物 の理






 

5. 総括

 さて、現象励起のメカニズムは以上の通り決してシンプルなものではない。だがこのモデルも、現 象の機微に渡って潜んでいるメカニズムを言い表わしたものであるにすぎない。冒頭で述べたように、観測一つ考えても決して光子一個のごときものではありえ ない。現在の物理学は物質世界における根本法則を導き出すことにあるためやむをえないことであるが、これでは有機体や生命現象を扱う分野との繋がりはあり えないと思われる。

 だが拙モデル構築の思想は様々な分野を総合化することにある。このため、原理的なものの 整合性には注意を払うが、理論化はせず、物質世界の話題は現代物理学の与える解答が情報構造の解明に役立つであろう見通しを述べるにとどめている。そして 拙モデルの意義は、もっと別のところに見出されねばならないと考えている。

 ところで、このモデルはもっと簡単にかつ総括的に言い表わすことができる。それは、全て の時空がプログラムを基にしていることから結論づけられることである。

 絶対的超空間とは無限次元であり、これが記録されているホログラムも無限次元である。す ると対応するコンピューターに無限次元の処理能力を仮定すれば、一台の超・超コンピューターにより全ての階層的時空が生起していると置き替えられる。

 ハードウェア的な機能をソフトウェアであるプログラムの手続きで置換できることは衆知の ことである。つまり、階層的励起はメインジョブからサブジョブ、サブタスクを呼び出し起動するのと要領は同じなのである。この階層が無限であるかそれとも 有限であるのか、それは元より不可知なものからの推測ゆえ分らないが、原理的には何段階でも可能である。先程来のコンピューターを介する異時空の間の相互 作用と観測の連合はプログラム間の情報と制御のやりとりに置きかえられる。

 たとえば、図4・9内記号Cの通信回線は具体的な情報交換があれば、プログラム間連絡が ある時点でおこなわれることになっていたことを示している。また、上位のボックスに対する下位のボックスはメインプログラムとサブプログラムの対応であ る。同様に図4・9全体は現象的(動的)には階層型コンピューターネットワークであるが、潜在的(静的)にはストラクトチャードプログラムを示したものと 言える。

 以上のことからモデルの各要素に次のような原理的仮定ができると思われる。

(1)どのような時空においても物質で最速のものは時空に個有の「光」として表出する。

(2)本質的に光子(虚光子)は無限次元である。階層のフィルターを経て次元を落とした結 果としてたとえば我々の世界における電磁波として登場している。

(3)本質的な光子は全系の時間を担うが、この微分として各階層のみかけの光子や時間があ りえている。

(4)m次元ホログラムの記録物は光を偏向していくことによって全てのものを顕わすことが できる。(m=∞)

 一般的にホログラムは参照光の照射方向や 波長を変化することにより、多重記録が可能である。本質的な光の中に波長の意味あいをもつ次元がm個あると考えると、原理的にはこのうちの一つの次元につ いてパルス的に照射される光の波長を一定値ずつ一パルス毎に変化させてやればよい。すると、その次元に関して実行順序がつくられ、見かけの時間が発生する ことになる。

(5)コンピューターは光の波長相当のm次元について任意の次元を(4)の要領で変化させ る仕組みをもっている。

 我々や宇宙意識などは一次元分を操作する にとどまるが、程度の高いものであれば複数の次元を組み合せて操作し、プログラム間を多次元的に飛び回るだろう。このようなものがUFOであったり、高級 霊界人であったりすると思われる。つまり、実行者は階層的に上位であるほど自由度が高く、下位になるほど情報的にフィルターがかけられて次元が固定され自 由度は低くなるのである。

(6)ホログラムに作用するのは、本質的に一台のm次元分を操作可能なコンピューターで事 足りる。現象的な無数の時空とコンピューターはメインジョブから階層的に発せられるサブジョブ、サブタスクである。(図4・10下、図4・11はその性質 を表わしている)

(7)(6)が真理であるなら、現象は本質的に一筆書き的に確定していくものである。そし て、本質的な光のもとでは一時一点観測である。

 そのとき、無数の集合意識や個我意識は一 本の光が相互作用して通過した結果であることになる。それは今目下おこなわれているというよりも既に終った残像という観方ができる。光は無限速であると同 時に、その中に時間経過は無い。ただあるのは光と情報の相互作用結果のみである。その記憶をたどる行為が意識として表出していると考えられる。

(8)実行と観測は相補し合う。ホログラムには記録と再生の二過程がある。

 今まで前者には全く触れていなかった。こ れは次のように考えられる。

 現象の運行は既成のホログラムの再生であ り、その結果として一本の軌跡が確定されるところに記録がある。または、n次元情報を再生して(n−1)次元で記録がある。(上位意識のかかえる情報を下 位のものが部分的に受持つ)

