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第 五章 現代への預言

 預言は何と、現代に関するものであっ た。平安末期には、悟りの境地で静観したものであったが、果たして今同じように、その時を迎えてよいものかどうか。



 (1)預言書古事記はかく語りき


古事記の預言は現代におよび

「国譲り」以降の神話を、特に日本に関する預言であることを念頭に置いて、よく 吟味してみよう。

「国譲り」の段では、国つ神の領土に対する天つ神の征服計画とその実施方 法について語られる。まず、神々の作戦会議の中で、イツノヲハバリ(威力ある凍結の意味)に示される糧道、補給路の凍結案が出される。だが、それよりも効 果的として、タケミカヅチノヲに天の鳥船を副えて行かせることにした。

 そこでタケミカヅチノヲは出雲国のイナサの浜辺で、十ツカの剣を剣先を上にして立てて、その切っ先にあぐらをかいて大国主命を威嚇し、国譲りを迫ったという。だが、この表現すらも異様な光景を想ってみたとき、何か連想 するものがあるはずだ。

 それは、「キノコ雲の形状を表わすものである!」と言って良いと思う。建(猛)・雷の示す、強烈な光をもよおす雷の意味合いと、天の鳥船(別名、鳥の石 楠船〓空飛ぶ石楠のように堅い船〓飛行機)があいまって、まさに核爆発の光景をイメージさせるには十分だ。(図5.1)



 そのような歴史を、豊芦原の水穂の国である日本は、どこかで経験しな かっただろうか。半世紀ほど前、B29によって運ばれ、投下された原子爆弾は、十ツカの剣のごとく、上空はるかにキノコ雲を巻き上げ、その被害の甚大さに よって日本は終戦を決意したのではなかったか。

 抵抗に及んだタケミナカタ(猛・水・方)とは、水域(太平洋)に展開した勇猛な日本軍を物語るようであるし、イツノヲハバリ(威力ある凍結)による塞き上げも、経済封鎖と石油を断つABCD包囲網や南西諸島の米軍蛙飛び作戦として具体化したとみられる。

 つまり、日本の現代史に関わる預言が、古事記には収録されていたような のである。⇒原文対訳

 ではその場合、「国譲り」に先立つ「天若日子」の話は、何を意味するの か。

 天つ神の先鋒としてアメノホヒ、天若日子が大国主命のもとに次々と送り 込まれたが、居心地の良さに帰化してしまうという話。これは、秘教組織のバックアップを受けた16世紀に始まる寛徐な欧船来航、さらに強圧的な米船ペリー 来航に始まる、西洋文明化の浸透という形で成就したと解釈されようか。ただしそれらは、彼らの目論むように日本の君主制を突き崩すものとはなりえず、むし ろ幾度かの大戦を経て日本の求心力を増大させたのだった。

 だが、帰化と侵略は別物だと、続く話のアヂシキタカヒコネ(他・地・敷き〓侵略支配)は天若日子(当初の方針である帰化)の喪屋を切り払ってみせ、天つ神の本性を顕わにしていくのである。

 そしてついに「国譲り」の対決の場を迎えることになる。タケミカヅチノ ヲの威嚇シーンが広島、長崎の原爆であり、これにより「アメ(天)」の名を冠するのが奇妙なほどのアメリカへの国の将来を委ねる決断の運びとなる。

 世界の最強国アメリカは、近現代の秘教勢力によって世界制覇のために築 かれた国家であるという説も出されている。もしかするとその時、民主化の名のもとに彼らの計画が移植されることとなり、そこから「天降」という究極の預言 の工程に入ることとなったのではあるまいか。この時点から、洋の東西の神の計画は合流し、一本化されたとみられるのである。

 国譲りをした? 客観的に見て、国については何も譲っているふうはな い。だが、本当にそうなのだろうか。

 神話では、大国主命は国土を譲渡しはするが、天つ神と同等の宮の甍を賜 り、大国主命の側に立つ者(八重事代主)による統治を認めるなら、数多ある神も逆らわず、国は丸く治まるだろうと本領安堵の条件をつけ、その代 わりに、配下の料理役の神(水戸の神の孫の櫛 八玉神)をして、天つ神のために料理の煮炊きの煙を天高く上げて、海 から上がる珍味の立派な御馳走を作らせ、机も撓むまでにして献上しましょうと約束しているのである。

