)
シュナは絶望的な気持ちになった。シュリがシュナの手を強く握った。
「大丈夫だ。僕がついてる。シュナ、自分を信じるんだ。君は魂に結界を引ける。強くなれ!」
シュナはシュリの言葉に、戸惑いがあった。なすがままの自分に慣れすぎていた。プライドを持てば神霊に抵抗できない自分が傷つく。なにも感じないように、己を人形にしてしまうほうがましだったのだ。だが今側にはシュリがいた。愛するシュリに、得体の知れないものに支配され、もてあそばれる自分を見せることは耐えがたかった。だが…パニックになるシュナの前で、黒い靄は完全にその姿を見せた。ずるずるとおぞましい体をシュナに向かって摺り寄せていった。逃げるシュナに、思念が先に飛びこんできた。
「オマエノタマシイヲクレ。オマエナラバワタシトウチュウヲツクレル。ワタシハウチュウソウゾウノカミトナルノダ。」
「嫌!」
「オマエハ、ドンナイシツナモノデモスグニトリコメルトクイナタマシイ。オマエトマジワレバ、ワレラニモタマシイガヤドルハズ。サア…」
「嫌〜!!!」
シュナが泣いていた。泣き叫んでいた。自らシュリの短剣を奪いとった。化け物と真向い1歩また1歩と、開かれた窓の方へ後ずさっていく。シュリは危険を感じた。このままでは、シュナはあの窓から自分を…自分を投げ出す。あと1歩も無い場所で石のようにシュナは動かない。滂沱の涙を流しながら…どうすれば、どうすれば…シュリは考えた。助けたい。でも下手に動けば…シュリは、化け物をひたすら観察した。どこが、弱点なんだ?シュリの心にも化け物の思念が流れこんできた。そこには真っ暗な闇があった。深淵ともいえる闇だった。一欠けらの光も無い、光が…魂が無いんだ!強烈な寂寥感がシュリを襲った。そうか、シュナが泣いているのはこのせいか?シュナはやつの心と同化しているんだ!
「オマエニワカルカ?ワレラニトッテ、シトハエイエンノム。セイジャク。」
化け物が震えていた。驚くことにシュナの動きとシンクロしていた。それはシュナの力のの発動かもしれなかった。シュナの彼らを消したいという強い願望が、逆に彼らを自分の中にとりこもうとしているのかもしれなかった。
「ワレラノクルシミガワカルカ!ヒトヨ、エラバレシソンザイヨ。ウチュノイタン。ワレラハヒトヲニクム。ヒトヲツクリシカミヲニクム。ナゼコノヨウニ、ミニククワレラヲツクッタ…ナゼソナタラダケガ…ソナタラダケガトクベツナノダ。ウチュウヲタクサレナガラ、ナニモキズカズ、オノレノタメノミニイクルソナタラニ、バンブツノクルシミガワカルカ!ウチュウノイタミガ。ヤミノクルシミガ…」
シュリは途方も無い無力感に、なすすべを失いかけていた。体中の力が吸い取られてゆく。吸い込んでいるのは誰だ?シュナにまかせていいのか?本当に?…これはシュナだ。シュナは全てを嫌って…神亀となって暴走した精神は…このままではこの宇宙さえ消しかねない!
 地震が起こり始めていた。天井がぱらぱらとくずれ、花瓶が傾いて割れた。
「シュナだめだ…」
「でも、このままだと私…」
「あの宇宙も、僕らの創ったあの宇宙も消えていいのか?」
「嫌!」
「だったら止めるんだ。」
「でもこいつのものになるのはもっと嫌!」
シュナは判断力を失っていた。化け物はいよいよシュナを抱き取ろうといていた。揺れはますますひどくなり、シュリは最後の選択を迫られた。じゅ眼を、僕の力をぶつければ…
 そのとき石の扉を蹴破るようにして、サキとカオルが飛びこんできた。
「シュリ!止めろ!」
「だめだ!闇の力と同化した彼女に、お前の神の光をぶつけたら…」
「じゃあ、僕は、どうすればいい!どうすればいいんだ!」
緊張感が部屋中にみなぎる中、サキが落ち着いた声でシュナに話しかけた。
「女王陛下、ウズノ殿の最後の言葉です。」
「兄様の?兄様は…死んだの?」
「落ち着いて聞いてください。ウズノ様は、決してこいつを裁くなとおっしゃっていました。こいつも別のものに創られたものの、ひとつに過ぎないと、そして最後まであなたのことを、心配されていました。時空を越える旅をするのなら、探していた人に出会えたことに感謝して、愛だけを抱えてゆけと…」
「愛だけを抱えて…?」
サキはシュリにも言った。
「シュリ、お前はこの人と時に魂までも入れ替わっていた。それほどのことができるのなら、どうして彼女の声を聞いてやろうとしないんだ。力をぶつけるのではなく、心を抱きとってやれ、痛みを半分受け取ってやれ、これまでもずっとそうしてきたんじゃないのか?」
シュリ思い起こした。そういえばわけもなく苦しくなったり、楽しかったりした事があった。まるで体験したかのようにリアルな夢の数々。みんなそうなのか、シュナが楽しい時僕も楽しく、僕が苦しんだ分だけ、シュナも苦しんできたのか?そうなのか?だとしたら僕は…
「シュナ、愛している。お前がもしそいつに抱かれて、たとえどんな風になってもお前の全てを愛するよ。だから安心してこっちへ来るんだ!」
「シュリ…」
シュナと化け物の動きが止まった。化け物がしゅうしゅうと音を立てて縮んでゆく。シュナが全速力でシュリの腕に飛びこんだ。シュリは無事彼女を抱き取ったのだ。