 次に確定された結果を近似的に観測し、認 識するところに仮想的な再生プロセスがあり、その結果から意識作用によってプログラムの傾向を変えたり、プログラムを置き替えたりするところに記録があ る。

(だがこれもプログラムを新作するというの ではない。なぜなら、次元的なブレークダウンを既にしているからである。では一体誰が始めて根元的な情報を創ったのか。それはもはや唯一者「神」であると しか言いようがない。この深奥については、古代哲学が明快な解答を与えてくれる。六節でそれをみていくことにする)

神の化身サイババによれば、
大宇宙の歴史は、この小さな卵にすべて
記載されていることであるという

 このように無限から有限なものへ具体化と、波動的な状態から粒子的なものへの変換が連綿 となされているものと考えられるが、このようなところに現象運行の目的のようなものが見出せるようである。
 
 

 

6. 古代思想との整合
 もとより、古代科学観は超自然現象を含む汎ゆる自然界の仕組みに解答を与えるものであった。

 紀元前四千年の昔から四大文明に始まると考えられている古代国家は高度な数字、天文学を 持ち、それに併う高度な宇宙観があった。それは発達を遂げ様々な現在の底辺をなす宗教の教儀に採り入れられている。今最も盛んなのは、現代人のストレスと そこから起る万病の予防のための瞑想学であろう。このため古伝を基磯に様々な応用が試みられている。また、理論の方は、人々に倫理観念をもたせ、生きる上 での精神的な虚無から救うものをもっている。もちろんこれは個別における最低限の効果であり、この真価が発揮されれば全体的な精神文明と物質文明の協調的 発展の理想時代も夢ではないだろう。

 しかし、未だに多くの点が謎に埋もれたままであり、その良さを疑問視するむきがあるのは 残念なことである。

 その最たる原因は古代智に対する先入観である。進化論の考え方からすれば、古代人の方が より思想的に優れていたと考えるのは矛盾したことではあろう。だがここで反論するとすれば、進化論は巨視的な流れを語っているのであり、矛盾を起さないだ けの期間内にあってはゆらぎがあっても構わないということを無視してはいないかということだ。進化は試行のうちに創られ、それをもたらす突然変異は細胞レ ベルの非常に微小な範囲の試行錯誤のくり返しの中のケースの中で起きているのである。生物学的歴史は数億年あるのに、わずか数千年の間に原始人から文明人 となり得て、いま正に生態系すべてを全滅させる可能性を近未来に抱えていること自体、進化論を論ずる向きには奇妙なことに映らないのであろうか。

 一説に紀元前四千年を遡る昔(歴史学で認められていないので「超古代」という)に現代に 匹適するほどの高文明が存在し、各民族が伝承するような「大異変」によって壊滅し、火事場から焼け出されるようにして、精神的、思想的なものだけが持ち越 されたとする考え方がある。また一説に、古代人はシヤーマンの側面を持っていたため、慣習的にアカシックレコード(根元的理念)を読む機会に恵まれてお り、多くの本質的概念を現象の機微に及ばぬまでも入手していたのであろうとする考え方もある。この考え方は拙論で説明できるばかりでなく、現在でも多くの 霊能者や予言者、瞑想家の問では定理とされていることでもある。それらを非科学的という名の下に一笑に伏して良いものだろうか。

 筆者の研究では、古事記の神話は、一方では、現象上にスケールを異として発生する定型パ ターンを示す言理念を語るものであり、また一方では過去現在に生じた(生じるであろう)最低二回の時代の興亡を言い表わしていると解釈できている。旧約聖 書はどちらかというと、理念の参照を物語る。だが古代インドの叙事詩などは過去にあった驚異的な出来事を物語っていたりする。前者からはキリスト教、ユダ ヤ教、イスラム教が生まれ、もとあった思想のうち奥儀的なものはカバラ派やグノーシス派などに受け継がれた。後者の奥儀的なものからは、ヒンヅー教、仏教 が生まれ、生命の真髄を語り今でも多くの人の思想的基盤となっている。

 では、古代の哲学、宗教思想が、いかに以上のモデル概念にぴったりと適合するか、申し上 げよう。

 古代ヘルメス哲学では次のように言う。
「神は全ての存在を内にはらみ、全ての世界 を包み込んでいる。中心がいたるところにあって、周辺がどこにも無い円である」と。これは次のようにして言い表わせるだろう。