 この場合、天つ神をアメリカを筆頭とする世界列強とすれば、現在の日本 の置かれている状況を予見していないだろうか。

 日本は戦後、本来ならドイツ同様の二国分裂状態もしくは占領植民地状態 で推移していても不思議ではないのに、勝者並みに居所が約束されたばかりか、欧米の先進工業の移植のおかげで、今や世界列強をしのぐほどの高度経済成長を 遂げた。

 そのかわり、日本は世界の発展に寄与すべく世界の工場となり、公害や環 境破壊、エコノミックアニマルなど、世界の悪評を率先して身に引き受け、広く国民から収益を吸い上げて、莫大な国際貢献をも行なうに至ったのではなかった か。

 また、資源のない国ゆえ加工貿易でやりくりする料理人としての役割は仕 方ないとしても、効果が疑問視される大盤振舞の援助や、知恵のない海外投資と為替損失など、国益が公然と垂れ流しされる状況を見るにつけ、御馳走献上の暗 黙の構図が存在しているように思えなくないのも心情だ。

 前掲の八重事代主と は、幾重にも国事、民事を監理し統べる指導者という意味で、ここでは政官界のことに違いなく、水戸の神の孫という櫛八玉神は、櫛のように多分岐した先に付いた沢山の玉の意であるが、ここではトリー構造的に分化した産業界、経済界のことである。また、二章 で述べたように、水戸とは港であり、産業が貿易によって発展することまで暗示されているわけである。

 古事記の予見は、大味ではあるが、包み隠すことのないストレートなもの であることがお分りになったであろうか。

 では、「国譲り」後の栄光の時代にはどのような事物が登場してきたもの か、古事記には、どう預言されていたのであろうか。続く「天降」の段で天降してくる神名、神器名を表5.1に掲げるので、御覧頂きたい。




 オモヒガネは山田久延彦氏の所説どおり、コンピューター(ハードウェ ア)のこと。それを筆頭に、日本のとりわけ強い情報処理分野を中心に、建設、動力関係の事物に触れるという、現代の主要技術力を代表する事柄の記述だった のである。特に伊勢の内宮、外宮は寓意により、現代の情報処理センターのオーソドックスな形態を預言していたのだ。

 つまり、古事記は紛れもなく現代日本を見透した神の計画書であったの だ。むろんこれらの事の起こる時代は、吉凶正反混淆かつ素晴らしく魅惑的な(完成状態「7」に至る)究極の成就の時代として、古事記全体の筋書きの中で は、最高の賛辞を以て取り上げられているのである。

 奈良、平安時代の知識人は、これらのニニギの事象のおぼろげな感触は掴 んでいたのかもしれないが、当時の世相に比定するものがなかったために、象徴的な対応物(前章表4・2参照)に時の兆候を見て取り、早々に結論を出してし まったわけである。むろんそこには、彼らの焦りもあっただろうし、彼ら自身が歴史の作り手と自負する気持ちがそうさせたとも言えるだろう。しかし、思惑を 超えて、預言された事柄は独り立ちして進行し、世界を巻き込んで、現代にそのクライマックスを迎えようとしているのである。




預言の終結に向けて
 ならば、古事記はその後の成り行きをどのように預言しているのだろうか。申し 訳ないが、実はこの後に続くステップはあまり多くない。(全部で五段、うち一段は既に成就したとみられる)

 だが、象徴的な言葉で成るのが神話である。筆者の勝手な解釈で申し訳な いが、残された五ステップを順序だてて説明しよう。

[猿女の君]

 「天降」の段で、天降しようとした天つ神たちの行く手を阻んだ天と地の 中間神がいた。サルタヒコ神である。彼は妨害しようとして出てきたのだったが、天つ神アメノウズメの器量に圧倒されて、道案内に来たのだと言い負けてしま う。こうして順調に天降が果たされた後、この段の話となる。

 サルタは「去る・田」で、縄張りした土地(田)をなくす者という意味 で、土地資源の所有を認めない社会共産主義国家、ソビエトであったと解される。日本は戦後、最初のうちにこの干渉を免れた。

 そしてこの段では、サルタヒコは道案内のお役目終了ということで、ヒラ ブ貝(平ぶ〓選定)に手を食い合わされて海で溺れる形で死に、ウズメに葬送されることとなる。

 ウズメは、ここでは天つ神の体制(資本主義、帝国主義)の強力な推進エ ネルギーの象徴であるが、これに圧倒される形で、ソ連はじめ社会主義体制は崩壊してしまった。

[木の花の咲くや姫]