―29―

全てが解決するかと思われた矢先、ものすごい磁気嵐と、振動が天蓋のベッドを中心に起こり始めた。シュナとシュリには、出現したものの正体がはっきりと見えた。次元の裂け目がそこに出来始めていた。ゆがんだ空間が現れ、その中では、広大な宇宙が大回転をしながら、無限の暗黒へと、どんどん吸い込まれ消滅してゆく、そこにはシュリとシュナの創ったささやかな薔薇色の宇宙も含まれているに違いなかった。
「どうして…!?」
つぶやくシュリに不思議な思念が飛びこんできた。
―キヅカレヌマエニ、トベ、ソナタタチニシカデキヌ、ムスビツクコトヲモトメル、ケウナ、モトハヒトツノタマシイヨ、タトエソノソンザイヲヤツラニキヅカレ、ヒキサカレヨウト、オマエタチホドノツヨキイシアレバ、カナラズモトノカタチニニモドレル。―
「あなたは?」
―ワタシハソナタラヲゼンメンテキニシュゴスルモノ、ツクリシウチュウヲコワサレツヅケタモノ、チカラヲタクシタソナタラノ、チチハハサエフウインヲウケタモノ。―
「あの生き物はあなたの管理の元にはないものなのですか?」
―アレハ、ワレノツクリシウチュウノサラニソトヨリオトズレシモノガ、ジッケンテキニツクッタイキモノ。―
「何の為に!」
―イカニワレノツクリシ、ジユウイシヲモツヒトトイウモノヲカンリスルカ。ソノホウホウヲサグルタメニ…―
「あなたの、あなたの名を教えて下さい!」
―ワガナハ、ウチュウソウゾウ…―
「シュリ!見て、私たちの赤ちゃんが…」
シュナが指差す先には、彼らの薔薇色の宇宙がまるでプレス機に押しつぶされるかのように、低い次元へと移行してゆこうとする姿があった。
「どうしてあんな目に!」
―メズラシイノダロウ、ジゲンヲヒククイコウサセテモ、ソダツカドウカタメシテイルノダ―
「そんな!ひどい。じゃああの中に生まれようとしているいきもの達はどうなるの?」
―オソラク、ナンノエイチモアタエラレズ、カンリノモトニドレイノゴトクイキルコトトナル。―
「あなたになすすべはないのですか?」
―イマヤ、チカラヲタクセシソナタラノチチハハモフウインサレ、ウチュウゼンタイモナンゼンネンタンイノ、ヨルヘトムカオウトシテイルトキ、ソウゾウノヒカリモサイショウゲンニヘリツツアル。ワレジシンガニクタイヲヤドスキケンヲオカセバ、ソレガサトラレタトキ、オソラクスベテハムニキス―
「僕は、あの薔薇色の宇宙に僕の夢を託した。僕とシュナのような運命を背負わされたものも、そうでないものも、生きとし生ける者がすべて満足を得て生活できる。決して愛し合うものが、預かり知らぬところの勝手な判断で、引き裂かれたりなんかしない。自由に生きられる世界を。大きいものも、小さいものも互いを力で押さえ込むのではなく、いたわりあえる世界を!それがあんな風に踏みにじられるのは嫌だ。」
「私も嫌!」
「シュナ行こう。」
「ええ。」
―ワレハソナタラヲゼンメンテキニ、キヅカレヌヨウシュゴスル。サイカイデキルヨウチカラヲツクスコトヲチカウ―
「私たち生まれ変わる事になるの?私シュリを見つける事ができるのかしら?」
シュナが躊躇した。せっかく再会できたのだ。もう少しでいい、共にいたいという強い願いがあった。
「シュナ、僕は君を信じるよ。つらくなったら星を見ろ!いつか約束しただろう。」
「シュリ…紅い星の夢ね。私も何度も見たわ。信じる。一緒に行くわ。手を固くつないで。そして私を必ず見つけて。私も探すわ。あなたをこの魂のある限り。たとえ引き裂かれても、何度でも。」
「シュリ!シュナ!どうするつもりなんだ。」
カオルが叫んだ。二人は振りかえると静かに微笑んだ。
「サキ、カオル本当にありがとう。いつかまた会おう。」
シュリが言った。シュリに寄り添うようにした、シュナも頭を下げた。そして二人は固く手を握り合って、ゆがんだ空間へと歩いていった。不思議な事が起こった。なにも不思議を体験した事のないサキとカオルにもそれがはっきりと見えた。二人の体から糸のようなものに、互いに繋がれた霊身が抜け出たかと思うと、やがてそれは玉のようなかたちになり、折り重なるようにして、天蓋のベットに出現した空間へと消えていった。それと共に開かれていた次元の裂け目も閉じていった。後にはシュリシュナの抜け殻だけが固く手を握り合ったまま残されていた。