 実行者は神の光の通路である。その実行者はいたるところに観られ、その顕わす範囲は他と 不可分に透け込んでいる。理念は神から供給され、実行結果とその観測結果は神の本源へとフィードバックされる。供給と反映の中に、神と自然と人間が一体と なった巨大なサイクルがある。と。

 また次のように言う。
「世界の全存在、森羅万象は神の一部で、世 界の歴史は神の歴史でもある」と。

 また言う。
「唯一の存在者は限りなく多彩な形をとって 我々の前に現われる。汎ゆる被造物は、この唯一のものから出ている。ただ特性によって分化しているだけである」と。

 時間の流れ、あるいは大宇宙の歴史の流れは、唯一者の創りおき賜うた「大目的」をあらわ していく過程である。この大目的の中には善も悪も智も無知も剛も柔も汎ゆる要素が波動的にミッスクされている。それをあらわすために照見の光が投入され、 あたかも毛糸の玉をほどく如く索引系(時間軸)を設定して多くの分光により、分担精査されてゆくのである。

 さらに、ヘルメス哲学では次のように言う。
三つの世界がある。原型的世界、大宇宙、小宇宙。神、自然、人間。魂、精神、肉体。人間は大宇宙の反映であり、同じ法則に 基づいて作られている」と。

 原型的世界とは理念(プログラム)界、また魂、精神はそれぞれ霊、幽に対応するだろう。 ここには互いに重畳しながら、階層的、独立的であってなおも三位一体である関係について述べられているようだ。まず理念があって、それが大宇宙、小宇宙へ と階層的にブレークダウンされ、それが各階層の実行者によって具体化される。そして万物何によらず、魂、精神、肉体の関係にあることを述べ、それらの構造 が相似型に成り立っていることを述べているようだ。既にみてきたように神(巨大情報網)−実行者(コンピューターの積分)−人間の脳神経系−コンピュー ターの相似はこのことを証明している。

 また究極的唯一者の本性について、プロティノスは次のように言う。
「叡知以前のものである。叡知は存在者のう ちの何かであるのに一者は何かではなく、むしろ全ての個々のもの以前であり存在者ではない。一者は存在者を含む叡知以下の系列のいづれでもない」と。

 すなわち一者は、叡知を投げかけ自然を創り出す存在者のらち外にある、元の元たる創り主 というわけであるが、奇しくも先述した五節の(8)項の解答が与えられていることになる。

 グノーシス派の宇宙像では創造以前の原初から存在する世界に神と原型的世界があり、神が 原型世界に投射することによって天上界、宇宙、エーテル、太陽系、地上界などの創造された世界が登場するとしている。また、古代インド哲学では「ブラフマン」は変化して生じた一切の事物の原因であり、ブラフマンは自己の力で自己を開展したの であると説いている。また、シナの哲学でいう「太極」は世界万物の生ずる根元であり宇宙の本体であると されている。

 筆者の研究では、古事記にも超空間の実在が語られている。また神話はもとより、神道哲学 的に言えば自然現象の荒御魂(すなわち現象以前の原型的理念)をあらわしたものだとされている。

 さらに言えば、原型的理念は実現象として生起するまでには二段階以上の中間段階を経るこ とすら語られている。そして、我々は末端に位置づけられ、最も適切な名詞「ひと」で呼ばれた。これは「日戸」すなわち「理念(知恵)を世に出す門戸の役割 を担う者」の意である。

 このような古代思想は一体何を言おうとしているのか、それは十分考えてみるに値するだろ う。ここでは幾つかの根元的概念をとりあげ、拙モデルがそれによって支持されていることを述べた。
 
 
 

7. おわりに
 最後に現代における最大の謎UFO現象に目を転じてみよう。それは既に忘れ去られようとしてい る古代的思考がいかに未来において重要であるかを如実に示してくれる。地球外知性の警鐘というべきではないだろうか。

 UFOが我々に教えてくれる新しい現象とそれから得られるアドバイスには次のようなもの があると思われる。

1. UFOのふるまいは五次元宇宙の存在を暗示していること。
2. UFOのふるまいは観測的現象が映像的であることを暗示していること。
3. UFOはそのジグザグ連動の中に量子のマクロ化現象であることを暗示していること。

 1については、既に冒頭で述べた。現行物理学では解明不可能な問題である。

 2については筆者の経験も一枚かんでいる。あるUFO問題研究グループと共にUFO観測 をおこなった時のことである。筆者の目撃したのは夜間四時間はどのうちに十数回であったが、その半数位のときに強い「見えそうだ」という確信のわき上がり と共に夜空の一瞬の「ぶれ」に似た稲光りが肉眼で微妙に検知できた。その直後光体が視界を横切るのである。これは後のテレビ番組でE・メイヤーのUFO録 画取りをコマ分解したところ、円盤の出現と消滅の各々3/50秒前にコマ全体が光っていることを述べたが、関係がないとは思えない。電磁的なバーストが観 測者を覆うようにして空間全体に起っているらしいのだ。