 この段は、前述のように、ニニギの爆発的開花の期間は、そう長くは続か ないという話と、短時間に妊んだ子(現文明)は天つ神の子ではないのではないかとの疑いのもとに、火をかけて燃焼下で産ませて真贋を占うという暗示的な話 で成っている。

 この時生まれた神々、ホデリ(火の勢い良い燃焼)、ホスセリ(火勢の衰え)、ホオリ(鎮火)の三神に掛けて何を表そうとしているか、現在の日本の状態を考えればおよそ見当がつかないだろうか。 「火」は文明の象徴であり、現文明とすれば、高度経済成長、科学技術の急速な進歩、華美な物質文化の謳歌、これらが勢いをなくし、ついに逼塞する時が来る と解釈されるのだ。それは、かのイザナミ文明の態様に類似して悟性に欠けている。その結果、自然界のルールに則らない、自分たちだけでしているゲームの世 界にすぎない状態に陥ってしまった。自然界は、人類のあまりに過度な運動量の営みによって疲弊してしまった。もし人類に自らの存続の希望を叶えるつもりな ら、悟性に欠けた現文明の収束も仕方ないのかも知れない。



[海幸と山幸]

 ここでは、文明逼塞の具体的な原因が示されているようである。

 話はお馴染み、釣り針という負債を負わされた山幸(ホオリ)が、水を司 る神(シホツチ)の援助で、海幸(ホデリ)を懲らしめるという話である。タイミングの良い司水神の助力による水位の上げ下げで、海幸を貧しくしていき、逆 らえば潮満つの玉で溺れさせ、憂えて謝れば潮干るの玉でかろうじて生かしておくという、いわば故意の人為的水害による海洋部族の没落が、他の冗長な伏線と 共に語られているとみられる。

 これは、今にいう過去の負債(対日貿易赤字など)を逆ネタに、株や通貨 の相場(水位)操作、経済制裁が、指向性ある強大な資本力や、水を得た政治力によってなされ、海洋国日本が打撃を受けることを暗示しているのだろう。むろ んこれを誘導するのは、背後にあって水を司る秘教勢力というわけだ。

 このために、海幸は山幸に頭が上がらず、山幸の昼夜の守り人となってし まうという預言になっている。以上の仮説がもし的を得ているなら、実際の歴史はどのような展開をしていくのだろうか。国連の常任理事国入りも主体性が出て くるものだろうか気になるところであるが、かといってなまじ主体性を持つと、「水位」操作が過激になされたりして、緩徐な古事記の域を超えて、急激な黙示 録にいう大いなる都市バビロン崩壊の事態ともなりかねない。これがより恐い次の段を招くことに繋がる。




[豊玉姫の命]

 この段は、山幸の妻となった海神の娘、豊玉姫の出産話である。天つ神の 子ゆえ海原で産むべきでないとして、渚に出てきて鵜の羽で産屋を作ろうとしたが、作り終えない間に産気づいてしまう。この時、夫神に、お産の時は元の姿に なるので絶対に見ないで欲しいと言うのを、山幸は覗き見て、八尋鰐が這い回っている有様に驚いて逃げ出してしまい、それを痛く恥じた姫は海坂(海道と地上 道の境界)を封じて海に帰ってしまう。

 前半の話は、イザナギが黄泉の国のイザナミに国造りが未完成(〓産屋が 未完成)なので戻るよう要請した経緯にどこか似ている。また、後半は、イザナミの制止にもかかわらず、どろどろの醜態を覗き見てイザナギが逃げ出す話に似 ている。海坂も比良坂(二つの時代の境界)の焼直しのようだ。つまり、二章で述べた「黄泉の国」の段が簡略化されているとみられるわけだ。

[鵜葺草葺合へずの命]

 前段で生まれたのが鵜葺草葺合へずの命であるが、この神と玉依姫との間 に、五瀬の命、稲氷の命、御毛沼の命、若御毛沼の命(神武天皇)が生まれる。このうち、御毛沼の命が常夜の国(宇宙)、稲氷の命が海原、残る二神が陸上 で、続く中つ巻に繋がっていくように設定されている。

 ここで、陸、海、空に持ち分けての支配構図を示したともとれる形で終 わっているわけだが、これもイザナギ神の身禊で生まれた三貴子の支配構図の説明によく似ている。つまり、次の新時代の初期状態を説明した形で、上つ巻は終 結しているとみられるのである。