―30―

「シュナ様、大変です。運河が決壊しました!すぐにご退出を。」
大臣が天上の部屋に飛び込んできた時は、全てが終わった後だった。
「お前達は!?シュナ様!シュナ様になにをしたんだお前たちは!」
大臣の気持ちは完全に動転していた。シュナの死体を抱き上げ、シュリから引き離そうとした。サキがそれを力いっぱいに制した。
「あんたのお姫様は一番愛する人と一緒に死んだんだ。この顔を見てみろ!」
涙をためた大臣は恐る恐るシュナの顔を見た。その顔は薔薇色に微笑んでいた。生きていたときそのままの、ジックラートに閉じ込められる前の、無邪気な微笑がそこにはあった。大臣はシュナをそっと石畳の床に降ろし、シュリの手にシュナの手をもう一度添えてやると肩を震わせて号泣した。サキは緩やかな地震の続く今、この部屋から一刻も早く脱出した方がいいことをさとっていた。
「我々は、スサの王の、前線軍のものです。ジックラードの地下にてウズノ様を救出いたしましたが、残念ながらお亡くなりになりました。未確認の生物に支配された番人にひどい拷問を受けられていたようです。申しわけなかったが、シュナ様のご無事を確認する任務があったため、ご遺体はお持ちすることができませんでした。スサの王は急激に変化するシュメールの調査を我々に命じておられました。夜明けと共に我が軍は全軍をもって城壁内に進行し、シュメールの人民を救出する手はずになっています。」
頭のよい大臣には全て覚るところであった。
「よろしくお願いします。そしてシュナ様と、この方のご遺体も…」
大臣ははじめてシュナと手をつないでいる男の顔をじっくりと見た。
「じゅ眼?この方はまさか…シュリ様、シュリ様なのですね。」
大臣は再び言葉を、詰まらせた。しばらくの沈黙の後、決意したように言った。
「さあ早く脱出を!」
大臣はサキとカオルに二人の遺体を担がせるのを手伝った。そして石の扉の出口を指し示し、近道を伝えた。
「あなたは?」
「わたしはシュメールと最後を共にします。長老部の皆も全て朽ち果てました。どうか伝説としてわれらの都の事を語り継いでください。昔、神の治める素晴らしい国のあったことを。それは、われらの預かり知らぬ何者かによって滅びに至ったことを。」
「あなたはそれでいいのですか?」
カオルが聞いた。
「シュナ様がお亡くなりになったことで、わたしの務めは終わったのです。夢がかなったとおっしゃっていたが、まさかシュリ様のことだったとは…本当によかった。さあ急いで。わたしはこの天蓋のベットを壊してから行きます。シュナ様がもっとも憎んでおられたこのベットを。」
「あなたも生きて下さい!二人はきっとそれを望んでいるはずだ。シュナ殿をお守りしたいという強い意思が、化け物の支配からあなたを守り続けていたんだ。そうでしょう。」
カオルが大臣の背を押した。
「わかりました。さあ、先に!必ずそうしますから。」
 サキとカオルは大臣を一人残して、示された近道をたどった。後ろでは、天蓋のベットを打ち壊す、鋭い物音が続いていた。ジックラードの天上の部屋から壁づたいに、ようやく人の通れる細い石組をまっすぐどんずまりまで進むと、直接外に出られる石の扉があった。それをこじ開けたとき、外界では丁度、夜明けが訪れようとしていた。クリスタルのような耀きの雲が空を覆い、地平線に太陽の荘厳な閃光が見えはじめたところだった。吹きつける強い風にあおられながら、ジックラードの上でサキ達はようやく体を支えていた。
「シュリ、シュナ見えるか?夜明けだぞ。お前達はもう自由だ!」
遥かに見下ろすシュメールの街は、溢れ出した運河の怒涛のような水流に、今飲み込まれようとしていた。神々の栄光の時代が一つ終わろうとしていた。数々の秘密をいまだ紐解けぬままに水は封印していった。それを解く者の出現は遥か遠い未来になるかもしれなかった。