 筆者の眼には弱い稲光りと写ったが、すぐ直後にどこかに出現していて、ややおいて視界に 飛ぴ込んできたと考えられる。UFO観測者にとって夜空は映画のスクリーンのようなものだ。夜空ばかりでなく、筆者の居る空間すらそれに含まれていて、立 体的な一つのコマがある瞬間別のものに置き替っていて、その後矛盾なく進行しているという感じなのである。

 関連して、超能力者のPK時にはちょうど周辺空間の電磁場の乱れが観測器で検知されてい る。また、同じくマシユー・マニングのPK時にはしばしば周辺空間の歪曲すら目撃されているという。これらのことは、いづれも類似した現象であることを物 語ると共に、時空それ自体が映像的であることを証していると思われる。

 3の意味はUFOが意識部分と、三次元物体の間を遷移する存在であることを示している。 それは稼動状態において一種の「場」としてふるまうということである。よって、ジグザグ運動あるいは光紐運動は自由電子のとりうる飛跡に類似のものとなる と考えられる。このことは我々に「物理法則は適当な処理を施せば変更することが可能」であることを示している。その方法はUFOが身を以て示しているとい うわけである。

 UFO現象に関して言えば、以上の三点が満足される理論が今後の物理学に登場しなくては ならないことを暗示しているのである。
 
 



この宇宙構造モデル概念によって、人が死後辿るという
原型的手続きの意味がクリアーになる。 


⇒ 死の意義を科 学する

 これは霊魂というものの本質を科学したものである。




拙著「古事記と超古代史」(1983.7)より


思惟作用すらもプログラムの中に記載された出 来事なら、@超コンピューターにプログラムのかかっていない状態や、ANOP(ノンオペレーション)命令だけのプログラムがかかっている状態というのも仮 説できる。超コンピューターの実行結果をもとに世界を組み立てる人はそのときどう認識するものだろうか。

@は、超コンピューターがその稼動目的を満た すべく作られているなら、なかなか遭い難い状態である。この状態がたまたま実現したとしても、またすぐに次のプログラムが用意されるはずだ。
この一過性の状態は、プログラムの掛け換え時に偶然発生する可能性がある。すなわち、生前の世界から死後の世界へと移転する人の死の瞬間などにおいて、偶 発的にである。仏教では実際にその認識状態のあることが知られている。

そのときコンピューターはプログラムという修 辞されたものを通さずに、観測行為の本質を垣間見ることになる。すなわち人は、修辞されない高エネルギーの照見する光そのものの生産現場を見るわけだ。こ れをチベット仏教では、死の直後に訪れる原初のクリアーライトと言っており、ヨガの熟達者でも遭い難いとされている。

いっぽうAは、NOP命令に定義された性質に よって、どのように超コンピューターに観測されるかが決まる。まばゆい光だけの世界なのか、真っ暗闇なのか、それとも灰色なのか。あるいはNOP命令にも 特別な性質の付帯するものがあるのか。至福、無限、無辺、無識などが性質として考えられる。

そのとき、人には思惟や行為のすべてを停止し た状態が実現しており、その付帯する性質だけが感得されているであろう。それは人の禅定の結果として得られるものである。仏教ではその意識の状態に住する ことを、無色界にあるという。

無色界に対し、色界は主体的にイメージのプロ グラムで織り成される世界であり、色即是空とは、イメージ(色)の世界はプログラム(空)によって生起するという意味になる。空即是色とは、プログラムが イメージの源だという意味である。五蘊皆空とは心の作用もプログラム上の記載事項であるという意味だ。
また、欲界はまるでウインドウズのOSのように、頭を叩いてたんこぶを作り、また叩いてたんこぶの上にたんこぶを作ったような複雑怪奇なプログラムが、超 コンピューターにかけられて、冷却ファンが盛んに回るヒートした状態を呈する如きものであろう。

つまり、無色界、色界、欲界のことごとくは、 迷妄に束縛されたものであることになる。無色界といえどもそうだ。それは、超コンピューターという存在によって束縛が発生しているのである。

つまり、我々において真の「解脱」という境地 は、思惟して得られる境地ではなく、超コンピューターの稼動そのものから脱却することでしかない。超コンピューターである真実から、自らを解放できるの か。電源を落すことで可能なのか。電源を落したらどうなるのか。未知の体験となるかも知れない。

 











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