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 この最後の二段の話は、ちょうど連続する「黄泉の国」から「身禊」にか けての話に似て、その簡略化(軽減)された筋書きの感がある。つまり、この位置に前話を繰り返し置きたかったのではないかと思われるふしがあり、もしそう ならば世相の荒廃した中に(大過去よりさほどひどくない)最終局面を迎え、元の黙阿弥になった世界が、我々の歴史の先に預言されていることになろうか。つ まり、大過去がそうであったように、歴史は同じテーマを抱えて繰り返すというのが、古事記預言のあらましなのである。

 さて、「海幸と山幸」と後二段の間には、経過においてかなりの空白があ るように思われる。また、現在(1994年 (本著制作時)以前の時点)が海幸・日本叩きの時点とみられるだけ に、当面する問題としてもこの間を埋めることが必要であろう。


 

空白を埋める黙示録
 終局に至らせる直接的なステップは、黙示録の語るバビロン崩壊という事態と考 えられる。以下、刺激が強すぎる感はあるが、全くの素人見解にすぎないので、割り引いて御覧願いたい。

 日本は戦後、アメリカのお陰で奇跡的かつ素晴らしい発展を遂げた。だ が、秘教が神の計画と仰ぐ黙示録の「水の上にあり、獣(米国はじめ世界列強の主導する資本主義社会を意味する)にまたがり、地の王の誰とでも交わる、きら びやかな大娼婦バビロン」としての特性を備えるべく育まれていないとも限らない。あらゆる国と友好でありたいという和の精神に利益(金儲け)主義が先行す ると、娼婦とみなされる。世界の日本に対してする評価も、日本が反論を持ち得ないため、その程度に落ち着いていないだろうか。

 はじめ娼婦は獣によって育まれ、奢りの絶頂を迎えるが、いずれ「神の意 志の入った」獣によって食らい尽くされる運命にあるとされる。(啓示十七、十八章)彼らは預言に登場する犠牲を歴史の流れの中に作り出し、シナリオどおり に誘導する。これが古代より培われた彼らの信念であることは既に論じてきた。それがたとえ、丹精込めて育てた獣自体を滅ぼす矛盾を生ずることになったとし てもである。

 聖書は神のシナリオという見方から、西洋人やアラブ人は共通のテキスト の内容に畏敬の念で接し、歴史の流れの中に時の兆候を見る訓練ができている。世の矛盾に傷ついた多数の人々が心待ちにしている福音の実現を前に、生贄がど こかに用意される。神の慈手によって。そうした認識で世界が進んでいるのも、一つの実情ではあるまいか。

 バビロンの崩壊は一日にして来るというのだが、よく言われる大地震や大 噴火のような自然災害によるものよりも、これには獣が関与するというのだから、前話を引き継げば、かの「水位」操作が過激になされた場合の日本経済の崩壊 という事態を考えねばなるまい。あるいは、北朝鮮を(獣が)窮地に追い込んだ場合の報復的核という物理的な場合もあり得よう。だが、それが獣をも滅びに至 らせるとならば、経済システムの国際的リンクによって、連鎖的に世界を巻き込んだ大恐慌に発展するのだろう。

 もしそうなれば、世界各地で飢餓と難民の光景が溢れよう。世界は、背に 腹は代えられぬと新たな戦いを始め、二章で述べた「黄泉の国」のどろどろの世相となり、最終局面へと進んでいくという成り行きが想像される。

 次に、黙示録なら、最終戦争の後に、過去の忌まわしい天地が諸悪と共に 消え去り、憂いのない新天地が到来し、選民の永遠の生命の獲得が成るというハッピーなエンディングが用意されている。だが、古事記には、(古典的カバラに よるためか)形の良いエンディングなどは書かれていない。この辺が、世界観の洋の東西を二分するほどの違いを生む原因であるようにも思われる。


 

預言を超克するには
 既に見てきたように、古事記には超古代にあった文明の死と再生の教訓が受け継 がれている。その原因をなしたものをあからさまに糾弾し、それに組みした文明の末路を慚愧の思い出語っているのも事実である。心の平和や自然との調和を第 一義としてきた東洋思想と共通する下地を持っていると言えよう。

 聖書の文明には、神の下に人々を律法を介して強力に結びつけるという優 れた功績がある。だが、不服を言うとすれば、紀元前七世紀頃から突如現れた楽園復帰思想である。人間の心情として、この信仰の延長上には、環境破壊や戦争 が、人間の行為の不完全性ゆえに、起こりうべきこととして諦観されたり黙認されたりするようなことにならないのだろうか。