―32―

 進軍部隊がチグリスの河畔にたどりついたとき、サキとカオルはシュナとシュリを荼毘にふした。それは当時この地方にはない風習だったが、サキが半ば強引にそれを決めた。夕闇の空に、二人を焼き尽くす炎が高く、高く舞いあがった。それはやがて薄煙になり、暮れた空に消えていった。新しい月は、早くも西の空に去っていった。星が一つ光った。
「なあ、本当にするのか?」
カオルの質問にサキは無言で、二人の灰をかき集め、皮袋に入れた。
「チグリスに流すなんて…ここに埋めてやればいいんじゃないのか?そしたらいつもあいつらは二人一緒にいれるぞ。」
「お前あいつらが本当に、そんなこと望んでると思うのか?」
「えっ?」
「ここに埋めれば、俺達はシュリをここに置いて行かねばならない。でも河に流せばやがてそれは海にたどりつき、世界中を巡るだろう。俺達がどこを旅しても一緒にいれるじゃないか。」
カオルはそのとき、決して見たことのなかったサキの泣き顔を見た。カオルの頬にもいつのまにかとめどなく涙が流れていた。
 夜のチグリスにまかれた灰は、風に乗って音も無く、キラキラと光りながら川面に溶けて、消えていった。見上げた大空には満天の星々がきらめいていた。そこには北斗柄杓や、登り始めたオリオンのリゲルや、ベテルギウスの姿もあった。
「なあカオル。」
「なんだ。」
「あの星々の地図はこの地上にいるからこそ意味を持っているんだろう。俺はここがどんなにつまらない、汚れた場所でも、ここに残って勝負してみたいんだ。」
「そうだな、まんざら捨てた場所でもないぜ、言って聞かせる自慢話もできたことだしな。」
二人は顔を見合わせて笑った。二人にははっきりとわかっていた。遥か宇宙を渡ってゆくシュナとシュリの気配を感じていた。それは決して楽な旅ではないかもしれない。だが魂を結ぶことのできた二人には、希望のある旅になるに違いなかった。二人はそれに賭けたのだ。サキは心からのはなむけを二人に贈っていた。

                   ―第一部 完―







悠遊夢想