 また、黙示録では、環境への犯罪行為を積極的に行なう勢力を神の御使い とさえ位置付けている。ならば、環境破壊活動にいそしむ者は義となるのか。ヒトラーやフセインなどは、それを気取って見せた感すらあるのだ。その果てに、 神による救済があるなどとの考え方の先には、確かな破滅以上のものには成り得ないのではないかの感がある。

 いったい、預言、神の計画は、超克されてはならないものなのか。

 ならば、古事記序文において、天武天皇が、「心の鏡、煌々として明らか に先の代を見たまう」のように預言書であることを踏まえながら、一方で、世を指導する教訓として用いるとの方針は何だったのだろう。

 古事記を、預言を超える教訓として考え、将来時至らば、イザナギ精神の 主導と、ニニギ文明に石長姫の要素を加えるという見識に基づく勇断を発揮せよとのことではなかったのだろうか。

 天武天皇は、この道を明らかに模索されていたとみられる。カバラの曼陀 羅配置、平城京の「おにふ」回春の儀式、平安京の「平安楽土、万年春」の構想は、この意図に沿ったものと解せるからだ。つまり、古代皇室は、日本国土の経 営を始めて幾ばくかの後に、渡来以前の預言成就一辺倒の考え方を、前向きなものに改革していたようだ。おそらく、日本国土の肥沃さ、美しさを愛でられ、長 い歳月の葛藤の中で、より良い考え方を取り入れていこうとする伝統的な習合の精神によって、幅広い思慮と度量の深さを示されるに至ったからではないだろう か。

 だが、いつしか預言成就を諦観する勢力の影響力が上回ることとなり、破 局が訪れてしまった。戦火絶え間ないどろどろの世相となり、民は長く塗炭の苦しみを味わった。ところが、いくら待っても永遠の楽園は訪れなかった。その経 験を、日本はむかし済ませてきたのである。今の世界に、その轍を踏ませるべきでないことは明らかであろう。

 文明の質を表わす座標軸に、互いに相関するイザナギ、イザナミ軸と、天 つ神、国つ神軸があると考えれば分かり易い。日本はあの時点で、常勝(吾勝つ勝ち)の位を下りて国つ神となった。それはより劣るというのではなく、天つ神 は間違えれば世界を黄泉に導く火の神に成り得るのに対し、国つ神は間違わなければ地上を真に守護できる神なのだ。息の長いいわおの心で、生命を育て、慈し む。今、この理念が輝かなければ、地上にまともな明日はない。

 戦後、我々が選ぶべきは、欧米への迎合の道でなく、見せかけの華美を見 破り、文明の無計画無秩序な加速を少しでも改めて、日本の文化の良さを助長し、精神性の向上を促すことだったかも知れない。しかし、そんな後の祭りを言っ ても仕方あるまい。それより、これからどうするかだ。

 実際に、今でも遅くはない改善できることが我々には残されていると筆者 は信じる。それは、日本人個々の心の性向を利己的なものから利他的なものに改めることだ。

 たとえば、タバコやゴミをポイ捨てする心と、それをしない心には雲泥の 開きがある。そこには、高下、貴賤は全く関係しない。純然たる心の性向のみが観測される。その簡単に見える心の切り替えが、意外と難しいのである。

 それをさらに一歩踏み込んで、落とされたゴミを拾い上げる心を一つ得た ならば、たぶん地球は万の味方を得たことになるだろう。地球も意識ある生命体であると考えられる証拠は多々ある。心ある所には、今度は地球が応援をよこ す。自然災害も避けて通ろうというものだ。

 また、そうした心が集まれば、街の美化にとどまらず、日本を急速に環境 問題取組の模範国にし、公害輸出国の汚名の払拭ばかりか、諦観に満ちた世界に良識と希望を復活させて、それが日本を危機から擁護するものとなろう。そして 日本は、真の救世主を輩出すべき、太陽(日本)と月(?)と十二の星(?)で象徴される慈愛ある聖母の一翼を担う理想の国として輝くに違いない。

 その時には、古今の思想、科学、教訓が、生命系の維持を前提として習合 され、叡智の体系が築かれ、利権、武力、迷信を排した良識の府によって運営され、その統轄の座に、生命への深い造詣と温情を以てされる、日本の心の回帰点 であられる天皇が就任されるとすれば、民意はまとまり、世界に輝くことだろう。

 こうして、世界革命が始まる。それは、前代未聞のイザナギ革命となろ う。

 この時、預言とは、現実世界という実験炉の中で起きうる期待値であり、 大勢的な心の性向がこれを超克し、訂正していくものであることが分かることになる。これこそ、神が計画として仕掛けた試練を乗り越えた証、人類の集合意識 の進化の達成の証しとなるに違いない。 


読者に贈る究極のメルヘン
 ところが、現在のところ、天つ神も国つ神も方向を誤り、期待値通りに事が進ん でいるとしか思いようがない。このままでは、より困難な時代を迎えることになろう。地球は応援をやめ、紫外線量増加、酸性雨など環境破壊が生態系に対して 致命的となり、地震、噴火、天候不順が追い打ちをかけ、暴動や戦争、飢餓、過激な文明退行の動きありで、世相が騒然、混沌ともしてこよう。

 だが、こうしたことも、成り行きと捉えるしかあるまい。東洋思想もカバ ラもほぼ、現象の全ては行き届いた「天の配材」として存在し、神の計画を補完することとなるとしている。だから我々も、霊的自己の進化と存続を信じるな ら、物事に執着せず淡々として生きたほうが良いかも知れない。成るようにしか成らないのがプログラムなら、それをそれぞれの立場で演じ、自由な心で楽しむ ことであろうか。

  そうしたとき、古事記においても、考えられる福音が一つだけある。究極の時点に、唯一約束されている事柄があったことは憶えておられようか。大過去と今の 時代の間で、イザナギ神が今後人類がかかる難儀に遭遇したときには助けてくれと、桃の実(オホカムヅミ)に対して依託された事柄だ。

 それは神々との遭遇、恐らく未知との遭遇という事態となって再来する。 時代の最終局面、多分に世が大混乱を演じているような時に、桃の実(満つの状態で〓大宇宙船団)を駆って「青人草」の救出に現われることになっている。か ぐや姫物語から聖衆来迎思想、果ては世界の建て直し思想の原因となっていることは既に述べた。その後、神々は人類の生存環境の回復が完了するまで地上付近 に滞在するらしい。

 これは一般人にとっては戸惑いのある迷惑な話かも知れないが、ある者に とっては福音となろう。カバラは人の超人化に寄与する難しい修業体系を持つが、その下で修業することと比べれば、直接に神との会見を図ることは、その長く 地味な行程を短縮するものと考えないではいられないだろうからだ。つまりその時点に生き合わせることの特権である。

 その時おそらく、人間の、この小さな奇跡の惑星に存在する正確な理由が 分かるに違いない。また、この期間、神々しい高科学力によって、人は不死の恩恵を受けることがあるかも知れない。老化のプロセスは既にDNAの中に組み込 まれている。この因子を除くことぐらい、燃焼原理によらず宇宙を旅する異星人にとっては何でもないことであろうからだ。ノアの九五〇才も、あながち夢では ない。

 よって、今のうちに変化に順応する精神的準備を進めておくにしくはない というわけか、虎の巻的なUFOブームや恐竜ブームは到来し、去っていった。異星人には、爬虫類型もいるらしいのだ。

 矢追純一氏の報道によると、米国では既にこの会見の時点を先取りした か、秘教の資本が入り、もう何十年も前からそうした異星人の技術を導入して宇宙船の共同開発を地下基地で極秘裡に行なっており、軍の監視下で試作機を飛ば して、何度も地元民に目撃されているという。それがいずれ第二のノアの方舟となるのだろうか?(多大な燃焼を必要とする宇宙計画や、相対論は表世界向けの ゼスチャーなのか)

 また、その秘密基地の地下深くには、種々の生物を溶かした肉汁タンクら しきものが異臭を放っているともいう。次時代に向けての遺伝子保存のためなのだろうか?(ヌエやスフィンクス、人魚がまたも裏世界を彩るのか)

 秘教が歴史の開始時点だけでなく、終了時点をも取り仕切ろうとしている わけだ。

 ノストラダムスは「七千年(今時代の成就時点)には、別のものが王国を 築く。その時、自分の預言も終わりとなる」と言った。

 地上に昼と夜があるように、時間にも昼と夜があるのだろうか。人類の時 間が終わらなければ、神々の時間が来ない。神々は、自浄能力のない人類が撒き散らした塵芥を尻拭いしてくれる。そのかわり、夜明けとともに、また人類は強 い薬を嗅がされて目を醒ますことになるのだろうか。

 それでいいわけはなかろう?
 神よ、現しき青人草に寛容を示し給え。 


    











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